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The unknown citizen



死のような沈黙が全体を支配している診療所。其処の主の外貌は、完全にその気質と一致していた。骨にピタリと引っ付いた壮者らしい顔立ちは厳しい冷徹さを線に刻み、恐ろしい程に直截な印象を与える。ユーモアや気紛れなどは、策略以外には欠片すら見せようとしない。若くは見えても青年らしい血気さはない。年長者はそれを真面目さの現れと取るであろう。体格は細身で、運動嫌いのそれを現すものだった。自身の纏う服に関心がないのは、どのようなものでも着こなす程の体格でないと知っていた為である。といって福沢は、そのような冴えない風采の森が殺人者である事を思い出す事に困難を感じはしなかった。その身辺に纏わり付いている冷酷さ、強い自己満足の態度は明らかに殺人者の特徴である。森は完全に非情の男なのだった。その一方で福沢の宿敵は、ふとした瞬間に、唖然とする程に明瞭な、人間の顔貌を帯びた事があった。福沢がこの先、凡ゆる命を削ってでも追い詰める事となる定めの相手は、よもや獣ではなく、飛び切りの狂信者では更になく、悪の自動人形ではなかった。それは一個の人間であった。垣間見えたその破滅を福沢が実現するとすれば、それは愛情過多という以上の何ら禍々しいものが原因ではない。彼自身、自分の乱れ縺れた人生から余りにも知り尽くしている、それは人間の弱味であった。
宿敵の弱味が何か分かると、それを握らない手はない。そして、いざそれを握ると、あの冷徹な男の弱味が一体どれ程のものなのか、手を開いて確認する誘惑に駆られた。首領・森鴎外の頓着、痛み、残滓──それは、何も知り得ぬ存在であり、真摯に愛された存在であった。森が診ていたある一人の病人は、正に街の何処にでも存在する有り触れた人間であった。裏社会とは無縁の、その手の符牒すらも見落とす凡人。福沢の一瞥が捉えた最初のものは、彼女の灰色の眼だけであった。それも眼そのものではなく、その眼の動きだった。素早く動く深い眼差し、大胆な程に屈託のない、それでいて喪心と見える程に物思わしげな、謎のような眼差しなのである。その眼には、森と話している時でさえ、何かしら異常な光があった。彼女は病人であるにも関わらず、洗練された服装をしていた。彼女の眼に宿るのは、眠りつつ健やかに息衝く宝石の安らぎ──血で血を洗うあの男は愛した、それがあの男の弱さだ。
福沢は、その無情な男が彼女の眼にどのように映っているのかを考えた。森は自分ではつゆ知らずに、彼女の心の苛酷な暴君になっているかどうか定かではない。しかし、彼女が森にどのような感情を抱いているにしろ、悪の猿臂が届くところにいては、病魔とは異なるものに命を奪われ兼ねない。更に酷い事には、森を陥れようとしている輩は山を成す程に存在し、その為に利用されるかも知れない。ふとそんな考えが念頭を過った福沢は気も漫ろとなり、何一つ見向きもしたくない程に、憂鬱で物悲しかった。胸の中は冷え冷えとし、心は暗く、頭にあるのはただ不幸と見える彼女の事ばかりであった。時折見える、診療所の薄い窓にくっきりと映る女性。福沢に気が付くと、何か特別穏やかに彼の目を覗き込んだ。この仕草は、孤独者の心を顛倒させた。彼は其処に自分の運命の現われを見た。福沢は、彼女と言葉を交える事なしに辞し、横浜の華やかな夜へと溶け込んだ。ところが、彼女の事がどうしても頭から離れない。まんじりともせず、絶えず、どうしたら森から彼女を取り上げる事が出来るか、という事ばかりを考えていた。だが、妙案を思い付く事は出来なかった。何れにしろ、砂漠を越えてカインを追った神の目で、あの男が我々を追跡する事を覚悟しなければならなかった為である。

