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A spirit when her spirit looked through me



遙かな、蒼白い空の奥には漸く星が現われ掛けたが、西の方は未だ赤く焼けていた。その辺りは地平線もはっきりと鮮かに望まれ、片割れ月が枝垂れ、白樺の黒い網目越しに金色に輝いていた。他の木々は無数の隙間を目の玉のように開けて、苦り切った巨人の姿で立ちはだかっているのもあれば、そっくり闇の世界に溶け込んでいるのもあった。葉はひとひらも戦がず、ライラックとアカシヤの梢は何かに耳を澄ますように、暖かい空気の中に張り出していた。家々は近くに黒々と望まれ、明かりの点った長窓が赤味掛かった光の斑点となって描き出されていた。穏やかで、静かな夕べだった──その夢想にはいつだって恋人の変わらぬ姿があり、深い眠りの中でなくとも、死人の面影を感じる事が出来た。眼が覚めると、現の筈であったものは虚空の中へと消え去り、再び悪夢の猿臂に捉えられるのだった。過ぎ去ったあの静けさの中には、恐怖により抑えに抑えられた、恋人の最期の息遣いが感じられた。
ハートマンからサムの元へ、また、サムから医師の元へ運ばれたサラは、夢想から帰還するや否や、ビーチとは最もかけ離れた場にいる事を悟った。もはや此方に喜びはなかった。此処には、死んだ恋人の存在を掴もうとして失敗する自分しか見出せない為であった。彼女は自分の意思とは裏腹に、暫く医師の元で療養する事となり、唯一の宝物であるAEDも取り上げられてしまったのだった。ビーチと、先程まで見ていた夢想に意識を捉えられていた為、彼女はハートマンによるカイラルグラムには、殆ど視線を向けなかった。この事が、彼を悲しませた。
《眼が覚めたね、おはよう。と言ってももう昼だ、日光が雲の隙間から差している。分かっているとは思うが、暫くはビーチ出禁だ。後で医師から説教が付け加えられる事だろう。私からの説教は……そうだな、君が退院してからにするとしよう。因みに、ベッド脇にあるその花、それは私からだ。本もね、サムに届けて貰ったんだ。長い間外へ出ていない為か、外にはそういった花々や木々が変わらずに生きているという事を忘れていた。その花は時雨の降らない地域のものだ。他にも黄色やら紫色といった様々な色のものがあるらしい。私も初めて見たよ。なんとも綺麗だ。ふと君を思い出してね、君にも見せたいと思って。その……君が良くなるように》
サラはハートマンの顔を見る事なしに、「ありがとう」と言った。 彼女の衣装、その体格、その顔、その表情、その声の響きの全てはただ一つの事を語っていた──過去現在に於いて、自分の生活を形作っていたものは何もかもみんな虚偽だ、自分の眼から生死を隠していたものに他ならない。彼女はこう考えるや否や、憎悪の念がむらむらと込み上げて来た。そして、憎悪の念と共に悩ましい肉体の苦痛が襲い、苦痛と共に避け難い間近な終焉の意識が浮かんで来た。何かしら変わった事が始まった。 身体中を締め上げられるような、拳銃で撃たれるような気持ちがし、息が詰まって来た。
「祈っていて」
確かに熱があるらしく、息が非常に苦しそうだった。ハートマンは、自分の差し出した手をその燃えるような両手で包んで、いつまでも離さないでいたかった。だが、彼はサラの傍に立ったままだった。彼の願いは花と共に添えられた本みたく、恐らく読まれる事のないであろうもののように、彼女に届く事はないのであった。例え、この手を差し出したとて……彼女のか細い手を私の両手で包んだまま、自分はベッドの傍に跪いたとて……彼女は自分の手を振り解くだろう。一方、自分は顔をシーツ埋め、泣顔を見せまい、嗚咽を聞かせまいと懸命になる。彼女はそんな私の額を撫で摩りはしてくれない。彼女は私の慰めを一蹴し、代わりに自分自身でありと凡ゆる幻を描いて胸を慰めているのだ。今、この通り私と君は離れているが、その花が繋いでくれている。君を思うこの心も、いつかは君が気付いてくれる時が来ると信じている。いつかは……いつかは君が、私の事を見てくれる時が来る。
《サラ……また来るよ》
