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I’m your angel



ヤマトは非常に沢山の夢を見た。しかも、それは彼を不安に感じさせるものばかりで、彼は絶え間なく心を震わせていた。軈て一人の女性が傍へ寄って来た。彼はその女性を知っていた、悩ましいまでによく知っていた。彼は立ち所にその名を呼び、その人だと断言する事が出来た──ところが不思議な事に、今の小雪の顔は、いつも見慣れているものとは全く違うもののようであった。そして、それをあの彼女の顔だと認める事が、彼には死ぬ程に嫌だった。その顔には、悔悟と恐怖の色が溢れており、たった今から自分に酷い事をするかも知れないと思われる程だった。涙がその蒼褪めた頬に震えていた。その女性はヤマトを片手で招き、そっと後から着いて来てと知らせるように、指を唇に当てて見せた。彼の心臓は凍て付いたようになってしまった。彼は例えどんな事があろうとも、この女性を罪人などと思いたくはなかった。この女性が、自分の心を容易に八つ裂きに出来る人だと思いたくはなかった。しかし、彼は今直ぐ何かしら恐ろしい、自分の生涯を左右するような事件が、起こりそうな気がしてならなかった。どうやら、その女性は遠からぬところにある何ものかを、彼に見せたいような素振りであった。彼は彼女の後に着いて行くつもりで恐る恐る立ち上がった。すると、ヤマトの眼前に開けたのは、同じ時間を過ごした頃の嘗ての思い出であった。
『きみ、根を抜けるって?』
『うん』
『なんで?』
『分からない。ただダンゾウ様の命で』
『じゃあ、下忍試験も"あっち"で受けるの?』
『多分ね』
『そうなんだ。でも君なら、中忍試験でも受かるね』
最も、ヤマトが言いたかったのは何か別の事だった。彼は小雪に対する自分の感情を、その頃の彼の全存在を満たしていた生の喜びの一つの現れと感じ、それを偶々この少女が共感してくれたのだと信じ込んでいた。しかし、その彼女がいよいよ立ち去る事となった。 彼女の僅かに気の落ち込んだ表情を見た時、彼はもう二度と帰らぬ、何か美しく尊いものを手離してしまったような気がして、とても悲しかった。何かしら重苦しい不愉快なものが、二人のヤマトの胸をちくりと刺したように思われた──小雪が行ってしまうぞ、日の光が当たる世界へ。一度其処へ出ると、もう二度と戻っては来ない。キノエ、彼女はもう君の元へなんて戻って来てはくれないんだ。君はどうすべきか分かっている筈だ。でなければ、でなければ彼女の為に、無限の苦しみに耐え忍ばなければならなくなるんだよ。
『最後に、君の本当の名前を……』
世界の終わりかと思われる大地震、大雷鳴の中から、惨めな現実がボンヤリと浮き上がって来た。この記憶が未だ痛みを呼ぶのは明らかだった。ヤマトは、自分があの当時のような若々しさと、純潔さと、大きな可能性に満ちた未来を持った人間になったような気がした。しかし、それと同時に、夢の中でよく経験する事だが、それが最早現実ではない事も承知していた為、彼は堪らなく侘しい気持ちになった。目を覚ました彼は、まるで熱病にでも罹ったような異様な、得体の知れぬ混沌を成しており、この上もなく矛盾した感情や想念、疑惑や希望、喜びや悩みが旋風のように渦巻いていた。

