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海外で惨殺され続ける現地工作員達、無情への追放、日に日に死へと近付き、気力が指の間から擦り抜け、どれ程に努力をしても挫折ばかりの日々。身を犇犇と押し包む索漠感。愛し、楽しみ、笑う能力の減退。生きる指針にしている事柄の止め処ない腐食。無言の献身の名の下に、自らに課してきた制止と抑制。キングスマンとしてではなく、人間として再起不能に陥る寸前に見られる兆候がある。それがどのようにして顕になるか個人差はあるものの、また、それを顕にしないよう無意識の内に操作をしている事はあるものの、日頃より現場工作員と関わりのある後方支援の面々は、ある一つの微妙な狂いを見逃す事をしない。それが違和感と呼ばれるものであり、彼等はどのような些細なものであってもそれを取り上げ、特別注意をして監視をする。彼等が見付けた僅かな狂いを正す為、即座に幾らかの休息を取らせる。それは、その僅かな狂いを修正する事なく任務を続けさせると、軈ては大きな狂いとなって現場工作員のみならず組織にまで影響を及ぼす事となる為である。しかし、諜報界の伝承の一つに、本来の人生を忘却した人間が取る休息は、天国でも数え切れぬ程の待機の日々が付きものである秘密作戦よりも、たった二十四時間でも果てしもなく思える事が屡々で、元より来世とは何の関わりもない、というものがある。サラの場合、特別にその傾向が高かった。プライベートが殆ど皆無である彼女にとって、何の仮面でもない一般人になる事は、病気を患った人間よりも存在意義のない存在に思える程であった。任務後のあの溶け入るような睡眠も出来なければ、ぽっかり空いた時間の過ごし方が未だに分からないでいた。彼女には本来の人生というものがなく、キングスマンというものからいざ離れると、自分が何者なのか、何に情熱を費やしている人間なのかを唐突に見失うのである──凡夫として暫く外界に紛れる事となったサラは、マーリンに指輪や拳銃といったガジェットを返却しようとした。しかし、彼は休暇中でも用心する事の旨を伝え、それらを受け取る事をしなかった。彼は自分の目が届かぬことろに彼女を放り出す事を納得してはいなかったが、それらを通常の任務通りに携帯させる事で自分の心情を納得させた。随分と長い間、誰よりも外界との関わりを持つ事をしていなかった彼は、外界を何よりも、この慣れ親しんだ暗澹で救いのない諜報界よりも危険極まるもの、救いがあるように見せ掛ける幻想であると見ていた。そのような世界に、サラがうっかり心と時間を奪われたりはしないか不安だったのである。君は少しばかり……年齢的な事も相俟って、外界を羨んでいる節があるからな。でも其処には何一つ確かなものなんてないのだ。全ては夢を見るのと同様だ。しかし、マーリンの慎ましやかな口は、「楽しい休暇を」とだけ告げた。
浜の松並木に、豆粒のような人間が蝿の如く集まっては息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。サラは、街のこのように静かな、嘘のように黙っている海を見た事がなかった。その海は灰色で、全く小波一つなく、無限の彼方にまで打ち続く沼かと思われた。そして、太平洋の海のように水平線はなく、海と空とは同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬ靄に覆い尽くされた感じであった。空だとばかり思っていた上部の靄の中を、案外にも其処が海面であって、幽霊のような大きな白帆が滑って行ったりしていた。彼女はその景色を横目で見ながら、ホテルへと続く大通りを歩いていた。土地を知らぬ人間が歩く速度ではなく、かと言って息が切れる程の速度にはならず、人混みに紛れた。