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A slumber did my spirit seal



美しい、爽やかな朝であった。小さな色の斑な雲が、薄れ掛けた瑠璃色の空に子羊の群れのように浮かんでいた。細かな朝露が木の葉や草に一面に散り敷き、蜘蛛の巣が銀色に光っていた。湿った黒い土には、未だ朝焼けの赤い跡が残っているようであり、空からは雲雀の歌声が降っていた。真田志郎の「情熱」は、あの日から始まった。忘れもしない、あの時彼は、初めて胸の高鳴りを自覚した人間が感じる、あの一種の気持ちと同様のものを味わった。つまり彼は、最早唯の青年でも大人でもなく、恋する人間となったのだった。今、あの日から彼の情熱が始まったと言ったが、一つその上に、彼の悩みもあの日から始まったと言い添えても良いだろう──非接触による観察は彼の特技であり、人間関係を構築する上で欠かす事の出来ないものであったし、それ以上のものを必要とはしなかった。孤独に慣れた人間は、自分自身を誤魔化す事に長けている。しかし、一度はそれが覆る時が訪れる。真田の場合、それは小雪の出現であったのだが、今まで無上に愛して来た孤独というものが、一体何であるのか分からなくなってしまった。心を覆っていた孤独は後退り、彼女に惹かれては何処までもその面影を追い求めた。
「今頃、彼女は空だぞ」
「……は?」
「数式にしか興味がないと思っていた真田にも、遂に春が来たかぁ。真逆、彼処に毎日通っているのか?それぐらい可愛い子なんだ?」
暇を見付けては研究室に居座っている古代が発した言葉からは、どうやら無駄に此処で時間を潰していた訳ではないという事を窺わせた。真田の意識が研究とは別の方角へ向いているのを見事に看取して見せた古代は、何処か後ろ向きな真田の態度をも見透かしていた。実際、此処最近の彼の興味は専ら、小雪に向けられていた。彼女をデートに誘い損ねたあの苦痛の日から、益々彼女への感情は募り、暇を見付けては航空隊の元へ、彼女の元へと足を運んでいた。広い施設の中で、また幾多もの軍人の中から彼女の姿を見付ける事が出来ただけで、彼はすっかり満足だった。それとなしに話し掛ける勇気は未だ彼にはなかった。いつだって相変わらず、二、三の男が彼女の傍におり、注意を向けていたからである。今日は一人だと見えても、間もなく彼女の傍へ様々な人間が近寄って行き、その内の二、三人はいつまでも居残って話し込んでいた。それは皆、小雪の友人達なのか、将又恋人なのかは、蚊帳の外である真田は知る由もなかった。また、彼等の間に一人の、とても陽気で話し好きの美しい青年士官がいた。彼は仕切りに彼女に話し掛け、その注意を自分に向けようと努めていた。彼女も相手に対してとても優しげで、如何にも楽しげにしていた。あのような笑顔を、自分と話している時には浮かべてはくれないだろう。何を話せば良いのか分からない為に、平凡な、取るに足らない会話しか出来ないからである。
恋愛をして来なかった真田であっても、他の男達が小雪と話をしたり、機嫌を取ったりしている事には気付いていた。そのような場面に遭遇してしまうと、自分が彼女と同じこの空の下にいる事さえ忘れてしまった。彼女が手の届かないところにいるように思われた。彼は、どうかすると何処かへ行ってしまいたい、此処から全く姿を消してしまいたいと思う事があった。ただ、たった一人で物思いに耽る為に、また、自分が何処にいるのやら誰一人知らないように、陰気で寂しい研究室が、自分には適しているとさえ思われるのだった。それも出来ないとあれば、せめて自分の家の椅子にでも座っていたいと思うのだった。ただ、其処には誰もいてはいけない、古代も新見も……。鳴神小雪という女性、小雪は自分を愛してくれるだろうか。あの男達に比べ自分は、彼女を笑顔にさせる事の出来るユーモアを持ち合わせていなければ、また、古代のように何もせずとも異性を魅了する事の出来る、男性的魅力をも持ち合わせてはいない。小雪は自分をどう思っているのだろうか。そう思うと、血潮は体内で滾り立ち、胸は疼き──いや、思い出しても、むずむずする程に甘たるく、滑稽な程であった。真田は絶えず何ものかを心待ちにし、絶えず何ものかに慄き、見るもの聞くものに心を躍らし、全身がこの姿勢にあった。空想が生き生きと目覚め、いつも同じ幻の周りを素早く駆け巡る有様は、朝焼けの空に燕の群れが鐘楼を巡って飛ぶ姿に似ていた。彼は物思いに深く沈んだり、時には塞ぎ込んだりもした。しかし、こうした響き高い情動や、或いは夕暮れの美しい眺めによって哀愁が唆られるにしても、その哀愁の隙から宛ら春の小草のように、若々しく湧き上がる生の喜ばしい感情が滲み出すのであった。また君と話す事が出来たら、どれ程に気が晴れる事だろう、嬉しい事だろう。ふと研究室の窓から中へと入って来た、落ち葉を鳴らす朝の風が、〈小雪〉という名を運んで来たのを真田は捉えた。
