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Think not thus away to escape all alone without me



*ヤマト暗部時代(テンゾウ)

忍の世界では、安全と極度の危険の間の壁は殆どないに等しく、瞬時に裂ける薄膜でしかない。相手を何年も付け狙い、最後の突きの瞬間まで泳がせて置く。だが、突きそのものは破滅か勝利か、その何方かへの跳躍である。恐らく殆どの忍は、今も昔も変わらず、勝利ではなく破滅と向き合っている。そして今、この三日間の内に──それとも二日か、或いは五日なのか──テンゾウは身辺に危険が、自分の死の床に影が群がるのを見るように、じわじわと迫るのを見たと確信した。絶対的な危険、彼が増やしも減らしも出来ぬ危険。今日、この日の朝にも、彼はそれを見た。目が慣れて来るに従って、段々と微細な点が分かって来た。酷い力仕事をした後の脱力した格好で、そのシャツの袖口に、点々として赤い染みの付いている事が分かった。血だった。よく見ると、剥き出しの腕には川のように恐ろしい血の跡が凝固していた。テンゾウの脳裏には、敵の吹き飛ばされた顔と、これら生ける者の青白い顔が入り混じっていたが、しかし、死は今のところ彼にとって衝撃ではなく、彼自身の命も段々と細まりつつある事の確かめでしかなかった。現在生きているのも、分の良くない賭けなのだ。彼は何の予想も期待もなく座り続けていた。手で触れている草木や凭れ掛かっている大樹、戦ぐ木の葉の隙間から差す日の光などは、彼の死とは全く無関係なところにあった。しかし、それらを眺めてはいた。そして、昔の記憶を思い出していた。危機というやつはいつもこうだな、と彼は思った。核心のない、詰まらない野心ばかり。一人は作戦を立て、一人は死んだも同然、もう一人は其処ら中を駆け回っている。落ち着きのない、無為な所作。また一つ死が増えた、とテンゾウは悲しく思いながら、束の間、心を彼の破綻した生活に繋げた。故郷の街、運命の中にいるにも関わらず明眸と廉潔さを持ち合わせた女性、他人の心に触れる事を避けている小雪が思い出された。
僕は死に対して、誰よりも、随分と幼い頃から慣れ親しんで来たつもりだ。死を望んだり憎んだりしている内に、随分と時間が経ってしまった。だけど、いつだって死は僕の身体を通り過ぎ、その猿臂が届く事はない──微かな気配が遠くから、木々の中を素早く駆け抜け、此方へと近付いて来る気配が感じられた。敵ではなかった。根拠はない。だが、テンゾウの意識が幾度となく捉えた、一定の速度と操る脚の癖、木々の揺らぎ方が、この世でたった一人の到来を知らせた。彼の耳に吹き付ける風の何と朗らかだった事か。顔を大空へ振り向けて、その輝かしい光明と淡い色を、開け広げた魂の底まで深く吸い込んだ。小雪が来てくれた!僕の小雪が、僕の愛する人が来てくれた!君はなんて綺麗で叡聖な人なんだろうね?僕は未だ死なないよ、どうしても死ぬ訳にはいかない。君の顔、僕が好きで好きで堪らないその顔を見るまでは──しかし、彼女のその表情が幾分硬いものであった為、テンゾウは直ぐに自分の嬉しさを抑えに掛かった。そうでなければ、彼女との再会を無闇矢鱈に喜んでいたところだった。実際のところ、彼が嬉しさを感じたのは死から救ってくれた事に対してではなく、彼女が自分の事を少しでも気に掛けてくれたのではないかと思った事に対してであった。
「僕と別れてから、人並みに愛情を覚えたのかい?」
小雪の、根から正規部隊育成であるアカデミーへの編入は思い掛けない事であった。根にいる人間は、羨望を胸に外の世界へと出たがる。だが、凡ゆる犠牲を強いられた生活からいざ脱すると、今度は日陰を見た事のない人間との生活を強いられる。親族があり、帰る家があり、自身の生まれの根源を見る事が出来る人間。根に所属する殆どは、それらとは何ら縁がない。彼等は馴染む事が出来ずに、結局は散り散りになってしまうのだ。彼女との別離とは何かを、テンゾウは痛いまでに思い知ったのであった。そして今も、ありありとそれを感じていた。暗く耐え難い、惨い或るもの。それは美しく結び合わされたものをもう一度示し、差し出し、そして引き裂いてしまう。君のその心に、突然優しさが宿るなんて事はなかった──誰なんだろうね?その心に火を点けたのは。一体……誰なんだろうね。夢心地に誘われながらも、一人の子どもは自分の事さえ弁えて身を屈め、息を潜める。そして成長し一人の女となり、一人の男に愛される。その時、愛の与える力の不思議さ、愛の与える知識の深さが此処に生まれる。孤独な子どもの胸にも朧ろげに予感されていた様々なものが、その男の眼差しや吐息の中で深く思い出されて来る。彼等の言葉の中にそれは潜んでいるのだ。テンゾウは漸く今頃になって、今朝の出来事の印象がすっかり自分という存在を激しく揺す振っていた。小雪の肩を借り、地面から起き上がった後は落ち着いていた。ただ心が痛んだ。胸の底で自分の魂が震え慄き、蠢くのが感じられた。
「木の葉の土となるんじゃなかったの、木遁遣い」
