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この世界がどうして創造されたかという問題が、福沢の興味を引く事がなかったのは、その世界でより善く生きるにはどうすれば良いかという問題が、常に彼の念頭にあった為である。来世についても、これまで一度も考えた事がなかった。というのは、全ての人間に共通する確固たる、揺るがぬ信念を心の底に秘めていた為であった。つまり、動物や植物の世界には終わりというものがなく、肥料が穀物になり、穀物が鶏になり、毛虫が蝶になり、団栗が樫の木になるように、常に一つの形から他の形に変化して行くが、人間もそれと同じ事で決して滅びる事がなく、ただ形を変えるだけに過ぎないという確信を持っていた。彼はそれを信じていた為に、いつも勇敢に、寧ろ快活とさえ言える程度に死を直視し、死に至らせるような苦痛を毅然として耐え忍んでいた。だが、その事を他人に話すのは好まず、また至って話下手であった。彼は働く事が好きだった為、実践的な仕事に従事しては、そうした仕事に同志たちを引き入れて行く事になるのであった。
森の治療の恩恵が実り始めると同時に、小雪の意識はすっかり例の男に向けられていた。氷の刃宛らの鋭い眼光、深い孤独を抱えている福沢以外に、彼女には何も必要ではなく、それ以上に何も言う必要もなかった。今はもう、寂寥と悄然で彼女の人生に罰を加えるのも除くのも、彼の気の召すままであった。けれども彼は、自分の幸少ない運命に一と滴の哀れみを持ってくれている為、自分を見限る事はないであろう、と彼女は思った。初め、彼には何も言うまいと思っていた事を、彼に信じて欲しかった。もし、せめて時折、数週間に一度でも、此処で彼の目に掛かる事が出来、彼の声を聞き、彼に話し掛け、それから後は昼も夜も再び目に掛かる事が出来るまで、ただ一つの事を片時も忘れずに考えて過ごす事が出来る──そのような希望があったのなら、決して彼女は自分の恥を存じ得なかった事だろう。ところが、噂では、彼は周囲の人間から絶えず距離を置いている。一方、自分の事を言えば、彼を素朴に喜んで迎えしこそすれ、何一つ取柄のない病人なのであった──何故、貴方は私のところへお越しになったのでしょうね?さもなければ、忘れられたこの診療所の片隅で、私は一生涯貴方という方を存じ上げず、辛い苦しみも知らずに過ごしたでしょうに。時の経つままに、初心な魂の動揺を静めて、自身の心情に耳を傾ける事なしに、私の治療を続ける欺瞞と悪意に溢れた男を此処に見出し、慈愛とは無縁の人間ともなったでしょうに。他の男の方、いいえ、決して私は他の何方にも心を捧げはしなかったでしょう。
今までの自分の全生活は、福沢の目に掛かる為の抵当だったのだと、小雪には思われた。彼が神によって自分に遣わされた人、この世を去る日まで自分の守護者になる人とも。彼は以前から、時折彼女の夢に現われた。姿こそ見えなくとも、彼女は彼の接近を愛おしく思っていた。彼の眼差しが彼女を悩ませ、彼の声が胸一杯に響き渡っていた……いや、それは最早夢ではなかった。彼が見えた瞬間、その瞬間に、彼女ははっと気が付き、身体中が痺れて燃え始め、心中で『ああ、あの方だ!』と叫んだ。それもその筈である、彼女はずっと彼の声を聞いていたのだから。彼女が病室の窓から空を仰いでいた時、波立つ胸の憂いをどうにかして静めていた時、あの静けさの中で彼女と話をしたのは、他でもない彼ではなかったか。そしてまたあの時、透明な日差しを通してきらりと閃き、そっと心に寄り添った懐かしい幻、あれは彼ではないだろうか。喜びと愛を込めて希望の言葉を彼女に囁いたのは、あれは彼ではなかったか──あの方は何者なのでしょう?私の守護者、或いは狡猾な誘惑者なのでしょうか。