当然、ハートマンの心は幸福ではなかった。手を伸ばし掛けると、ドアは既に開いており、奥の暗がりから、ひ弱そうな綺麗な女性が彼を透かし見ていた。女性は気弱な灰色の眼を持っており、測り知れぬ美しさを持っていた。近付き難いところがなく、それでいて重味がある──ノットシティで彼はサラに恋をした。しかし、彼女は彼を望んでいない。やむを得ない。それでも彼は彼女の意識の傍に立った。一度は斯くも彼女の近くにいたのだ。さり気なく彼女が此方へ振り向くと、不意の嬉しさに喜びを隠そうと、仕事をしながら喜びの鎮まるのを求めた時──不思議な事に何でも気が付き、ハートマンの心の奥の協音も不協音も直ぐ、自分ですら気が付かない内に、一つ一つを指摘してくれた時、彼の額に掛かる曇り、唇に浮かぶ憂鬱や驕慢の影、目に宿る閃き、それらを彼女は一つとして見逃す事はなかった。彼の精神が余りに節度を失い、心を浪費し過ぎて、度重なる話の内に蝕んだにも関わらず、彼女は彼の心に満ち干く潮を聞き分けて、注意していては陰鬱な時を予感した時、そして愛らしい彼女が彼の頬の変化を鏡よりも忠実に映じてこれを教え、友人としての憂慮から落ち着きのない彼の心を戒め、真の友を咎めるように彼に伝えた時──自分のいるところから彼女の元までの距離を数え、彼女の歩く道筋や、以前に座っていた事のある場所を知らせ、其処で過ごした有様を物語り、遂には二人が其処にいた事があるように思われた時──これでも尚、二人の心は結ばれてはいないのだ。ハートマンはサラが自分から離れて行ったのを感じていた。そして、彼女と一緒に、大地までが彼の足元から走り去って行くような気がしたのだった。

「調子はどうだ?」
「順調に良くなっているみたい。サム、いつもありがとう。実は荷物が届くのを楽しみにしているの」
「彼奴──あー、ハートマンの事だが、彼奴にはその事を絶対に言うなよ。嬉しがって今度は花束を届けさせられる羽目になっちまう」
ハートマンは、嫌でも医師の元で時間を過ごさねばならなくなったサラの事が、どうやら念頭から離れないようであった。研究の事や滅び行く祖国に対して、様々に空想して気を紛らそうとしていた。彼は一体恋しているのだろうか。それは他人にはさっぱり分からない事だが、兎も角彼の苦しい胸の内には、空想力も幸福も思いのままに左右する彼女があるばかりであった。絶望の淵に沈むまいとして、彼は自分の心の精力の全てを奮い起さねばならなかった。サムは感慨を続けた。以前彼女に届けた、ハートマンに読まれていないと思われていた本には、眼が通された痕跡があった。
「今日だって、自分が直接届けると言って散々だったんだ。俺は彼奴に言ってやった。『そんな痩せっぽちの身体ではどう考えても無理だ。雪道に足を踏み入れた途端、ハート型の湖にまで転がり落ちる』ってな」
「丈夫なのは彼の心臓だけだものね」
「君からも言ってやってくれ」
『私は、何もビーチの事だけを考えている訳ではないんだ。考えている事といえば、最近は専ら……そうだ、彼女の事だ。うん。彼女が席を立って、私の傍を通って行けば、私は彼女の姿を眺めて、その後ろ姿をこの目で見送る。彼女の服や足音が鳴れば、私の心臓は止まりそうな気がするのだ。彼女が部屋を出て行ってしまうと、私は彼女の言った短い言葉でも皆思い出して、どんな声でどんな風に言ったのか、すっかり思い出してみる……ところで、彼女は何と言っていた?どんな反応だった?本は読んでくれていたかな?』と、子供みたく執拗に聞いて来たハートマンを想起した。恐らくカイラルグラムを駆使して、自分で確かめる勇気がないのだ。サムはその様子をサラに聞かせてあげたかった。
「彼は……優しいから」
しかし此処で、サラの声が背いた。その小さな声の、胸の内を聞いた途端、サムは彼女の手を強く握りたい気持ちになった。彼女は不意にはっと我に返り、俯いてしまった。彼には彼女の顔色が前よりも一層蒼褪め、眼がぎらぎら光っているように見えた。そして、何よりも驚いたのは、大きな一粒の涙が彼女の頬をゆっくり伝った事であった──サラ、彼奴を愛してやってくれ。君が言った通り、彼奴は心の優しい、善良な人間だ。この世のどんな人間の為にも、彼奴を裏切らず、誰の言葉にも耳を傾けないでくれ。愛して愛されない事ほど、恐ろしいものはない事をよく考えてくれ。可哀想な彼奴を見捨てずに、いつまでもあの男を愛してやってくれよ。サムはふと思った。これらの言葉が、彼女の精神を、我々が一度は深く嵌った重苦しい淀みから引き上げる事が出来るようにと。

