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The coming emptiness



このたった数日の、小雪と過ごす夏は素晴らしいものであった。凡ゆるものに空の青さが染み込んでいるように思われ、ヤマトの気力は不幸や死などを征服してしまっていた。何処にでも付いて回る暗い影は彼から退いて行ってしまっており、朝が来る度に彼は喜びによって目を覚ました。このたった数日間だけは、彼女は彼のものだった。彼女の姿を目に映す事の出来る者は彼だけであり、彼女の呼吸や眼差しを看取し、彼女の天より授かった声を聞く事の出来る者は彼ただ一人であった──馥郁と匂う薄暗い寂しい森の中に、ランプが一つ淡く灯っていた。時折揺れる草木や葉の間からは、心を騒がせる爽やかな夜気が忍び込み、夜の神秘的な囁きが聞こえて来た。ヤマトはじっと身動ぎもしなかったが、密かな興奮が次第に胸の内に広がり始めた。しかし、それが小雪に伝わる事はない。彼は不意に、若い、美しい女性と二人切りでいる事を感じた。彼女は大樹に身体を預けていた。彼女は時折顔を少し上げ、まるで瞑想に沈むかのように、丸い月に視線を転じた。懐の中では、人間の中には……古い愛情がいつまでも生きているものだと、ヤマトは密かに驚いた。
「全く……任務中に読書なんて、君だけだよ」
「今回だけ。誰にも言わないでね」
「一体誰に言うんだ、ダンゾウか?」
「ハハッ、怖い怖い。でも、杖で軽く突かれるだけだと思うよ」
「君の中のダンゾウは随分と寛容なんだな。もしや、大蛇丸に自分の情報を売られなかったから、調子に乗ってるね?」
「うん、余裕こいてる」
「こらこら」
ヤマトは小雪の安逸な声を聞いた。天より授かった声、聞き覚えのある、気持ちの良い、静かで落ち着いた声。親しげで、決して昂らぬ声。愛する人の心の上に身を屈め、その心中に、丁度鏡の中に見るように、其処に落ちている自分自身の姿を眺める事が出来たら。相手の人の心中に、丁度自分自身に於けるように、いや、自分自身に於けるよりも、もっと鮮やかに、自分というものを見付ける事が出来たら、それこそ何という安らかな愛だろう。何という清らかな恋だろうか──根に所属していた時の小雪は、他人を自分に近寄らせる事をさせない子どもだった。仲間を仲間と見ない計算済みの無関心さ、全てがヤマトの経験して来た世界とは何里もの隔たりがある形式主義。気のないような微笑、事柄の裏を読む思慮深さ。そして、無意識の内に顕となる自傷。抓んだ手首の皮膚は感覚を失くし、彼女は指を離して一度血行を戻し、それから再び抓む。何か考え事をしている時、彼女は手首を抓り続ける癖があった。それを見掛ける度、彼女の名が頭の中で、血の止まらぬ傷口のように疼き、彼は、今直ぐに自分の助けを必要とする彼女の重大問題をあれこれ思案したのだった。
『きみ、お父さんやお母さんはいる?』
『いないよ』
『普通の子どもはね、子どもが悲しんでると、お父さんやお母さんが抱きしめてくれるんだって』
『なんかそれ、里で見たことある』
『やってみようよ。僕も、されたことないんだ』
小雪がおらず、一人ぼっちになる間にも、ヤマトの精神の内部にある種の操作が行われていた事は疑いもなかった。何故なら、次に一緒になる時には必ず新たな驚きを味合わされ、彼女から彼を隔てている闇の層の薄くなった事が感じられたからである。緩む空気と春の根強い営みが、次第に冬に打ち勝って行くのも、矢張りこれと同じなんだと考えた。あの雪の解けて行く様に、彼は幾たび驚嘆の目を見張った事だろう。彼には、彼女が何処へでも自由に、彼の前に立って進んでくれているように思われた。彼の心は彼女次第で、その方向を定めていたのだった。
「灯り、要るかい?」
「ううん、星の光で見える……けど、場所を変わって貰っても良い?少し暗くて」
「良いよ」
小雪は、元いた木の枝からヤマトのところへ軽々とやって来た。二人分の重荷で枝が揺れ、辺りを埋め尽くしていた静謐な空気に細波が立った。彼は自然と、少し立ち上がって手を差し伸ばした。血の気の失せた青白い手が、同様の色をした手を正に掴もうと──すると、彼女は「ありがとう」と言った。彼女の二つの手は、質朴な男の手に捉われる事なしに本を抱えていた。彼女は微笑んだ。目蓋を半ば閉じて。長い睫毛の陰で、瞳の色が深みを増す。彼は至高の喜びの囚われ人の如く、高鳴る鼓動に我を忘れた。彼は自身の手を元の場所へ戻した。ヤマトの記憶にある当時の小雪──完全に内に籠って近寄り難い。厳しい内省の雰囲気を醸し出し、余程勇気のある人間でないとその夢想を妨げる事は出来ない──に比べ、今の彼女は一段と萎びた印象だった。彼は斯も大いなる生と対峙し、美しい星々の大いなる輝きと、斯くも近しい陶酔に浸されていた。酔い痴れた彼が、手を差し伸べるのは如何なる未来か。いや、何れにせよ未来は漂い寄せて来る、もう触る事も出来る程に。
「君は変わったね」
「そうかな?」
「君はとても無口な子だったから。今とは想像が付かないよ」
「お互い、こっちに異動して良かったかもね」
