×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

There came an image in life’s retinue



都会の底は見る限り灰色の闇に浸され、街灯の周囲に生温い雑巾のように垂れ下がっているものは、もう夜であった。しかし、上空には、突然朦朧とした影のように、建物裏にぴったりと張り付いた安っぽい防火壁が、慄く夜空へ浮かび上がったと見ると、それは満月であった。満月の他は何もなかった。それから街の頭上に、無垢な無傷な夜空が次第に広がって行き、 いつしか片側の窓全部がしろじろと無人の街のように照らし出された──航空隊が寝静まった夜には整備隊が動き出す。しかし、格納庫内の隅々にまで蔓延っている眩しい程の明かりの中に、整備隊とは異なる動きをしている人物がいた。彼等の働き振りを監視しているのではなく、その人物は戦闘機を真面に捉えており、整備士と何やら話した後は端末に視線を落としている。その人物を背後から見るに、制服は替えの利かぬ肩書きを持つ者が纏うものであり、端末を操作する両手は黒色のオイルに塗れてはいなかった。その人物の名を知らぬ者は此処には一人としていない。小雪は、気難しい上官の、変化に乏しい顔を拝見するつもりはなかった。ただ、彼がこんな時刻に、わざわざその目とその足で、それら戦闘機を見に来る理由が知りたかった。エリートという生き物は自分自身の名誉に関わる事以外に一切の関心はない、というのが彼女の見解であったのだった。
「何故、貴方のような方がこのような場所に?」
「損傷具合を統計にしている。改良の余地は幾らでもあるのだが、何せ資源が乏しくてね。全てという訳にはいかない」
「この戦闘機は、今まで乗ったものの中で最高の代物ですよ」
「それは光栄だ。だが、こんな物が役に立つ日など来ては欲しくなかったよ」
初め、小雪の姿を捉えた真田の顔には、何かはにかんだような、僅かに驚いたような表情が浮かんだ。しかし、その稀有な表情は直ぐに消え去ると、普段の無表情がそれと取って代わり、淡々と言葉を並べ始めた。それは彼女が褒め言葉を述べても同様であり、石の顔は最後沈黙したまま、様々な秘密を握っているかの如く端末に情報を入力していた。『もしや、貴方が"創造主"なので?』と、仲間である航空隊には通用する言い回しを口にする前に、彼女は息を呑むように口を噤んだ。真田がこのように冷淡に見えるのは、実は様々な思いを胸の内に収めて外に出さないからに過ぎなかった。自分の思いを表現する能力に欠けているという事もあったかも知れない。
「私は鳴神小雪と申します。この通り、戦闘機乗りです」
「君のも見た」
「はい?」
「君の戦闘機だ。損傷は殆ど見られなかった」
「あれは私の心臓みたいなものですから」
「そうか──私は真田だ、真田志郎」
君達の命を守ろうと努めながらも、それが未だに出来ずにいるしがない技術者だ、と眼前の男の目は言っていた。また、自らの心に耳を傾ける事に欠け、他人の心に触れる事を避けるといった、全生涯を同胞に捧げる事の出来る人間が持つ資格。それを持つ人間が、報われる事のない人間が其処にはいた。一部のエリートが心に住まわせるある種の自己陶酔とは無縁の、それと対極に存在するある種の博愛さが見え隠れしていた。この男の感じの細やかさ、気持ちの良い上品さ、そういったものが小雪の心をすっかり掻き乱そうとしていた。こういう上品さは他の上官などのものとは、増してや一番機嫌の良い時であっても、全きの別物であった。この真田志郎という人物が彼女の興味を引いたのは、とても物静かで孤独でありながらも、幸福そうに見えたからであった。彼の暗い色の目には、未知なるものに対する快活さと満足感が泉のように溢れていた。仕事に対する彼の静謐な喜びは、率直で混じり気がないように思われた。実際のところ、幾つもの仕事を並行して熟し、夜の眠りさえ失っていた彼だが、その懐奥深くにしまっている漲溢する程の情熱は、日々の行動と成果によって周囲に示していた。時折、彼が科学局周辺を歩いているところに出会したとしても、俯いて地面を見詰めている姿を見る事はないだろう。寧ろ無限の空を見上げ、額に当たり髪を揺らす風が運んで来る草木の馥郁たる香りを肺に収め、希望というものを掴むまでは諦める事を決してしない心持ちで再び科学局へ入って行く事だろう。小雪はずっと眼を離さずに真田を見詰めたまま、自分でも何の為とも分からず、微笑を浮かべた。