サラが久方振りに外へ出た頃には、空はもう粗方澄み返っていた。そして其処からは清々しさと静けさとが、つまり、人間の心が密かな共鳴と漠とした希望との甘い疲労を誘われるあの物柔らかな、 幸福に満ちた静けさが漂って来ていた。遂に医師の監視から解放された彼女の眼前に現れたのは、天色のスーツではなく、時雨の影響を遮断するスーツを身に纏ったハートマンであった。「勿論、カイラルグラムではないよ」と言った彼の、穏やかな目付きの中にきらりとある光が走った──彼女の顔には幾多の夢が犇めき溢れ、彼は黙って無言の慄きの内に彼女を見詰めた。其処に浮かび出る眺めに、その昔、夜毎に彼が、只管な渇仰の思いを寄せた事を思い出した。大空の月、この上なく慈しんだ谷、白々としたその傾斜には、細やかな木々が疎らに立ち、木の間を縫って低く細やかな霧が流れ、静けさの中に絶えず新たな、その度に見知らぬ白銀の水を河は鳴り響かせていた。浮かび出るその眺め、これら全てと、何の実りも知らぬその美しさに、彼は大きな憧憬と共に身をも心をも浸していたのだ。その思いのままに、今、彼が見る彼女の豊かな髪、彼女の目蓋の淡いなるこの輝き……。この腕に彼女を抱く事が出来たらどんなに良いだろう──サラの元へと向かって行く道中にて、つい今し方まで彼女が外を見ていたのかも知れないと思うと、どれ程にそれは快い事であったか。ハートマンは息を凝らし、積雪に蹌踉めきつつ彼女の前に立った。胸の高鳴りを彼女に看取されないようにと、彼は腕を組んで確と胸に抱いていた。彼の心が無限の愛の中に没しないようにと、急流を泳ぐ人間のようにもがき足掻いていた。君とまたこうして会えて嬉しい。君の顔を見る事が出来て、君からの眼差しがどれ程に嬉しい事か。君はもうビーチへは行かないね?君を破滅させるところへは、彼のところへは行かないね?ハートマンは、自身の揺蕩う感情を確と定める事が出来ずにいた。だが、サラの顔は不意に生き生きと輝き始めた。彼女は彼の姿を見ている内に、野辺の花を贈られたような瑞々しさを感じ、瞳孔を開き、深く息を吸った。彼女の慎ましやかな口元がふっと緩んだように彼には思われた。
「時雨が降るかも知れない。早く行くぞ」
「大丈夫だよ。レーダーで見た限りでは後三時間は降らない。確率はたったの五パーセントだ」
「良いから」
其処でサムはふとハートマンの言葉を思い出した。それは、サラの元へ一緒に向かっている時に口にしたものであった。饒舌な彼の数ある中からの、サムの印象に残ったもの。『彼女の魂が私を見据える時には、私も魂になるのだよ。これだけ人間の軌跡が存在しても尚、人間というものは全く不可思議なものじゃないか?サム』──紛れもなくこれはハートマンの述懐であり、彼の詩であり、彼の情熱であった。今、サムはハートマンの想い人である彼女を背負い、彼の研究施設に向かって歩いている。その傍で、彼はいつもの知識を呈しており、それらの言葉の中には、あの詩に取って代わるような煌めくものはない。露呈された真摯な言葉を、サムは彼女に聞かせてあげたかった。
サラは頭上にある太陽の柔らかい光を浴びて、美しく色取り取りに輝いている遠い野原を茫洋と眺めながら、ハートマンの顔をふと見た。幾度となく訪れたビーチはいつも色褪せていた。彼処には何もなかった。太陽は見えず、自然の匂いもせず、風の運びすらない。しかし、此処には全てがある。彼が贈ってくれた花には香りがあり、本には言葉の響きがあり、彼の赤味掛かった頬には雪山の冷たい風が当たっている。彼女の傍へ近付いて行った時、彼の空色の眼差しは特別優しく輝いた。彼は幸福そうな、慎ましくも満ち足りた微笑を浮かべて、恭しく、静かに彼女の方へ身を屈めると、その大きく幅のある手を差し伸べたのだった。サラは初めて彼の目を真面に見た気がした──この世に生まれた子供は成長し、何も知らぬ深い眼の色をして、そして直に死んで行く。そして、人間は皆それぞれ己の道を行く。そして酸っぱい果実は軈て甘く熟れ、夜となれば死んだ鳥のように地に落ち、そして幾日かが過ぎ、そして腐る。そして風は絶えず吹き、繰り返し我々は数多の言葉を耳にし口にし、そして歓喜と疲労とを感じる。そして往還は草の間を走り、集落が其処彼処に横たわる。到る所に光、木立、池、そして威嚇に満ちた、また死のように朽ち果てた場所……。何の為にこれらは設けられたのか?何故に移り変わるのか。笑いと涙と死が至る所にはある。このような事が何になるのか、この儚い戯れが一体何に?無心の日々から遠去かり、永劫に孤独な流離の目途を遂に求め得ない我々にとって、このような事を多く見たとて何になるのか?しかし、誰かがふと「夕暮れ」と言うならば、その味わいはどうであろう。たった一つのこの言葉から、深い意味と悲しみが滴る。宛ら虚ろな蜂窩から濃い蜜が滴り出るように。

Trey Songz - Come Over