今回の高級任務が、小雪の存在を自分の念頭からすっかり消し去ってくれるかも知れない、という考えがいつものように浮かんだが、ヤマトはそれまでにどうしても訪問したいところがあった。任務の集合時間を大幅に延ばす危険を冒してまでも、是非寄ってみたくて堪らないある家を探しに行こうと決心したのである。最も、この訪問は彼にとって幾分危険を帯びていた。彼は暫く思い迷っていた。彼はこの家について、それが里の中心から離れたところにあるという事だけを知っていた。彼はその傍まで行く内に最後の決心がつくだろう、と考えて歩き出した。十字路に近付きながら、彼は胸が異常に高鳴っている事に我ながら驚いた。心臓がこれ程までに激しく動悸するとは思いも掛けない事であった。すると、一軒の家が、風変わりでもなく凡庸な外観を持つものが、かなり遠いところから彼の注意を引き始めた。彼はその時に何か独り言を言ったが、自分でも意識はなかった。彼は自分の勘が当たったかどうかを確かめる為に、異常な好奇心に駆られてその家へ近付いて行った。もし自分の勘が当たっていたら、きっととても不愉快な気分になるに違いない、と彼は思った。その家は目立たぬ色で塗られた、少しも飾りのない、陰気な印象を持たせる大きな二階建てであった。移り変わりの激しい里にありながらも、全く旧態依然として残っていた。壁が厚く、窓が少なく、とても頑丈に建てられている──それで、僕は一体何をしに此処へ来たんだ?小雪に会ったところで、真面な会話なんぞ出来やしないのに。だって彼女は……だって彼女は……。ヤマトは踵を返そうとした。だが、その暗い大きな目に小雪の姿が入ると、 彼は暫くまるで雷にでも打たれたように立ち竦んだ。頭は軍鼓のように鳴り響いた。彼女の存在が、自分の念頭からすっかり消し去ってくれるかも知れないという考え。愚かだった、と彼は絶望した。そんな事は今の今まで成功した試しがないではないか。まず、その為に彼女の家を探しに行くだなんて、その時点で自分の魂は彼女から離れられてはいないのだ。
「──どうしたの」
小雪はヤマトの顔を見ると、途端に安堵したような表情を浮かべた。しかし、もっと経験に富んだ眼ならば恐らく、この思い掛けない客の、相変わらず精力的ではあるが窶れの見える姿に、心の動揺の印を見て取った事であろう。喉に渦巻き始めた熱の波が、彼が口に出そうとした幾らかの言葉を掠れさせてしまった。無益な、不要な言葉を繰り出す前に、自分は此処から、一刻も早く、立ち去らなければならない。僕にすべき事は彼女から離れ、彼女に背を向け里から立ち去る事だ!しかし、あの夢想の女性が、夢見る男の目にはただ一つの姿と映り、ただ一人彼女の姿に溶け入った。
「取り敢えず、中に入る?」
「いや、良いんだ」
其処で小雪はやっと、ヤマトが自分に素早く投げ掛けた、火のような、物問いたげな視線に気付いた。彼自身の顔に何か特別な、何か明から様な表情がちらりと浮かび上がった。彼はそれを自分で隠す事が出来ておらず、彼女は些か驚いた。選りに選って彼が、こんな夜更けに自分の家にまで来て、そしてその選択をたった今後悔しているような表情を見せるなど──彼は報いを知らずして育ったにも関わらず、嘆きに無関心なように彼女には見えた。その代わり彼は、森や小川、野原や広い沼地で、どのような風の、どのような鳥の歌う声でさえ聞き逃す事をせず、それらにじっと聞き入っていた。小鳥が巣から落ちると拾い上げる彼の心は、正に許される限りの清らかさで澄み渡っていたと言って良い。キノエは、小雪が最初に出会った"美しい人間"であった。彼は、彼女の微動だにしなかった心を動かした。周囲の全てと異なる、遥かに美しいもので以って。世間には深い感情を持ちながら、何か抑圧された人々が存在するものである。そういった人々の道化行為は、長年に渡る卑屈ないじけの為に、面と向かって真実を言う事の出来ない相手に対する、恨みの皮肉のようなものである。しかし、彼はそれではなかった。
暖かな明るい夜であった。右手には利鎌のような新月が高く掛かっていた。月と反対の方には、ヤマトが内心、嘗ての自分の幸福と結び付けている、かの彗星が輝いていた。彼の心臓は、自分の耳にも聞こえそうな程に激しく鼓動していた。その呼吸は止まったかと思うと、また急に重い吐息となって迸り出た。
「今すぐ別れてくれたら、」
「……ヤマト?」
「今すぐガイさんと別れてくれたら、丸く収まるんだ」
