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Lumen coeli, sancta rosa



自然は幸福だ。しかし、我々の内部には様々な力が衝突し合い犇めき合う。心中に春を芽ぐませた人間はあろうか。光となって注ぎ、雨となって降る人間は?否み難い確かな風が心を貫いて吹く人間は?自分の内に鳥の飛ぶ空を持つ人間は?どの木のどの枝もそうであるようなしなやかさと、脆さを持つ人間は?自分の心の傾斜の上を水のように清らかに生き生きと、未知の幸福に向かって落ちて行く人間は?そして静かに、誇る事もなく登高を続け、登り切ったところで聖なる道のように佇む人間は?──デス・ストランディングを目の当たりにした彼等の勇気、意志、そして忍耐の崩壊は実に急激で、もう永久にその穴底から這い上る事が出来ないだろうと感じられる程であった。彼等は、従って強いて心を抑え、自分達の解放の期限を決して考えまいとし、未来の方へは振り向くまいとし、そして常に、謂わば目を伏せたままでいようとした。しかし、当然、この用心深さや苦痛を誤魔化そうとし、戦闘を拒否する為に自ら警戒を解こうとするこの方法からは、思わしい結果は得る事は出来なかった。彼等は、如何なる事があろうと生じさせたくないその崩壊を避けると同時に、また事実上、来たるべき気休めの希望のイメージの内に絶望を忘れ得るという、結局のところかなり頻繁な瞬間を、自ら奪われる事になったのである。そして、その為に、その深淵と山頂の丁度中間に船を乗り上げ、彼等は生きているというよりも寧ろ漂流しつつ、方向もない日々と、得るところのない思い出の随に、自らの苦痛の大地に根を下ろす事を諾った暁にのみ生気を生じ得るのであろうところの、彷徨える亡霊と成り果てていたのであった。
サラの恋人の遺体。それが配達人の手によって届けられた時、彼女は二本の腕でしっかりと恋人を抱き締め、決して離そうとはしなかった。対消滅の恐ろしさは嘆きによって消え去り、寧ろ彼女は自らその魂を差し出すつもりでいた。彼女の口から繰り返し押し出される言葉は小さく、断片的で支離滅裂であったが、その場にいたハートマンだけがその言葉を未だに覚えていた。半ば乱暴に彼女の腕の中から遺体を奪った数人の配達人は、泣き崩れる彼女をそのままに、そそくさと焼却場へと足を向けた。同情というものには限りがあり、一日に使用出来る量が決まっている。あの配達人達はその日の分を使ってしまったのだろう、誰も待っていない不要な荷物を運ぶようにして、時雨の中へと消えて行った。人間は、大切な人を喪失すると、恰もそれが自分自身の喪失と思われ、心が破れる音を聞く。だが実際は、古びた皮膚が破れただけであり、その直ぐ下には全きの新しい、瑞々しい生命力に満ちた、未来に向かって生きて行く事が出来る心が存在するのである。時間は掛かろうとも、その事実に気が付く者もいれば、自らが死ぬまで気が付かずにいる者もいる。サラは後者と言えた。ビーチという概念に念頭はすっかり取り憑かれており、陶酔をしていた。ハートマンの停止しては死んでしまう心臓と、その死から見事に蘇る心臓。また、彼女自身と同様の帰還者という異質さ。死んだ恋人にビーチで会いたいが為に、彼女は自分の健全な心臓を停止させる機械を作り、胸にハートマンと同様のAEDを備えた。彼女はビーチに行き、再び此方へ帰って来る事が出来るようになった。ただ、彼女の場合、心臓の耐性からして彼よりもその代償が大きく、数十回という回数には耐える事は出来なかった。