真田は、懊悩やら憔悴といったものには目もくれず、未だ薄められていない朝の大気を胸一杯に吸う事にした。朝の大気──もし人々が一日の水源でこれを飲まないようであれば、この世の朝の時間への予約入場券を失くしてしまった人々の為に、我々は是非瓶詰めにして店で売ってやらなくてはならない。ただし、朝の大気はどれ程までに低温の地下室に入れて置いても昼時までは保たず、そのずっと前に栓を押し開けて暁の女神アウロラの後を追い、西方へ行ってしまうものであるという事を失念しない事だ。あの年老いた薬草の神アスクレピオスの娘で、片手に蛇を、他方の手に時折その蛇に飲ませる薬液の入った盃を握った姿で記念碑などに刻まれている、健康の女神ヒュギエイアを、人々は決して崇拝するべきではない。人々が崇めるべきは、ユピテルの盃を捧げ持ち、神々と人間に青春の活力を蘇らせる力を持つ、青春の女神ヘベである。彼女こそ、嘗てこの地球上を歩んだ娘達の中で、恐らく完全無欠な肉体と健康と逞しさを備えた、唯一人の娘であったろう。彼女が現れると、いつでも春がやって来たのだ。厳しい冬を忘れさせる程の、暖かな春が──背後から、耳を澄ませていないと分からない程の足音が聞こえ、軈て、瑞々しい朝の大気の中を渡って真田の方へやって来る小雪の姿が現れた。 一つの心臓が同時に大きな動悸を打った。『あれは私の心臓みたいなものですから』と彼女は言った。深い意味はなくとも、その場で瞬時に口から出たものであろうとも、彼女の言葉は真田の胸に留まり、指先にまで不思議な温かい熱を送り出した。君の心臓か。其処まで言ってくれるとはな、苦労した甲斐があったというものだ。
「おはようございます。今日も統計を?」
「……いや、」
「それとも演習を見にいらっしゃったのですか?」
小雪の眼に宿るものは、眠りつつ健やかに息衝く宝石の安らぎ。性格は控え目で、やや少年のような雰囲気ではあるが、自分が美人である事に関心がないようだった。その大きな眼からは傷付き易そうな性格が窺え、また、他人を魅了する事はあっても、自分が他人に魅了される事はないといった小生意気な態度も見られた。しかし、何かしら永遠に若々しい力と喜びを呼吸しているように真田には思われた。この眼前の美しさに彼は何が何やら理解が出来なかった為、このような思想を間違った病的な虚偽のものとして追い退けた上、もっと他の健全正確な思想に変えようと苦心した。しかし、この思想は単に思想というばかりでなく、恰も厳然たる事実のように再び帰って来ては、彼の前に立ち塞がるのであった。小雪の簡単な質問に、返事をしていない事に気が付いた彼はやっと口を開いた。
「レーダー探知機に少しばかり手を加えた。それで航空隊の意見を聞きたいと思ってね」
「もう全機に搭載されているので?」
「未だこの一機のみだ」
真田のその言葉の中には何か並々ならぬものが響いており、その眼差しには、これまで小雪がついぞ見た事もないような輝きが閃いた程であった。彼女はともすればその表情に何か異常な、神秘的なものを見た気がした。つまり、ある特別な力や偶然の暗合が働いたように感じてしまったのだった──この人は私を愛しているのだ。この前、初めて言葉を交わしたけれど、彼の方は私の事を知っていたのかも知れない。でも、一体いつから?彼女は驚きと共にその真摯な眼差しに喜びを見出しつつも、自分ではなく他人から愛されるという幸福を味わいつつも、自らの限られた短な生涯の事が念頭を過ぎった。私はこの人が立案した戦術の駒となり、この人の創造した戦闘機で敵を殲滅する。そして、私が死ぬ時は、この人の怜悧な頭脳が叩き出した数式の中で、この人の静かなる鼓動と共に魂を終えるのだ。恐らくこの人は私の最期の鼓動さえ耳にする事なく、ただレーダーの感知から外れた事によって私の死を知る事になるのだ。
