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Heartbreaker



『貴方は根っからの研究者ね』
サラは肘掛け椅子の背に凭れて両手を重ね、ハートマンの話を聞いていた。彼は常になくよく喋り、相手の心を掴もうとしている様子を見る事が出来た。これには仲間の研究者も驚いたが、ハートマンがその目的を達成したかどうか、他の人間には何も言う事は出来なかった。彼女の顔からは、その心がどのような動きをしているのか、推し量る事は難しかった。顔は愛想の良い、細やかな表情を保っており、美しい眼は注意深く光っていたが、それは穏やかな注意であった。彼のこのような崩した態度は最初、鋭い音のように彼女に些か不快な作用を与えたが、直様それが彼の照れ隠しである事を見て取ると、却ってそれが彼女の自尊心を甘やかした。饒舌さだけが彼女の心に引っ掛かったが、それだけで彼を非難する者はあるまい。
周囲の人間はその日、驚き詰めに驚いていなければならなかった。彼等は、ハートマンがサラを聡明な女性として扱い、自分の確信や見解について話をするものと思っており、また、彼女の方も"脅威に好奇心を寄せる勇気のある人"の話を聞いてみたいという気持ちを持っていたのだった。しかし、彼は彼女の興味には少しも触れずに、デス・ストランディングやBTなどの話ばかりをしていた。彼は、彼女がこの不便な暮らしの中で、時間を無駄に潰していない事を知っていた。彼女は機知に富み、幾らかの分野に渡る知識と自らの見解を持っていた。彼女は話を他へ向けたが、彼が専門外の事について興味がない事に気が付くと、またいつとなく話を元へ戻した。
『君はこれらの事について知りたいとは思わないのかい?』
『知る事が出来たとしても、絶滅する事には変わりないじゃない』
『君が抱いている死の概念も、変化するかも知れないんだよ』
『そうかな?』
『じゃあ、今から死の話をしよう』
サラが部屋へ入って来るなり、或いは遠くの方に彼女の姿がちらりと見えるだけで、もうハートマンにとっては自分を取り巻く全てのものが太陽に照り輝いているように思われるのだった。いや、全てのものが一段と興味深くなり、楽しくなり、有意義なものになるのだった。最も、彼女が傍にいるという事だけが彼にそのような作用を及ぼしたのではなかった。彼にとってはこの世に彼女という女性が存在するのだという事を考えるだけで、そのような気持ちを味わうのだった。彼は不愉快な知らせを受け取っても、研究が上手く捗らなくても、独特の言われのない憂愁に駆られても、この世にはサラがおり、その姿を見る事が出来るのだと思うと、もうそれだけで何もかも消し飛んでしまうのであった──いや、君に分かってくれというのではないよ。私は君が本を読む時の顔が見たいのだ。君は本を読む時、鼻の先っぽのところが酷く可愛らしく動くから……。そう伝えると、きっと彼女はプッと小さく吹き出して、本を閉じてしまい、本は膝の上から地面へと滑り落ちるだろう。君が笑う時の顔も、私は好きだよ、と彼は心中で言った。何度も何度も。
しかし、その時、サラの全意識が別の方へと向いた。それは一瞬の出来事であったが、ハートマンはそれを捉えた。それが直様、話し相手である彼に悟られないようにか、僅かな量の意識は此方へ再び戻された。だが依然として、殆どの意識は其方へ留まったまま、帰って来る事はなかった。ある一人の男──その男は彼女にとって生活の中心であった為、外的な感覚の助けを借りなくとも、常に彼の接近を感知する事が出来た。彼女の愛が現れたのである。彼女の明眸は輝きに満ちた。そしてそれらは、貴方の一目でも一言でも、私にとってはこの世の凡ゆる知恵にも増して嬉しい、と雄弁に語っていた。その姿をちらと見せただけで、彼女の意識を持って行く事が出来るなんて──とハートマンは不意に胸を締め付けられた。