是非とも私の疑惑を晴らして欲しいのです。事によると、こうした一切は虚しい幻、初な魂の迷いかも知れませんね。そして、全く別の違う運命が待ち受けているのかも……。しかし、それならそれで良いと小雪は思った。あの日を境に、彼女は自分の運命を福沢に預け、彼の魂の前に跪き、彼の庇護を祈っていた……。彼女は此処で独りぼっちなのであり、誰一人彼女を理解してはくれない。彼女の理性は病み疲れ、そうして彼女は沈黙したまま滅びて行かなければならないのだった──私は貴方をお待ち申しております。せめて希望の眼差しで、どうかこの心を甦らせて下さい。さもなければ、当然の報いたる叱責で、この辛い夢を引き破って下さいね。恥と恐怖で、消え入らんばかり思い切って私は自分を貴方に捧げる思いです。貴方の高潔な御心を当てにし、名も知らぬ貴方にお預け致します。
小雪は福沢を全面的に信用した。もう悪人を見る事につくづく嫌気が差していたのだ。後から思うと、それ程に心を開いたのは、森鴎外──未だ彼にも心というものが僅かにも存在した時分に話して以来だった。彼は死を遠去け、救おうとしてくれた。二度と街を歩けぬかも知れないと思う夜々、勢力の攻囲下にひしと手を握り、近付く銃声の合間に囁き交わしたものだった。彼が現在の地位を確立し、殺しを伴う野望に呑み込まれるまでの、彼を其方側へ連れ去るノックが訪れるまでに話した時以来だった。『君に我が身を擦り減らすような事はさせない』──福沢の言葉は雷のように小雪の心を打った。彼女は自分が滅びて行くのを、自分の健康が衰えて行くのを日々感じていた。ところで、自分のこの不幸は一体誰の罪なのか。悪魔の表情を帯びた一人の男が彼女にそっと囁き掛けたが、彼女にはどうしても、心の底から彼が悪魔だとは思えなかった。
その日の朝は、重苦しい予感に駆られたまま明けたのであった。この予感は、小雪の病的な状態でも説明出来たかも知れないが、彼女は余りにも漠然とした憂愁に捉われていた。それが彼女にとって、何よりも苦しかったのである。勿論、彼女の眼前には、重苦しく毒々しい事実が幾つも厳然として立ち塞がっていたが、しかし彼女の憂愁は、彼女が想起し想像し得る限度を越えて、遥かに深く根を張っていた。彼女は、最早自分一人の力では心を静める事が出来ない事を悟った。今日こそ自分の身の上に万事を決するような、何か異常な事件が起こるに違いないという期待が、段々と彼女の心に根を下ろし始めた──私には何と小さな場所だった事だろう。嘗て此処には神に祈る人と安らう人に溢れていた。あの先生は此処に私を連れて来て、希望だけは失わないようにと言ってくれた。此処には確かに、肉親から受けたような安心感と暖かさがあり、未だ幼い私を世間の嵐から守ってくれた。この隠れ家と穏やかな目に守られ、私は何も気にせずにいられた。私達の心同士が触れ合い、息と息が溶け合っていたとでも言うのだろうか……?小雪は立ち上がって窓を押した。窓はパタンと音を立てて開いた。彼女は窓がこのように軽く開くとは思わなかった。それに、手が震えた。暗い柔らかな夜が、殆ど真っ黒い夜空と、微かに葉を戦がす木々と、自由な清らかな空気の爽やかな匂いと共に部屋を覗き込んだ。