この二、三日続いた雷雨の後で、涼しい、爽やかに晴れた日和が訪れていた。雨に洗われた木の葉を透して来る日差しは明るく、大気はひんやりと冷え込んでいた。病気に罹ったそもそもの始めから、つまり、小雪が町医者である森の元で療養し始めた時から、彼女の生活は、互いに絶えず入れ代わる二つの相反した気持ちに等分されていた。 時に、不可解な恐ろしい死の期待と絶望に襲われるかと思うと、 時には希望の光が差して来て、自分の肉体の作用を観察する興味に満ちた気持ちが訪れた。また時には、一時は自分の義務履行を怠っている肺か心臓かが眼前に立ち塞がるかと思うと、また時には、どうしても避ける事の出来ない、不可解な恐ろしい死が辺りを満たすのであった。この二つの気分は、病気の始めから交互に入れ代わっていた。しかし、病勢が進むに従い、肺がどうかしているなどという考えは、次第に怪しく疑わしくなって行き、その反対に死が迫って来るという意識が、次第に現実味を帯びて来たのであった。三ヶ月前の自分と今の自分とを思い比べ、正確な歩調で坂を下っている自分の事を思い起こしただけで、凡ゆる希望の可能性が崩れてしまうのに充分であった。
最近、小雪が壁に面し、寝台の上に横になりながら、じっと浸り切っている孤独の中──人間の雑踏する都会と、無数の知人や家族の間で味合わされる孤独の中──海の底でも土の中でも、これ以上の孤独は凡そ何処にもあるまいと思われる完全な孤独の中──この恐ろしい孤独の中から、彼女はただ時々、瞳孔の幕も音もなく引き上げられた。その人物は森ではなかった。それは、日の光が差すと銀色に輝く髪を持つ、名も知らぬ一人の男であった。窓を通してのみ捉えた姿がその中へと入って行き、それは四肢の張り詰めた静寂の中を通り抜け、心臓に入ってふと消えてしまう。微かに耳にした声、森と話すその男の声は、ざらついた力強い声で、何とも深味があった。想像した外貌は正に、青銅の心と大理石の顔とを持った男だった。だが、視線が合ったその初めの一瞬、その男は驚いたような色を見せた。小雪は眼を離さずに男を見詰めたまま、自分でも何の為とも分からず、微笑を浮かべた。それ以来、福沢は孤独の中にいる小雪を引き上げる存在となった──この人は少し違う。もしかするとマフィアか殺し屋かも知れないけれど、あの人達とは違う。まるで善良な心を押し殺しているような、自分の感情の一切を圧しているような目をしていた。もし、この救いのない世界に光があるとすれば、それはこの人かも知れない、この人が自分を此処から救ってくれるかも知れない──それは現実遊離の一時であった。
福沢の姿を捉える事が出来た時には、昼は宛ら夜に似て侘しく、夜は昼のように味気ない悍ましさとは事変わり、小雪の心は一切は生気に満ち、壮麗な輝きに溢れた。木陰から歩み出て夕映えの浄福の光を浴び、微かな風の戦ぎがあった。何処にも「全て空し」と囁く声はなかった。
「君に我が身を擦り減らすような事はさせない」
この界隈は横浜という都会の皮膚に開いた毒々しい腫物の花であり、其処には常態でない全てのものが集っている。しかし、小雪は未だ一度も、このような男に出会った事はなかった。美しいが妙に無気味なお能の面のような顔が、いつまでも忘れ難く眼の底に残っていた。それは、いつものように視線が合い、僅かな微笑の交換をしてからの去り際、彼がまるで独り言のように言った言葉であった。それが誰に対して言ったものなのかは明確であった。事実、彼女の心は段々と黙諾の方へ流れていた。呼吸の一つ一つも、血の波動も、耳に鳴る脈搏の響きも、その悉くが本能と一緒になり、彼女の遠慮深さに対する反抗の声となった。秘密の多い男には何事も打ち明けず、露見したらした時の事として、向こう見ずに恐れる事なしにあの男の手を取ってしまい、苦しみの鉄の歯が自分を噛み潰す余裕のない内に、熟れた幸福の果実を摘み取る事──それが、恋の勧めるところであった。そして、殆ど恐ろしいまでの歓喜に浸りながら、小雪は幾日もの間、一人で自分を責めたり、苦闘したり思案したり、将来厳しく孤独を守ろうと計画しては来たものの、結局は恋の勧めが勝利を占めるだろう、と推断したのであった。
他人の心は闇であり、福沢自身の心もまた闇である。いや、少なくとも、多数の者にとって闇である。殆ど無意識の内に、彼女に言ったあの言葉はとても敬意の籠ったものではなかったか。あの言葉は己の生涯で最も苦しかった瞬間に、己の胸から自然に溢れ出たものと言って良い。俺はあの時、何か光明でも思い出すように、ふと彼女との未来の事を思い出したのだ、俺は……──今、それは彼の胸に迫って来ていた。殺戮の海を越えて漂って来る。愛らしい腕を上げ、巡りの闇から彼に向かって来る。魔法を解かれた者のように彼は息付き、しかも、いや増しに呪縛されるのだった。凝然たる時間の中で、彼は幸福の鍵を握っていた。彼女の姿、あの不可解な、殆ど絶望した、しかし魅力ある面影が、余りにも深く彼の心の中に宿ってしまったのだった。

Jodeci - Come & Talk to Me