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Mutability



長年、この組織に属していると、元来人間に備わっている、ある一つの感覚が麻痺をしてしまう。何しろ世間の何処にでも転がっている危険が高貴な姿に変装している為に、危険が危険と感じる事が出来ないのだ。現場工作員の彼等ほど、危険に無頓着な人間はまたといない。マーリンの仕事は、国や人類の為に彼等を戦場へ送り出し、彼等を無事に帰還させる事である。またそれと同時に、他の誰よりも彼等の死を先に知り、或いはそれを進行形で見届け、後にその人物の情報を抹消する事後処理も同様である。例え神に見放されようとも、我々には魔術師がいる──現場工作員の間で、謂わば魔法のように唱えられている言葉が、偶然彼の耳に届いてからというもの、更に彼は仕事に没頭するようになった。彼が育成し、キングスマンになった者もいるが後に死んでしまった者。また、あと少しのところでキングスマンになれたのだが死んでしまった者。また、キングスマンのみならず、彼の過ちで死んでしまった者。自分の目で捉えて来たあの死が、自分を心より信じている彼等の魂を一瞬にして連れ去る事のないよう、いや、誰一人として、もう二度と失う事をせぬよう、凡ゆる手段を駆使しなければならない。彼を死に至らしめる銃弾は彼の頭を貫通する事はないが、その思いが鋭利なナイフとなって彼の念頭に置かれているのであった。
目を覚ましたマーリンは、此処が自分の仕事場ではなく医務室である事に対して訝しみ、記憶を辿ろうと努めた。天井付近より垂れ下がっているのは、見慣れた点滴の袋であり、其処から出ている半透明の管は自分の左腕に繋がっていた。それを抜くつもりで右手を動かしたが最後、センサーが働いては医療班へ意識の回復を直ちに知らせた。彼は体調を崩し掛けると、自分で密かに点滴をしており、またそれはこのような医務室の寝台ではなく仕事場で行っていたのである──畜生、きっと何処かで倒れたんだな。今まで口止めしていた医療班も、今回ばかりは黙っていないだろう。しかし、今、彼等の後方支援は誰がやっている?自分は一体どのくらい此処で休んでいたのか。畜生、油断していたな。マーリンは数秒後に駆け付けてくるであろう者に、自分の弱っているところを見られたくなかった為、彼は身を起こして姿勢を正した。寝台に座り、窓越しに夜が明けるのを眺めているそのたった数秒の間も、念頭には次から次へと思念が生まれ、精神は仕事を続け、様々な感情が湧き起こっていた。土壌から湿気が立ち上る手付かずの原始の庭のように、すっかり覚めた彼の脳は忙しく働くのだった。自分の愛する人が、この窓の額縁に囲まれて姿を現す時ほど美しく見える事はない。彼女を殆ど永遠にするのはこういったものかも知れない。凡ゆる偶然は除き去られ、存在が愛の只中に身を置いており、周囲の少しのこの空間と共に人間は存在を我がものとする事が出来るのだ。
目を閉じると、サラが思い出された。薔薇色の歩みを進む小さな後ろ姿、咲き香る花のような明眸。あの冷たいような、だが傷付き易い灰色の魂……今、どうしている事か?マーリンは漠然と考えた。生憎、現場工作員によるあの言葉は、今は口遊む事は出来ない。恐らく彼女は、誰かが口遊んだそれに対し控え目に笑うだけで、それを口遊んだ事もなければ、この私を心から信じた事もないだろう。それで良いんだ、きっと私は、いや、必ず私は、何れは君を死の戦場へ送り出す事になるだろうから。彼は先程まで見ていた夢を断片的に想起した。魂にかけて、今も彼女の姿が見えた。『今はもう先を考える事も出来ない』マーリンは言った。『私の悲しみと嬉しさ、その何方が夢なのか私には分からない』『二つとも』サラが答えた。明瞭には捉える事は出来なかったが、彼女は幸福げに微笑んだ。『二つ共で良いの』『サラ……星付く夜空を見ては、私達は互いを見た事にしよう。相会して語らない限り、星空は私と君との印であるとしたい』彼は現では恥じ入って言えない事を、夢の中で告げた。我々は幸福なところへ行くのだ。和やかな、雲のない空が微笑し、吹く風も穏かなところに。迎えてくれる人々は誰も我々を知らず、過去の亡霊が我々を見付ける事の出来ないところに。其処には歌が住み、生活も愛も、此処よりは美しく咲き出るのだ。『ええ、そうしましょう』彼女は今まで聞いた事もない玲瓏たる調子で言った──それがサラの最後の言葉であり、黄昏の薄明かりの中に彼女の姿は消えて行った。マーリンがこれを最後と振り返った時、消えんとする姿が一時彼の眼前にちらりとして夜の闇に閉ざされたが、それが本当に彼女であったか、今となっては分からなかった。