通行人一人一人を一瞬にして観察し、武器等の携帯や、離れたところにいる人間或いは近くにいる人間と連携を取ってはいないかなどを考え、また、路肩に停車している車にも警戒を払った。今朝、ホテルを出た際に見た同じ車が同じ場所に停車してはいないか、或いは同じ人間が車内にいないか──何処かとんと見当も付かないほど遠くの方に、まるで世界の涯にでも立っているように思われる街灯が点滅していた。ホテルの向かいには公園があり、大通りとは異なって其処は大きな木々に遮られてとても暗かった。光を通さぬその公園の傍まで来ると、サラの幾らかの朗らかさも何だか酷く影が薄くなった。彼女はその心に何か不吉な事でも予感するかのように、我にもない一種の恐怖を覚えた為、その公園には足を踏み入れなかった。さり気なく背後を振り返ったり、左右を見回したりしたが、辺りはまるで海のようだった。先ほど見たものとは異なる世界、まるで昨日までいた自分の黒色の世界を思わせた。まるで直ぐ近くに魔物が息を潜めているような──いいえ、何も考えない方が良い。そう考えると彼女はそのまま歩いて行った。
未だ遠くにある公園の端へと瞳を転じた途端、サラの広い視界の端に映った一つの影。公園の敷地を縁取るように、間隔を空けて設置されたベンチに座っている一人の男。オフィスワーカーの風采、平凡なステンカラーコートの主は、年の頃四十前半の壮年で、背丈は高く痩せ型であった。この男の細面の顔は見た目に気持ちの良い、目鼻立ちの整ったものであった。最も、その大きな深い色の瞳は眼鏡越しに通りを眺めており、その眼差しの中には何かしら物静かではあるが重苦しいものが漂い、人間によっては一目見ただけで相手が癲癇持ちである事が分かる、奇妙な表情に溢れていた。そして、その人物が果たして何者か、サラにはそれを見分けるだけの余裕があった。諜報活動以外には同業と言えるその男の名は、もはや誰もが知っている。金で買う事の出来る殺し屋であり、撃ち損じる事を知らぬ手腕を持つ。ステンカラーコートの下、腰に隠しているであろうサプレッサー付きのグロック18は突然、音もなく人間の頭に亀裂を与える。ベンチに座って通りを眺めるという意味のない行為から、この殺し屋は自分を殺しに来たのではないという事を理解しながらも、どのように自分を殺すかはこの男の念頭にしか存在しないという事を思い、完全には信じ切る事が出来なかった。人間が蝿の如くいようといまいと真っ直ぐに銃口を此方へ向け、たった数発でもって殺しに掛かって来る為に油断は出来ない。サラの身体中の血が一気に冷たくなった。そして今、このたった数秒の内に、彼女は身辺に危険が、自分の死の床に影が群がるのを見るように、じわじわ迫るのを確信した。絶対的な危険、彼女が増やしも減らしも出来ぬ危険。昨日にも、自分はそれを見たというのに──石の顔は黙ったまま、秘密を握っているように未だ座っていた。二人共に視線を合わせる事はしない。だが、彼女はふと思った。このまま頭の中を一発の銃弾により裂かれるのも良いかも知れない。痛みさえない。彼の腕ならば其処から眉間を命中させる事など容易である。彼女の頭は不吉に鳴り響いた。その頭を下手に動かすと眼前がふっと暗くなり、高熱が引かずに意識が朦朧としてしまう。だが、此方とて備えは出来ている、抜かりはない。人混みに入るまでは昨日までの再現である。さあ、貴女の休暇なんてこれで無くなったようなものだわ。これで寂しがっていた拳銃も報われる。そしてマーリンの仕事がまた増える。けれど、今、貴女は一人切りなんだからね。自分以外に頼れる人はいないんだから、精々この頭を吹き飛ばされないようにしないとね──しかし、彼女の身体中の冷たくなった血は再び熱を帯び始めてしまった。