せめてもの生きる希望を与えたかった、という理由は、結局のところ、サラを奈落の底へ突き落とす手助けをした事となった。研究の為にビーチに行く事を日常としていたハートマンは、彼女の異質さを認めると、自分が行っている方法を口に出した。環境の所為による回復の見込めない程の気の落ち込み、外界の脅威に希望を失った自殺者が絶えないこの中で、ビーチが彼女の、すっかり塞ぎ込んでいる心に光を差す存在なのであれば、自分はそのビーチへ彼女を導く事が何よりの手助けであると彼は考えたのだった。しかし、其処に救いはなかった。彼女の生命の状態を表しているマルチディスプレイは警告で真っ赤に染まっていた。それは鼓動を停止している為ではなく、心臓そのものの状態が危険な状態であるという警告であり、サラはその喚起に構う事なくビーチへ行っていたのだった。《蘇生まで三十秒》──ハートマンはまるでそれが成功しないような気持ちになるのを退けながら、もしそれが成功したら、いや、絶対に成功する筈だが、そうなったら彼女からAEDを取り上げる、絶対に。絶対にもう二度とビーチへは行かせない、其処に恋人なんている筈がないんだ、再会出来る筈がないんだと言ってあげるのだ。幾度となくビーチに行っている自分が言うのだ、君はもう死者の面影を追いかけるのを辞めて、諦めて、前向いて生きるべきだと言うのだ。あと十五秒。『ある人々は、人生の早い段階で自殺を決意する』との、一冊本から垂れた医師の講釈がハートマンの念頭を過った。その、"ある人々"は自分で気が付いていないかも知れないが、"自殺の決意"は常に心の中に存在する。それがある日、何かの切っ掛けで表われて引き金を引く。切っ掛けは、何処かに財布を置き忘れるような全く些細な事かも知れないし、親しい人間が亡くなるといった劇的な事かも知れない。だが、意図は既にあって結果は同じ事なのだ──サラは恋人と再会するという目的ではなく、死という目的の為にビーチへ行っているのかも知れない。あと十秒。彼女は死んでいる今も追憶に惹き込まれて、子どものように泣いてしまっているだろう。何もかもが生き生きとしていた頃を思い出し、過ぎ去った事が鮮やかに眼前に浮かび上がる。それに引き換え、現在はなんてかぼんやりと薄暗く見える事か、これから先はどうなる事か、一体どんな結末を告げるのか。彼女の胸には、自分はこの先死ぬのだという妙な確信、一種の信念があり、死ぬ事を考えつつも、外界では死ぬのは怖いと思っている筈である。過度の蘇生に心臓の機能は衰え、無上の辛さと孤独が沸き起こり、いつから自分が独りぼっちなのかを考える。そして、それが恋人が死んでからだという事を認める。恋人が自分と話をしているような気がし、次にビーチへ行けば会える筈だと思う。ビーチにいる時は未だ平気だと、気が落ち着いていると勘違いをする。そして、今回もその恋人は現れる事はない──ハートマンの心は何とも言えない苦悶を孕み、重たく彼の内にのし掛かった。恋人に会えないまま死んでしまうのだとサラに告げなければならない。それを思うと気力も張りもなくなってしまった。
「一回で蘇生が出来なくなっている。とても危険な状態だ。このままでは君の心臓が保つかどうか」
「貴方のように、ハート型心筋症になれる日は来ないかも知れないわね」
「それが来る前に君は本当のあの世へ行ってしまうよ。それを預かろう」