組織の本部であるこの屋敷は一日中、何やら曙めいた雰囲気を漂わせているのが有り有りと感じられた。窓を開けると、漆喰を塗っていない為に風通しが良く、悪と戦う戦士を持て成すには誂え向きであり、また、女神が裳裾を引き摺って歩いても良さそうだった。彼等の住まいを吹き渡る風は、山々の尾根を渡る風に似ており、地上の旋律を途切れ途切れに運ぶか、或いはその中でも天上的な部分だけを運んで来ているようであった。マーリンの胸は高鳴り、想いは糸のように乱れ、周囲のものが全て夢のように思われるのだった。すると、不意に、つい先ほど夢の切れ目となったあの同じ幻が、またもや彼の前に現れたのである。あの時と全く同じサラが部屋に入って来て、まるで彼の意識を待ち伏せしていたかのように、彼の眼前に立ちはだかったのである。彼の心臓ははっと身震いをした──いや、これはあの幻ではない。こうして遂に、疲労の余り意識を喪失して以来、顔と顔を突き合わせたのだった。彼女は何やら言葉を口にしたが、たった数秒の間、彼は黙ったまま彼女の顔を見詰めていた。何故か彼の胸は痛みに疼き始めた。マーリンの視線の先には、負傷した痛々しいまでのサラの利き手があった。それから彼女の瞳を見上げる事が出来ずに、彼はそのまま何処かへ瞳を転じた。こうした愛する人の損傷を目の当たりにすると、瞳孔の幕が音もなく引き上げられる。すると何かの姿がその中へ入って行き、それは四肢の張り詰めた静寂の中を通り抜け、心臓に入ってふと消えてしまうのである。彼の念頭には常にこの事があった。細胞に細波を立てながら壊滅させて行く銃弾が、彼よりも浴びせられる定めにある彼女の事を思い出す度に、いつも同じ心の痛みを感じたものであった。愛する人の呻吟に歪められる表情は、自分の苦しみ以上に耐え難いものである。マーリンはサラのその手を取り、接吻したかった。それはぎくりと彼の胸に堪え、不甲斐ない自分に対する忿怒を抑えるのは容易な事ではなかった。
「やはり私がいないと直様御陀仏だな。特に君は」
「ガラハッドも酷いと思うけど?」
「ハリーの場合、彼自身は無傷、ただし周囲に大きな災難が降り掛かる。事後処理が大変だ」
「私一人でも十分出来る。だから貴方はこうやって倒れる前に、休みを取った方が良いわ」
点滴の数も異様に減らずに済むし、と付け加えて尚、不器用な性格を顕にしたサラは、殺し屋の命である利き手を自身の背後へすっと隠した。マーリンを我に返させると同時にその心を強く捉えて止まない、生真面目な、時には沈みがちの瞳の表情。彼女の中には何かしら別の世界が、自分などには想像も付かない、複雑で詩的な興味に満ちた崇高な世界がある。君が背負っているものと比べたら、私の存在など取るに足らない。だが君が私を必要としている限り、私の存在に意義が生まれるのだ。このような寝台に横になっているだけの私に、価値はない事は誰よりも分かっている。私からこの仕事を取り上げたら、私から君を取り上げたら、唯の詰まらない男が息をしているだけなのだ。すると、再びマーリンはその灰色の眼の中に、自分には開かれていないあの特別の世界を認めた。
「防弾スーツは役に立ったか?痣はどの程度に出来た、前よりはマシか?」
「ええ、全然出来てなかったわ。ありがとう」
自分の睡眠時間を費やしてでも完璧なものに近付けようとした、愛する人を守る為の鎧。終始マーリンの脳裡には、雨の如く浴びせられる銃弾を避け損ね、幾多もの痣を作り出した肌があった。現場工作員のそのような状態は、普段はスーツで悉く隠されており、他人は知る由もない──サラの香水と血の匂いが上質な衣服から立ち上る。優しい彼女は苦痛の息と共に、彼に嘘を吐いた。スーツや武器の創作は、謂わば一連の詩作であった。女神ヘレネーに捧げる幾つもの篇による短詩である。率直で情熱的な告白が、こればかりは心の奥に抑え込まれる事なく、光を発する恒星の如き詩行となって迸り出るのであった。君にそのような嘘を吐かせるとは、未だ未だそれらは完璧ではない。君の神聖な身体に纏うべき完璧なものではない。しかし、マーリンはサラに、スーツの機能を饒舌に語りたかった。色味や形といったものだけではなく、どういった繊維のどのような構造で如何に彼女を守るかを聞かせてあげたかった。彼自身、彼女はそういった事に関心がない事は十分に分かっていたのだが。