「おいおい、無視は良くないだろ無視は」
「答える必要がないから黙っているだけだ」
「俺はお前に新見の事で散々揶揄われたからな、仕返しだよ」
「揶揄った覚えはないが」
「無自覚とはタチが悪い。まっ、お前の顔を見れば分かるよ」
真田はほんの少し古代へ目を配りながら、じっと身動ぎもせずに座り、ゆっくりと息を吐いていた。そして暫くの間、古代と雑談をして笑い合ったりしていたが、『自分は恋をしているのだ、これがそれなのだ、これが恋なのだ』という想念に突き当たり、胸の底がひやりとするのだった。小雪のあの美しい顔が、虚空の闇の中を静かに漂っていた──漂ってはいたが、漂い去りはしなかった。その唇は相変わらず謎めいた微笑を浮かべ、眼は少し横合いから物問いたげに、考え深そうに、優しげに彼を見守っていた……それは、最後に別れた瞬間とそっくりそのままの眼差しだった。激しい動作によって身内に充ち満ちているものを驚かしはしないかと、彼はそれが心配でならなかった。なあ古代、彼女の前に出れば、私なんぞ一文の値打ちもないんだ。こんな事は恋愛として有り得るだろうか?一人の人間を愛する事として有り得るだろうか?
最も、真田は基本的な思想をすっかりは処理しておらず、未だに恋の悲劇的意義を十分には自分自身にも明らかにしていなかった。古代は好んで屡々恋愛を口にする。初めの内は恋という言葉を聞くと、真田は身震いをして耳を欹てたものだったが、軈てそれにも馴れ、ただ唇をきっと結び、間を置いてその言葉を呑み込むだけになった。『恋愛の悲劇というものは、それは悲恋の事ではないだろうか』と真田が漸く口にした時には、『いいや、全然違うね』と古代が反駁し、『それは寧ろ恋愛の喜劇的な面だよ』と得意気に言ったのだった。真田は、敢えて語を継ぐ事をしない古代を傍目に、一人ふと考えた。此処には一切の神秘が隠されている。何処から出、どのように発展し、何処へ消えて行くのか。天日の如く明らかに、歓喜に燃えて忽然と現われるかと思えば、灰の中の埋み火のようにいつまでも消え去らず、全てが破れた後に初めて胸に燃え上がる事もあり、蛇の如く心に這い込むかと思えば、突如として抜け出てしまう。実に、これこそ重大な問題ではないだろうか。恋愛なんぞする人間が、果たしているだろうか?直向きに恋をするような人間が……?彼はずっとそう思って生きて来たのだった。
古代が辞し、一人となった真田は興奮と期待の余り、再び仕事に向かう事が出来なかった為、研究室の中を隅から隅へと歩き始めた。小雪と話す事が出来ない事も彼を不愉快な気分にしたが、彼女が自分ではない他の男に惹かれている可能性を考える事も、心に不愉快な衝撃を与えた。しかし、数分も経たない内に、彼はふと何やら思い出したように突然辺りを見渡しながら、日の光に近い窓辺へ寄り、小雪の名と顔を思い浮かべた。彼はその顔の中に秘められていて、先程も自分の心を打ったあるものの謎を何としても解きたいような気がした。先程の印象はあれからずっと彼の心を去る事はなかった為、彼は今、早急に再び何ものかを確かめようとした。その美しさの為ばかりでなく、更に何かしらあるものの為に、世の常のものとも思われぬその顔は、前よりも一層力強く彼の感情を誘った。まるで測り知れぬ矜持と、殆ど薄幸に近い孤独の色が、その顔に現れているように思われた。それと同時に、何処となく人間を信じ易いような、驚く程に飾り気のない素朴さといったものがあった。この二つの対比は、この面影を見る人間の胸に一種の憐れみの情とさえ言えるものを呼び起こすように思われた。この眩いばかりの美しさは、見るに耐え難いようにさえ感じられる。蒼白い顔と痩せた頬、燃えるような瞳の持つ美しさ。いや、それは全きの不思議な美しさであった。真田は一分間ほど晴れ渡ったを眺めていたが、軈てふと我に返った。その空想に、小雪の頬や手に、自分が触れた気がした。何ものにも触れた事のないような優しい手付きで。すっかり落ち着いた彼は踵を返し、仕事に打ち込んだ。

Jodeci - Pump It Back