軈て、酒場から出て来た若者達は飲み過ぎた酒の酔いも次第に醒め、大通りから路地裏を辿り始めた。彼等が歩むに連れ、銘々の頭の影の周りに乳白色の光の輪が一緒に進んで行ったが、それはキラキラと輝く露の布の上に注ぐ月の光が作ったものだった。どの歩行者にも自分の影の後光しか見る事は出来なかったが、これは、頭の影がどれ程に整っておらずぐらぐらと動いても、決してそれを見捨てずにくっ付いており、いつまでもそれを美化するのだった。そして、遂には突飛な動作までがこの光を発する要因の一部かと思われ、また、彼等の吐き出す楽しげな息は、夜霧の一成分であるかのように思われた。そして、風景の精も月光の精も、大自然の精も、酒の精とぴったり融け合っているように思われるのだった──ソーターは、自分が殺めて来た人間の顔は覚えてはいないが、自分が初めて撃ち損じた人間の事は覚えていた。ただ、その人物の容姿を二つの目で直接捉える事は出来なかった為、彼の念頭で絵画のように思い浮かべる事も出来なかった。その場に障害物は幾つかあったものの、彼の手腕であれば、その人物の身体の何処かしらを一生使いものに出来なくする事など容易であった。しかし、此方へ飛んで来る銃弾の数は非常に少量であり、その数少ない銃弾に被弾した仕事仲間が次々と倒れて行った。ソーターは構わずそのまま続けたかったが、見事にその人物は煙の如く消え去ってしまった。彼は血痕を追う事を考えたが、その人物がいた場に残されたものは幾つかの薬莢のみであった。だが、火薬の匂いに抹消される程度の汗の匂い、足跡の大きさからして女性である事が分かった。グロックを腰に仕舞い、それら薬莢を拾う彼は、もう仕事の世界から自分一人の世界へ入って行ってしまった。次第に高まって行く負け犬共の雷霆の如き声の響きを、ソーターは恐怖と満足を感じつつ聞き付けた。そして、後から後からと浴びせ掛けられる猛烈な罵詈の声をも聞いたが、それを取り上げる事はしなかった。大きな手の平にしっとりと収まった鉄の筒には、足が付かないようにしている為に何の特徴もなかった。負け犬共の身体の中に埋まっている銃弾を引っこ抜いて調べる他ない、と其処まで思考に身を委ねたソーターは、冷たい感覚が全身を押し包むのを感じた。遂に本当の敵が現れた。組織の敵ではなく自分の敵であり、恐らく自分は此奴と対峙する時に死ぬだろう。自分を包んでくれていた防護膜はもはや何処にも存在しなかった。
死の静寂がやって来た。ソーターにとっての例の幽霊は近寄って来たが公園の中には足を踏み入れず、また、腰に差している拳銃を直ぐに取れるよう利き手を動かさずに、顔の割れた殺し屋に意識を飛ばしているその様子が、終始彼の心臓を僅かに鼓動を打たせた。それが自分の死に対する緊張なのか、将又相手の死に対する興奮なのかは分からなかった。その人物が彼の眼前を完全に通り過ぎるのに、少なくとも三秒が過ぎた。取り出した銃弾と薬莢を持って手当たり次第、腕利きの同業者を訪れては情報収集した時の事を彼は思い出した。ソーターは眼前を過ぎる相手の顔をまじまじと眺めた。歩道の水溜りに映った映画館のイルミネーションが、顎の下から女性の顔を明るくしていた。美しい。だが変な美しさだった。仮面の如く完全に左右均等な為に、何かしら作り物の感じで、且つ無表情で、底の方から滲み出ている凄味が漂っていた。その時、静かなる癇癪の兆候が彼の顔に浮かび始め、木々の影がそれを覆い隠すように彼の存在を一層暗くした。人混みに紛れた小さき殺人者から視線を外すと、少しばかり空を見上げた。しかし、その闇の如く深い色を持った目には、星の光の他は何も映らなかった。彼は夢想家には生まれついてはいなかった。そして、その粋で熱情的な、人間嫌いな心は空想というものを知らなかったのだった。