これ程にサラの近くにいながらも、これ程までに彼女から遠く離れている。この事実は、日付が変わって彼が床に就き、明かりを消す前にも変わらず心を刺した。彼は眠る為にもう一度、彼女の静謐な、情熱の溢れる眼を想起した。眠る事は出来なかった。彼は天井を通り越して暗い夜空を眺め、彼女は今休んでいるだろうかと思った。彼は彼女に相手にされていない気がした。自分の愛を譲受しない彼女、自分の心を傷付ける彼女、自分ではない別の人を愛している彼女。ハートマンの心には、恋をする人間達と同様に、愛の予感に似た、漠然とした悩ましい感情が滾っていたのだった。
後にハートマンは第一次遠征隊として、ノットシティを去る事となった。しかし、その行動の引き金となったのは、デス・ストランディングの研究の為だけではなかった。サラという女性はきっと自分の事を愛してはくれないだろうといった、僅かにでも報われない気持ちが、彼をその決断へと導いたのであり、自分の愛であり苦しみから遠く逃れる為であった。しかし、希望はあった。研究によって何らかの結果を見出す事が出来れば、彼女の二つの眼はきっと自分の事を見てくれるに違いない、という希望である。それだけを胸に、半ば彼女を忘れる覚悟もしようと努めながらも出来ずに、辞する日が訪れた──サラ、私は君に知って欲しかった。私が君以外に誰も愛せない事を知って欲しかったのだ。今夜、西空に紫色の月が現れる。白光が霜を輝やかせる事だろう。覚えていて欲しい、私は君に恋焦がれる男の一人だという事を……。ハートマンの魂の全てがサラに引き寄せられた。もっと語りたい事はあったのだが、取り留めなく混乱した言葉が迸り出るだけであった。私はこれらの言葉を、私のこの胸の中にちゃんとしまって置くよ。胸の奥深くに!此処は、此処は墓の中も同然だからね。最愛の友よ、私を許し、君の魂に近付けてくれ、暫く別れなければならない。私の唇から別れのキスを受け取ってくれ。このキスは特別に君だけに送ろう。さらば、さらば──私達は、きっとまた会う事になるよ。彼は彼女の優しげな眼差しに対して、何か言おうとしたが、一言も口を利く事は出来なかった。それ程に彼女の美しさに目を眩まされ、また、息苦しさに頭を眩まされ、深く心を打たれてしまった。彼女はその事に気が付いていたかは分からない。遠くの方で雷鳴が轟いていた。彼はそれが、自分の心臓が破れる音と思った。

肩に掛けてあげた外套のボタンを嵌めた彼は、この数分後にはもう、木々の間に覆いを張って蜘蛛の巣のように立ち込めている霧の中へ、飛び込んで行かなければならないのだった。直ぐ近くの斜面を登って行く、ガサガサといった枝の擦れ合う音が聞こえたが、軈て彼が出て行く頃には、その物音は小鳥の跳ね歩く音程度になり、遂には全く消えてしまった。月が沈むに連れ、青白い光は薄れて取り残されたままに、落葉の上でサラがそれを見上げた頃には、恋人の姿は闇に包まれていた──このまま死ぬ訳にはいかなかった。例えこの心臓の限界が訪れようとも、彼をビーチで探し出すまでは、あの世になんて容易に行く事はしたくはなかった。彼女は最後に見た恋人の姿を未だに覚えてはいたが、彼があの時にどのような表情をしていたのか、また、彼があの時に自分に何を言ったのかといった細部を、もう想起出来ずにいた。恋人の写真もなければ、二人の思い出の品も何もなかった。全ては対消滅で喪失し、唯一残った遺体は灰と化されてしまった。だから、このまま死ぬ訳にはいかなかった。もしこのまま死ねば、ビーチを自分の意識で彷徨う事は出来ず、あの世へは一人で行かなければならない。サラは機械によって繰り返される警告を無視しようとしたが、その試みは脳への直接の警告によって阻まれた。今まで等閑視していた心臓の痛みが、更なる猛威を揮い、彼女の身を襲ったのである。これが最期と覚悟をした瞳に映ったのは、恋人の青と灰色の死に顔ではなく、鼓動を強く打っているであろう奇形の心臓を持つ人間の、薄いガラスを隔てた先にある、ハートマンの空色の瞳であった。