蘇生三回目で生き返ったサラの、宝石のような双眸から滴る涙に、用意していたある種の怒りが孕んだあの言葉らは、見事に深淵に追いやられてしまった。まるで磁石に吸い寄せられるように、じりじりと彼女の方へ、彼女の心へ近付いて行ってしまう。そして、再び彼女の方へ眼を転じながら、ハートマンは彼女のその傷付いた心に触れようとしてしまう。彼は立ち上がると、おずおずと僅かに震える声で、それと同時に、確信を持った人のような態度で明瞭に言った。彼女の心中に抱える本望を眼前に突き出される事を恐れながら、また、彼女に前を向いて生きて貰う理由に自信を持てないまま、だが彼女にはこのまま死んで欲しくないといった矛盾した気持ちを全身で表現したつもりだった。右手が虚空に触れ、サラに指示を促した。君とビーチを繋いでいるそれはもう不要だ。本来、生きている人間は、ビーチとは繋がってはならないものなのだ。不要な筈だ、君を愛していた彼はおらず、また別に、此処には君を愛している人間がいるのだから。当然の事乍ら、彼女は従う事をしなかった。顔にちくりと差す影を誤魔化す為、ハートマンは自身の懐から、涙を拭う為のハンカチを差し出した。
「ビーチで彼と再会出来たとしても、一緒にあの世へ行けるかは分からないよ」
サラは時折独りぼっちで話もせず、独り切りで静かに嘆いたり、悲しんだりしていたのが、近頃ではその訪れが段々と頻繁になって来たように思えた。思い出の中には、何かしら自分でもよく説明の付かないものがあり、それが無闇に自分を引っ張り込んで行く事もあり、彼女は何時間も、周囲の一切のものに対して無感覚となり、現在というものをすっかり失念してしまう事があった。今の彼女の生活には、それが嬉しいものであろうとも、辛いものであろうとも、悲しいものであろうとも、その印象が何かしら彼女の過去に於ける似たようなものを、取り分け幸福であった時の黄金時代を思い起こさせるようなものはない。サラは衰弱していくようであった。この空想癖の為に彼女は気を疲れさせ、彼女の健康はそうでなくてさえ日増しに悪くなっていた──サラ、どうか私の為に、自分を滅ぼすような真似はしないで欲しい。私の事も破滅させないで欲しい。だって、私は君一人の為にだけ生きているのだし、こうして君の為に傍を離れないでいるのだから。サラ、どうか不幸にめげずに気を強く持って欲しい。彼の死は誰の罪でもない、という事を忘れないで欲しい。君が求めている彼は、君が死ぬまで傍にいる事は出来ない。だが私にはそれが出来る。私は彼のように死と君を繋ぎ止める存在でなく、生と繋ぎ合わせる事が出来る存在である。
「君は死ぬかも知れないんだ。私は、君にビーチへ行けるという事を教えなければ良かったと後悔している。だってこんな事は、本来はするべき事ではないんだ。誰だって分かる事なのに、私は君に」
「……ごめんなさい、これは渡せない。唯一の宝物だから」
サラの事を思うと、疲労で諦め掛けていた心が彼女をこの上なく愛しいものに感じ、自分の非力で彼女の脆さを守ってやりたかった。彼女の名を声に出して囁くと、薄明かりの中で美しい顔がハートマンの血管の影に浮かんだ。美徳と愛とが融け合っているような魂があったとすれば、それはどれ程に幸福な事だろう。折々彼には愛するという事、出来る限り愛し、益々愛するという事を他にして、果たして美徳というものが有り得るだろうかと疑わしくなって来た程であった。彼には時々、悲しい事に、徳というものはただ愛に対する抵抗だとしか思う事が出来なくなる事があった。あろう事か、極めて在るが儘の心の傾きを、敢えて美徳と呼ぼうと言うのだろうか?御空の光、聖なる薔薇、心を誘う詭弁、最もらしい誘惑、幸福の陰険な幻──サラはハンカチへと手を捧げていた。輪郭から一雫の溢れる前に、ハートマンの手の歩みの軽やかさと確かさ。彼は高鳴りに打ち跨り、さり気ない素振りで血管を絞れば、心臓は震えて歩みを鎮めた。けれども、彼女が彼の手からハンカチを取る事となれば、それはこの二人には難し過ぎた。二人ながらに身を慄かせ、手は手に巡り合う事もなく、それは地にまろび溢れたのだった。

The Isley Brothers - This Old Heart of Mine (is Weak For You)