小雪はキノエとテンゾウの気に入った。彼女についての世間の噂、彼女の何にも束縛されぬ自由な考え方、彼に寄せている迷いのない信頼全てが彼に好都合のように見えた。ところが彼は間もなく、彼女は"落とせない"事を悟った。しかも彼はそっぽを向く事も、驚いた事に一度も出来なかった。彼女の事を思い出すと忽ち、彼の血はかっと燃えた。彼は自分の血を静める程度、訳なかった筈なのだが、何か別のものが彼の内部に根を下ろしてしまっていた。それは彼が絶対に許さず、いつも嘲笑を浴びせていたもので、それが彼の自尊心を掻き乱したのである。同僚の誰かと恋愛の話にでもなろうものなら、彼は一切の現実離れした空想、所謂ロマンチックなものに対して、前より一層冷たい眼差しを浴びせるようになったが、一人切りになると、自分自身の中にロマンチストを意識して、腹を立てるのだった。
そんな時、テンゾウは森へ出掛けて、"落ちてくれない"小雪の事や、彼女を"落とす事が出来ない"自分の事を念頭から追い払う為に修行や読書に打ち込むか、或いは、強情に目を瞑り、無理に眠ろうとするのだが、勿論、いつもそれが出来る訳ではなかった。そして、不意に、いつかあの清らかな腕が自分の首を巻き、あの誇らかな唇が自分のキスに応え、あの聡明な眼が優しさを込めて──そう、優しさを込めてじっと自分の目を見詰めてくれる日が来る、そう思うと頭がくらくらっとなって、一瞬我を忘れ、またはっと気が付いて憤然とするのだった。まるで悪魔に揶揄われているように、彼は凡ゆる恥ずべき考えに囚われている刻々の自分の姿を捉えた。どうかすると、今、自分の身体を支えてくれている彼女にも変化が生じたように思われて、顔の表情に何か今までになかったものが現れたような気がした。もしかしたら……だが其処で、彼は歯を食いしばり、地面へと滴り落ちて行く血で自分を脅し付けるのだった。幸福な魂が、愛の放射によって幸福をその身の周りに振り撒くのと同様、彼女の周りでは何もかもが暗く陰気になる。彼女の魂は黒い光を放つとでも言うだろうか。
「寂しいよ、昔の君じゃないみたいで」
「なに、死にたかったの?」
うん、死にたかったよ。ちょっとでも君が悲しんでくれるかなと思って。僕の死を思って、最期まで報われなかった僕を思って、永遠に僕の事を忘れないで欲しかった。でも、君はそんな簡単な人じゃないからね。きっと君は悲しんではくれるだろうけど、僕を忘れるだろうね。僕は不幸せなんかじゃない、こうやって最期に君の手で僕を運んでくれるならね、僕は全然不幸せじゃないんだ──小雪は他人の気持ちを察する事は出来ても、それを汲み取る事が出来ない。彼女はずっと、他人と自分の心情を共有する事を諦め、避けていた。殆ど壊れ掛けていた。救いたかった、僕のこの手で。この非力な手で、君を幸せにしたかった。
「僕、君の為なら死ねるんだ、もう分かってる事かも知れないけど」
譫言は幾らでも、何の所為にでも出来た。チャクラ切れとも、発熱や出血の所為とも、或いは小雪の心を奪った男の所為とでも。言葉は、自身の考えを隠す為に与えられたものだと教えられた。だが、もう止め処がなかった。走り出した想念は、テンゾウをそっとして置いてはくれなかった。だが、「君が好きだ」とは絶対に言うまいと、それだけは言うまいと決心した。
「ね……僕を信じて、君を救ってあげるからね」
君は独りぼっちだ。だから僕が傍にいてあげる。だから考えないで、一人で僕から逃げて行こうだなんて。テンゾウは想いに陶然と身を委ね、幾度となく微笑んだ。そうだ、これからも小雪は僕の活躍を、見事な救出劇なんぞも目撃する事になるだろう。最初から最後まで立ち会い、英雄のように現われた僕の一挙手一投足を、誇らしく見守ってくれるだろう。小雪、小雪、僕の生涯の一瞬一瞬が、言葉にならないまま、ひたすら君に捧げられている事を知っているのか?君の友、いや恋人になって君の歩く道を、君が転ばないように手を取って導いてあげたい。僕は……僕は何でもするよ、君の為に人を殺めて来たようなものなんだからね。だから──僕を救って。居場所が何処にもなくて独りぼっちの僕を、僕を救ってよ。もうテンゾウに話をさせるどころではなかった。今や小雪は、彼を支える薬であった。彼は彼女の肩に、まるでそれが自分の孤独の海に浮かぶ最後の救命であるかのように縋り付いた。
「直ぐに着くから、気をしっかり」との、小雪の慎ましやかな声。テンゾウは、まるで頭をがつんと殴られたみたいに、何一つ考えを纏める事が出来なかった。だが、彼女の声と自然の空気が気持ちを幾分爽やかにしてくれた。君はただ僕の姿を見上げて、僕の目を見てくれるだけで良い。僕は外で命を削り、心中では君を想い、それで以て日がな一日、君の悲しげな美しさを称える。君はただ愛を材料にして、真っ白で傷だらけの手を持ち上げるだけで良い。それを見た僕の心は騒ぎ、仄暗い砂浜に出来た蝋燭のような泡も、夜空に上った星の明かりも、ただ君の足元だけを照らす事だろう。僕の削られた命も忽ち蘇生し、益々君という人間を愛する事だろう、愛する事だろう……──テンゾウは顔を上げた。火の国の街並みに見る微かな色。他には何もなかった。何一つない。考える事もない。あるものはただ、激しい苦痛だけ。

Dream, Ivory - Welcome and Goodbye