今、脱出行という惨めな結末を迎える事を思うと、小雪は癒し難い無気力に襲われた。死は確かに遠去かったにも関わらず、死は依然として自分に付き纏っているのに、これ以上努めたところで何の意味があろうと思った。寝台に横たわり、真面に自分の足で歩行する事が出来なかった彼女は、歩く速度を僅かに上げただけでも熱を帯び、息がとても苦しくなった。顔が妙に白く、それが漆黒の髪で一層強調され、浮かんだ笑みには、いつ点いたり消えたりするか分からない壊れた電球のようなちらつきがあった。しかし、そのような彼女が差し出した手を、福沢はその燃えるような手で包み、いつまでも離す事をしなかった。彼は彼女の身体を半ば抱えるようにして、ずっと傍にいた。するとその時、「だからいつも私は言っていたじゃないか。君と一緒になる男は、男の身にとって破滅だと。君にとっても矢張り身の破滅さ──いや、もしかすると、どの男よりも更に酷い破滅かも知れないがね」と、ある男が囁いたのが、逃避を決行している二つの心臓に届けられた。森の双眸には、こうして突然、自分から直々に、青天の霹靂の如く目の前に姿を現した暗殺者である自分に、彼女を奪われたと映っている事であろう。福沢は、そのような森が今この瞬間に何を考えているか知っていたし、また、もし自分が彼の立場であれば同様の事を考えるという事も自覚していた。愛のないこの世界は宛ら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や勇猛心にも辟易し、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求める時が来るのだという事を、我々は何よりも、自分の乱れ縺れた人生から余りにも知り尽くしている。恋を罪悪と見、罪悪は全て魂の重荷になるものと信じていた森は、自分の魂が圧し拉がれる事がないのを見て、それが恋とは思いも及ばなかったのであろう。小雪の全身全霊を貫いて輝き出る無上の幸福は、彼女が罪を知らぬところから来ている。彼女の内には、光明と愛があるばかりなのだ。
彼女を救う事の出来る人間、それは確かに森先生、君であったかも知れぬ。しかし、其処に未来は存在し得ない。無辜の人々を殺めた手で作り上げられる未来があるのみ。私は己の為、また彼女の為に一切の過去と訣別をする。だが君はどうであろう、君は全くの闇に自ら浸る事を選択した。君は人間を救う事の出来る、崇高な人間であるにも関わらずだ──小雪の精神力は殆ど無意識に、自分の恐ろしい境遇を見まいとする努力にのみ向けられていた。しかし、福沢は、このまま背中を向けている訳にもいかなかった。森がこの恋敵である自分へ向けて、何かを仕掛けて来る事は明瞭であった。福沢は、相変わらず他人の心の底まで見透かすような森の眼差しを正面から見据えた。福沢にとって掛け替えのない小雪、彼女が再びあの男に連れて行かれる、彼女をあの男に取り上げられるくらいならば、自分はこの心臓を掴み出された方が遥かに増しである。
「矢張りその娘と共にいる事ですね。貴方のお考えは最もですよ。そうしなければ、貴方には何か残るものがありますかね」
意地の悪そうに目を輝かせ、皮肉な薄笑いを浮かべながら、森は独り言を呟いた。福沢には彼が何と言ったのか殆ど聞き取る事は出来ず、この言葉の意図も掴む事が出来なかった。そして、次に彼の身に届けられたものは、鼻腔を貫く血の濃い匂いであった。彼が忌み嫌う程に脳梁を震わせた匂いの元は、恋敵である福沢自身ではなく、彼が大事に抱えている小雪であった。森は一本のメスを、凍て付いた空気に細波一つ立てず、彼女の首筋に刺したのであった。彼女の胸は鞴のように膨れ、心臓は鍵のように打ち、足は自分のものでないように蹌踉とした。小雪は眼を開けていた。福沢は、優しい顔が自分の方へ屈み込んでいるのを見、また、流動する熱で波のように動く表情の陰に、粘り強い微笑みが尚もまた現われたのも見た。しかし、その眼は直ぐに閉じられた──この有り様を見た時、彼の魂は竦み上がり、血管が凍る思いであった。忽ち胸中に湧いて来た、はっきりと見極めたくない不安が、彼の顔をハンカチのように蒼褪めさせ、もう二度と背後を振り返る事をさせずに、その場を辞させた。ただ森だけは、決し兼ねたように呆然と、いつまでもその場に立ち尽くしていた。