「どうした、此処のトップは君だろう」
「いえ、厳密には私の上に加藤という男がいるのですが」
「この演習で加藤を負かす事が出来れば話は別だ」
地上の我々人類には、太陽の力によって生きている者もいれば、宇宙創造の神によって生きている者もいる。私はこの他にも喜びを持っているが、私が他の悲しみを持っている事は何ら不思議な事ではない。この先、何が私を待ち構え、私は悲嘆に暮れなくてはならない。それは余儀ない事なのだろうか。すると、口を開くよりも早く、微かな驚きの閃きが、生き生きと輝く真田の黒玉の目から放たれた。その得意気な、普段は隠しているであろう素直に働く表情を、今だけは小雪の前に示した。これからの彼との日々に、心は喜びに踊る筈である事を彼女は分かっていた。ところが、既に彼女の心は何とも言えない苦悶を孕み、重たく彼女の内に伸し掛かっていた。毎秒毎に闇に覆われつつあるこの空の下で、晴れた心を感じた事のない彼女は、彼によってそれを感じ、また彼によってそれが消失するのを予感した。何れこの手で敵の戦艦を叩く事になる。依然として死は近い。この怯える心に、一体自分は何を告げなければならないのか──小雪はその事を思うと、気力も張りもなくなってしまった。
「感謝します、真田さん。これであの男の悔しそうな顔を拝む事が出来ます」
「この後、」
「?」
「何か予定は」
「いえ、何もありませんが」
今度は小雪が沈黙し、暫く驚いて真田を見詰めるのであった。彼は限りない希望に心を奪われており、神々の、或いは大いなる摂理の力は、彼を宛ら一片の雲の如くに運び去った。二人の合わさった視線にある種の情動が走った時、二人の耳には航空隊に下された号令が届いた。彼女の双眸に映る一人の男──彼は専門外の事になると躊躇いがちに話す人間、自分の意見を明確に表現する事が苦手な人間のように映ったが、いつでも人前に披瀝出来るだけの考えを密かに持っている人間でもあった。そしてそれを、彼は自分自身で、その思想は酷く原始的で、単なる知識人の思想よりは有望であったとはいえ、人前に出せる程に成熟しているという事を自負していないようであった。そのような真田を見ていると、この人類の社会の影には、例え人類が築いて来た文明が他の文明に比べて永久に貧しく無学であろうと、天才的な人間がいる事を窺わせた。彼等は常に独自の見解を持ち、かといって決して見識ぶったりはせず、嘗ては地球の湖や海が人類にそう思われていたのと同様に、底知れぬ深さを持った人物達なのである。また、真田の考える事は全て、存在するかどうか分からぬ将来にのみ向けられているものに思えた。これも彼女には何かひた向きな、若々しい印象を与えた。
一方で真田は、この小雪が身近にいる事や朝の美しさに感激して、己の感覚の流れに惹き入れられるままに、彼は雄弁に語る心情により高められていった。しんみりと、静かな声の響きまでが魅力をいや増し、彼女の口を借りて何か高遠な、彼女自身にも思い設けぬ事が語られているかのようだった。彼は、人間の暫しの生に永遠の意義を与えるものは何であるか、についてふと思った。「君のような聡明な人に操縦して貰えて、この機械も本望だろう」などと、うっかり口にするような事はしなかった。もう少しの勇気があったならばそれは叶い、彼女の心臓を例え一回でも強く打つ事さえ出来たであろう。号令に対して身体を動かすまでのその僅かの時間、彼女が自分の言葉を待っていた事に彼は気が付いていたが、そのまま何も言わずにその場を立ち去ってしまった。勇を鼓して彼女の前に現れた真田であったが、何とも気恥ずかしい気持ちになり、此処へ来た事を少しばかり悔やんだりもした。何故あんな事を言い出したのか。増してや、彼女を特別視している事を堂々と告げた上……一転して、彼は高らかな雲から転落してしまった。しかし、慣れ親しんだ孤独の地上へ落ちるその間には、恋を除いて、他のもの一切、彼の心から消え去ってしまっていたのだった。

Hall and Oates - Out of Touch