昼間からどんよりと曇っていたものが、日暮れには、今にも一雨来そうに雲が下がって来ており、一層押さえ付けられるような、気でも狂うのではないかと思う程に不快な天候になっていた。また、耳底に太鼓の鳴っているような音までも絶えず聞こえて来た。ハートマンはそれらの所為で、灰色に染まっているサラの眠った顔を見詰める事しか出来なかった。広々とした薄暗い部屋の中で、彼は配達人がやって来るであろう遠くの雪山を見据えて、いつまでも立ち尽くしていた。その間が二時間はあったように彼には思われた──嘗て君は私という人間を信頼してくれた。だが、私が君の元を去り、時が経つに連れ、君はもうすっかり私の事を忘れてしまっていただろう。何故このように、再び君に手を伸ばす事になったのか、私には自分でも分からない。ただ君に、是非とも君に、私の存在を思い出して欲しいという抑え難い希望が私の心に沸き起こったのだ。君は私にとって必要な人だと、幾度私は思ったか知れない。私は君の事ばかりを考えて来た。君は私にとって必要な人なのだ。非常に必要な人なのだ。私は自分自身の事については、何も記す事はないし、話す事もない。いや、そんな事をしたいとも思わない。ただ君が幸福でいる事だけを切に望んでいた。君が直ぐ傍にいた時も、君が離れたところにいた時も。私には君を幸福に出来ないと分かった時も。『お願い、お願い、彼を連れて行かないで』──最愛の恋人を亡くした君、君には幸福でいて欲しいのだ。私が君に言いたいのは、ただこれだけの事なのだ。
ハートマンはベッドに横たわるサラの枕元に腰掛けたまま、その額や、青褪めた頬や、名状すべからざる悲哀の上にぴったり閉ざされた花弁のような目蓋や、未だ濡れて藻のように枕の上に広がっている髪を、つくづく見守っていた。耳には、早くなったり遅くなったりする苦しげな呼吸を聞きながら……。きっと君は良くなる。いや、絶対にだ、絶対に良くなるさ、君に冷たい死は似合わない。しかも、未だ私は君の笑った顔を見た事がない。未だ君が幸福になるところを見た事がない。ハートマンは束の間の、際限のない希望にひたと心を寄せた。虚しい想像でも、今の彼には必要なものであった──自分は其処の肘掛け椅子で眠り込んでしまう。夜明けが近付き、身体が強張り、寒さを感じ取るまで目を覚まさない。起きると直ぐにベッドへと近寄る。覗き込むと同時に、少し身体を動かしたサラの唇に、指の先で触れてみる。すると彼女は眼を開けないままで、そっと自分の手を掴み、ベッドへと引き寄せる。何もかも忘れて、自分は幾度も幾度もある言葉を繰り返す。彼女もまた、微笑んでいるように思われる──。
「……頼む、彼女を連れて行かないでくれ。私と彼女を引き裂かないでくれ」
ねえ君、どうか私の心を破らずにいてくれ。今度の出来事は本当に心を破り、血を流させるものだから。私は君の為ならば血を流すが、君の死に対しては駄目だ、私の心はそうなる前にきっと死んでしまうから。ハートマンのこの時の境地は、高地で曙の光が差す前に、雪山の頂の形をくっきりと闇の中から引き出して震えさせる、あの緋色掛かった薄明りのように、俄に差した光明のようなものだった。神秘な彩りとも言えよう。また、彼は、御使が下って眠れる水を今し方目覚めさせたばかりの、ハート型の湖を思った。出会った頃のサラ、あの顔に突然現れた天使のような表情を見て、彼は一種の恍惚を覚えたのだった。その瞬間に彼を訪れたものは、知性よりも寧ろ愛だったように思われたからである。其処で、ある懐かしい情が込み上げて来て、思わず彼が彼女の美しい額に与えたキスは、彼には実は神に捧げたキスのような気がしたのだった。

Justin Bieber - Heartbreaker