嘗ての夜。人々がすっかり寝静まったある夜に、即席で建てられた家屋の中、開け放った窓の前で、小雪はダンゾウ宛の手紙を書く為に起きていた。外では寝ずの番をしているキノエがいた。彼が未だ小さかった頃である。木々からは良い匂いがし、風は暖かだった。『こうしたものをお造りくださったことに感謝します』──何かとても綺麗なものを見たのだろう。彼がそう呟いたのを彼女は覚えていた。また、違う日には、『こんなうつくしい夜をお造りくださったことに感謝します』──と、キノエの清らかな魂の声が遠くの方から届いた。草地に座り、両膝を抱えて夜の晴れた空を仰いでいる、とても小さな、物悲しい背中が小雪の眼に浮かんだ。彼女は淡々と筆を進めながらも、心中で彼と同じように、『こんなうつくしい夜をお造りくださったことに感謝します』と呟いた。彼女は、ヤマトを正面から捉えたが、その目付きには何か特別なものが感じられて、彼女をはっとさせた。
「なんで僕じゃないの?僕は……こんなにも君の事が好きなのに」
不意にヤマトは、今日までの数年が何百年であれば良いと思った。小雪の顔が、一度も胸に迫って来なければ良かったのにと思った。この人を愛さず、この人を心に掛けず、この人の為に家屋なんぞ拵えず、この人の為に精進なんぞせず、この人の傍で束の間の幸福になんぞ酔わなければ良かった──あの暗澹な世界で、二人は運命の慈悲に縋って生きていた。自由に生きる権利を奪われ、他に何もする事がなく、残されたのは忍術と殺し、そして途轍もなく長い夜だった。
ヤマトには、自分の心に起こったこの息苦しい興奮をどのように言い表して良いか分からなかった。彼はただ、自分の頭を小雪の心に当て、また、彼女の額に我が心が流れ出して来る自分の唇をじっと押し当てていたかった。慰めが欲しかった。愛と憐れみ、また感激や犠牲、徳行といったものが雑然と入り混じった感情に陶酔しながら、彼は全心から何ものかに訴え、我が一生の目的はこの彼女を、恐怖や不幸、死の生活から守ってあげる事の他にないと思いながら、自ら進んでそれに当たろうとしていた。ヤマトは祈願の心に満ちた。彼は、小雪を定めから庇うように抱き締めたかった。彼の耳に、彼自身が聞き取る事の出来ない程の声でこう言うのが聞こえた。
「貴方は今、私の影に恋をしているのよ」
「影にではないんだ、小雪」
「その心に描いている姿に」
ヤマトは物憂げな、しかし男らしい声で答えた。だが、辛うじて一心に小雪の方を見詰めたまま、黙っていた。立ち去ろうともせずに、顔を真っ青にしてじっと立っていた。軈て、「悪かった、どうかしていたよ僕は」と、血の気の失せた唇を震わせて呟いた。突然、痙攣のようなものがその顔に走り、彼は溺れる人のように目を閉じた。
ヤマトは自分自身を何処へ導きたいのか、未だに分からないようであった。ある時には真実に触れる事が出来る程に近付きながらも、次の瞬間には火傷が怖いと言わんばかりに遠去かる。果たして彼の中で、どのように終わりを告げたものやら、小雪には見当も付かない。ただ、彼はまるでこの夜から逃げ出すような足取りで歩いて行った。彼は両腕をぎゅっと抱え込んでいた。魂が抜けたようになっていて、道に石ころが一つあっても転んでしまいそうだった。あの沈んだ、殆ど悲しそうに見える様子に対する彼女の仕打ちは、彼女自身の胸の内に影を落とす事となった。彼は何故、このような人間を愛してくれたのか。邪悪さに溢れ、私は思い起こされる数多くの汚れた行いも、更に酷い、これからやり兼ねない行いもある。貴方と出会い、貴方の美しい心を覗き見た私は、それでも貴方のように落ち着いて自然を眺め、昼も夜も命の喜びを呑み込み、心静かに死を待ち受けている。私の愛する人へ向けての優しい限りない私の愛の為に、そして、また私へ向けてのその人の限りない愛の為に。

R.Kelly - I’m Your Angel ft. Céline Dion