『良いんだ、僕は、君が幸せなら』と小さな声で、殆ど独り言のように小雪に告げたヤマト。一瞬、彼の表情に喜びが過ぎった。しかし、それもほんの一瞬であった──時々、山の姿がちらと頭に浮かんだ。最も、山といっても、彼にとって馴染みの深いある一つの場所だった。それは、彼が未だ根に所属していた時分、毎日のように出掛けて行っては、木の葉隠れの里を見下ろした場所だった。其処から更に下方には、白糸のような滝や白い雲、棄てられて顧みられる事のない寺が見え隠れしていた。彼はどれ程に今、その場所に立ち、ただ一つの事を思い続けていたかった事だろう。一生、その事ばかりを思い続けてていたいと思った事だろう。その事一つだけを、千年の間考え続けていても決して長くはないとさえ。そして、此処の人達が、自分の事など忘れてしまっても良いのだ、いや、それで良いのだ、寧ろその方が却って都合が良い。もし、この人達が全く自分の事など知らずにいて、この幻影が唯の夢であったなら。だが、もうそんな事は夢であろうと現であろうと、どちらにしろ同じ事ではなかろうか。ヤマトは小雪を見詰め、その顔から視線を離さないでいた。だが、その眼差しは余りにも奇妙なものであった。まるで自分から何里も離れているところに置かれた物体か、或いは彼女自身ではなくその肖像画でも眺めているような目付きで、彼女を眺めていたのであった。
「──ねえ、小雪。僕とこのまま、此処にいない?」
話を簡単にする為にまず言っておくけどね、僕は里の人達や君に対する熱病に出会すずっと前から、既に何かに苦しめられていたんだ。というのは、まあ、つまり、実験体であった僕も、世間皆と同じだという事なんだが。しかし、世間には、そういう事を知らない連中もいれば、そういった状態の中で心地良く感じている連中もいるし、また、そういう事を知って、出来ればそれから抜け出したいと思っている者もいる。僕は、いつも抜け出したいと思っていたんだ。いつもいつも……。
「此処で暮らそうよ、僕と」
何れの月に入ろうとも、ヤマトは季節そのものを忘れていた。彼の、殆ど悲しみと言ってもいい感情は、崩れた腫れ物のように心の中で疼き、それが絶えず苦しい、自覚した思いとなって現われていた。彼の一番の苦悩はといえば、小雪が彼の素姓に気付かず、しかも、彼が苦しい程に愛していた事を知らないままに生きて、死んで行く事だった。これ程の美しい明かりに照らされて、彼の前にちらりと覗いた人生の目的の全てが突然、永遠の闇の中で輝きを失ってしまった。彼は絶えずこの事ばかりを考えていたが、その人生の目的というのは他でもない、彼女が日々刻々、全生涯を通じて常に自分の愛を感じてくれる事だった。誰にしたところで、これ以上の目的というものはないし、有り得ないと彼は暗い歓喜に駆られて、時々考え込んでいた。仮に、他に目的があるとしても、これ程に神聖なものは一つもない筈だ、彼女の愛があれば。僕の昔の悪臭漂う、無為の人生も全て清められ、贖われた事だろう。浮ついて、不道徳で、疲れ果てた僕の代わりに、清潔で美しい存在を一生賞でるつもりだったし、この存在があれば、僕も全てを許され、僕自身も全てを許しただろう──「疲れてるね?ヤマト」と、小雪が彼の顔を見上げた。仲間を案ずるその表情は、彼女の恋人を彷彿とさせた。彼女を変えた恋人、物の見方を変え、人生を変え、彼女の胸の内に燦然と輝く明かりを灯した恋人。里に帰還したら、君は彼のものになる。いや、こうして二人切りになっている今も尚、君は彼のものなんだ。君の魂は一度だって、この僕に向けられた事はない。ヤマトが、任務という彼女との短い逢引を終わらせ、誰もいない家へと戻りながら、完全な敗北の後にむらむらと込み上げて来るような、胸の張り裂けそうな苦い憤りを覚えた事は一度や二度ではなかった。僕はこの上、何が欲しいというんだ?と彼は自問したが、心は嘆くばかりだった。ねえ、小雪、僕のものになって。僕を幸せにして。荘厳とも形容すべき深い深い沈黙の後、「……少し辺りを見てくるよ」と彼は切り出した。
始めがないのと同様に終わりがないものに向かって、昼の彷徨、夜の休息を繰り返し、多くの忍耐を経ようと、我々の向かう旅の中に全てを溶かし込もうとした。我々の向かう昼と夜とを、再びそれらをより高い旅への出発の中に溶かし込もうと、何処であれ何であれ、君が見るものには必ず到達しその先に進めるようにと、どれ程に遠く離れた時間であろうと、君が思い浮かべれば必ず到着しその先に進めるようにと、上に見える、或いは下に見えるどのような道も、全て君の為に延び、待っているように、例えどれ程に長い道でも、君の為に延び、待っているようにと。どのような存在にせよ、天の存在にせよ、必ず君が瞳を転ずれば、其方へ君が行けるようにと。ヤマトはそのまま歩き続けた。彼は森の中へ──明るい月の光が優しく招くように彼を見詰めている、この平和な、居心地の良い自然の中へ進んで行った。彼は暗がりと、草木と、顔を包む爽やかな夜気の触感と、そしてこの悲愁、この不安とも、別れる事をしたくなかった……。

Drake - Yebba’s Heartbreak