「君を一日でも生き永らえさせる。それが唯一、私に出来る唯一の事だ」
「でもそれが、貴方を苦しめてない?私は貴方にそんな事を頼んだ覚えはない。其処までして私を守ろうとしなくて良い」
「それは……サラ、君が私にとって、」
奇しくも此処で居合わせた二つの人間。定めに苦悶しながらも美しく輝く女を見付けた男。女が余りに明るく輝く為、男は他に目もくれない。女はその定めから自分を解き放ってくれる大風が吹き起こるのを待っており、男もまたそれを待ちつつ、自分がその大風になれやしないかと思っている。愛と憎しみの大風に……。星々が弾丸から迸る火花のように、空の辺りを吹き去って死ぬのは一体いつになる事か。だが、その大風が吹き時が来るのを、この遥かに遠く、最も密かな無垢な花は待っているのだ。マーリンは、自分の心の富が嘗て歩んだ道、サラに触れた指や誓いの記憶、それらを尊重しようとは終ぞ思いもしなかった。花の香りは彼にただ、未知の美のみを語り掛け──新しい空気を彼は静かに吸い込んだが、憧憬を覚えはしなかった。奉仕出来るという事だけが彼の心を喜ばせていた。
「いや、止めておこう。何にせよ私が抱いた印象なんぞ、今も昔も、君にとってはどうでも良い事だからな」
不在も忘却も、時の流れも消す事は出来なかった、心に刻んだサラの名と愛。 未熟の内より彼女を守り、導く騎士となったマーリン。目や血、或いは命より貴く、凡ゆる土地で彼女一人を長々と詩に歌う為に、彼の魂が永久の主題に選んだヘレネー。しかし、彼女の美しい眼差しから出たのは皮膚を引き裂く矢ではなく、その残酷な切先が心臓と肺を、血管と骨の髄を突き通す矢であった。忽ちその矢に傷付いた日以来、彼女ばかりを思い続けた胸と魂から、この長い茨の道を歩むに連れ、彼女は彼の理性と生気を奪った。その美しい眼と彼の目が再び出会う運命の巡り合わせがなかった間も、直接に彼女の面輪から「愛」が刻み付けた映像は、その一画も時に奪われず、また消されず、彼を悩殺した最初の日の彼女を、思い出の中に愛し続けた。城壁を破り砦を壊す歳月の流れに、この二人の日々が少しは失われたとしても、それが何であろう。マーリンに大切なものはこの現在ではなく、サラの最初の眼差し、あどけない優しさで、深く彼に突き刺さったあの眼差しの矢であった。その血の滴りを今も尚、彼は胸に感じていた。近く、或いは遠くから身を魅惑した彼女の眼に、再び巡り合った日。彼は彼女の眼の光に当たって立像と化し、口も利けず、歩みもならず、乱れた理性は彼の全精神を氷らせて離れ去り、彼は夢見つつ彼女の瞳だけで生きていた。思い出していたのはいつも、彼女の若い光に瞳が眩んだあの最初の瞬間の事、また一夜、二人で過ごしたあの雑談の時の事であった。その思い出ばかりが他に勝った。それはこのような春の季節だった。今その同じ季節を、再び彼女と迎える事が出来た。願わくは他の不幸な時を差別せず、そのまま心に舞い降りて欲しいとさえマーリンは思った。「何故今日は指輪をしていないんだ」と、彼は感情を抑えた、抑揚のない口調で言った。
「二度と外さないように」
「そうね、もう二度と」
二人は互いの目を見詰め合った。マーリンの唇が僅かに震えた。サラの方にぐいっと頭を向けて、掠れ声で無遠慮に言った。二度と外さないように、それは私の誓いだから。君は私の救いであり、私を救う事の出来る人は、君だけだから。恋しさは互いに同じではなかった。悲痛は優しい声で、彼の悩ましい人を靡かせ、美しい人を悲しく慕い続け、彼の胸に深い傷を負わせた。彼女は愛され、彼はそうではない。彼女は優しい音色で人を靡かせるが、彼の想い人の方は彼の歌を心に留める事もなければ、そもそも耳を塞いで聞こうとしないのだった。