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The house of life



*THE SECRET SERVICE

ハリー・ハートの訃音と共に、サラが手に入れたものは彼の生家であった。身寄りのないキングスマンが死亡すれば、その遺産は組織に搾取される掟であり、それは組織発足以来の変わらぬものであった。しかし、王の不在も相俟って、魔術師が輝かしい功績を残した戦友の死を尊重し、生前の彼の意向を取り上げたのである。 彼女は形としての遺言を眼の当たりにしないまま、ただ彼女の元には彼の死と一つの大きな遺産が遺されたのだった。君には何も言うまい、君は私の全てを分かっているだろうから、と最期まで堅く口を閉ざした戦士の幻影が、彼女の脳裡に浮かんだ。
当然の事ながら、サラの不安は刻一刻と募るばかりであった。彼女はぼんやりと辺りを見渡しつつ、ロンドンの街中を彷徨っていたが、開けた場所まで来て、人気のない聴衆席のベンチやオーケストラの譜面台の列が眼に映ると、思わず驚いて立ち止まった。何故かその場所がとても醜いもののように、彼女の心を脅やかした為である。彼女はもと来た方へと引き返し、嘗てハートと共に歩いた時の道を進んで、意味もなく隣同士に座ってポツポツと話したベンチの所まで行った。其処へ腰を下ろすと、その断片的な思い出の懐かしさや可笑しさを思って、彼女は眼を細めた。しかし、忽ちそうした自分自身に対して、堪らない嫌悪の念を感じるのだった。サラのもの侘しい気持ちは尚も続いていた。彼女は何処かへ行ってしまいたかった……だが、何処へ行ったら良いか、自分でも分からなかった。頭上の梢では鳥が囀っていた。彼女は木の葉を透して鳥の姿を捜そうとしたが、鳥は不意にぱっと梢を飛び立った。すると、その瞬間どういう訳か、独りで渡英した時の事が思い出された。異国の太陽による輝かしい陽光を浴びた、一匹の取るに足らない蠅ですら自分のいるべき場所をちゃんと心得ており、人間の役に立つ事の出来る一人の人間であるのに、自分一人だけが除け者なのだ、という一節が心に浮かんで来た。この一節はキングスマンになった初めの頃、絶えず彼女の心を強く打ったものであるが、今またその事が思い出された。すると、随分と昔に忘れていた一つの思い出が彼女の心中を蠢き出し、突然明瞭な姿となって浮かび上がって来たのである。除け者であるという意識は、どのようにして薄れて行ったのか。その一つの大きな因として、ハートの存在があったのだ。彼はキングスマンとしてのサラを求め、また除け者である異国の血と名をも求め、彼が見せる事をしなかった優しさや慈悲の面影を彼女にだけは見せた。彼は、自分は除け者なんぞではないと思い込ませてくれたのだ。そういった幾多もの事実を、彼女は彼を喪失して初めて気が付いたのだった。
この出し抜けの、繋ぎ目のない、将来の予想も付かぬ別離に、残されたサラはただ狼狽させられ、今尚極めて近く、しかも既に極めて遠いその面影の思い出に抗する術も知らぬ状態で、今やその思い出が彼女の日々を占領していた。事実上、彼女は二重の苦しみをしていた──まず第一に彼女自身の苦しみと、それから、其処にいない者が齎す身の上に想像される苦しみと。ある人が傍にいる時には思わなかった事が、いざ遠くへ行ってしまうと、途端にその人について様々な事を思い始めるというのはよくある話である。他人の死、それも近しい人間の死というものは常に周囲に溢れ返っていた。しかし、このハートの死については彼女の中で全く異なっていた。凡ゆるものが、眼に映る全てのものが、彼に通じていたものとでもいうように、彼の香水の匂いや落ち着いた静かな息遣い、またあの矜持と悠然さまでもが厳然と、まるで彼が未だ其処に佇んでいるかのように、サラの胸に絶えず迫るのだった。『今でも遺産は何か永遠の事に捧げたいと思っている』──平凡な名前以外には何も知らなかった心の広い、未知の男の、仮初に言ったと思えてならなかったこの言葉は、彼の死によって崇高なものとなり、哲学者達の道理を尽くした凡ゆる倫理以上に彼女の心を動かした。彼女は彼の言葉に引き比べ、自分の狭量を恥じた。矛盾が洪水の如く彼女を襲った。
サラは正にこの瞬間、足下に広がるこの街が形作る閉ざされた世界と、この街が暗夜の中に圧し殺している恐るべき叫喚との異常に鋭い知覚を抱いた。彼女の中で再び沈黙が広がり、そしてそれと共に、苦悶する街のこの定かならぬ騒めきがまた聞えて来た。彼女はベンチから腰を上げ、本部へと続く道を進んだ。途中、ハートの生家へと繋がる道に出たが、訪れる気は起こらなかった。彼はいない。嘗て其処には彼が息衝いていたが、今はいないのだ。何を思ったか、彼女は顔を上げて無限の空を仰いだ。其処にも彼はいない、神の御許になんぞ尚更いないと思いながらも、何故か他に瞳を転じる事は出来なかった。永劫の声とは天地が出来た時に生じた声で、其処の世界がある限りそれに付き添うように存在している。取り分け魂がこの世から旅立とうとする時、永劫の声はそれに対して呼び掛けると受け取られて来た──永劫の声よ、今は黙っていて欲しい。生ある者に目を向けず、天に召された者の世話をしていて欲しい。彼なら貴方の声に従うだろうから。魂の炎として時間が消滅するその瞬間まで、我々の心が生き抜いた事を知って欲しい。飛ぶ鳥や地を吹く風、揺れる枝や水辺の波に。貴方が呼び入れた魂は生き抜いた。だから永劫の声よ、今は黙っていて欲しいのだ……。
サラの前だと、余りに彼女を想う恋心故に心が怯えて言えないでいた恩師の言葉を、エグジーは彼女を相手に話して聞かせてあげたかった。彼女が言った、ハートの家を自分に譲るという言葉を聞いて、彼女の認識、ハートに心から愛されていたという認識が充分ではないように思われたからである。恐らく何の言葉もなしに死んで行った彼の代わりに、せめてもの恩返しのつもりで、死人の噤んだ口を開けさせようとした。頭を真正面から撃たれた殆ど潰れた恩師の顔が、じっと此方を見ているのをエグジーは感じた。恋をして来なかったと自分に告げた人。他人の心に触れる術を知らず、また知ろうともせず、殺しの世界での生きる術と人間を調教する術のみを教えた人。俺は貴方にこの現世に於いて、未練を感じて欲しかった。一瞬にしていなくなってしまう前に、俺は貴方に、人を愛する術を教えてあげたかった。思うに、貴方は貴方なりにサラを愛していたんだろうけど、彼女を現世に一人残す事は愛じゃない。だって聞いた?彼女は俺と俺の恋人に家を譲るって言ったんだ。貴方がちゃんと言葉にしないから。どうせ、自分が遺した意図を全て分かってくれるとでも思っていたんだろうけど。しかし、エグジーの聡明な目には、まるであの家が、最期までハートに大事にされたあの家の存在が、彼女を苦しめているように映った。別離とは何かを、始めて彼女は痛いまでに思い知ったようであった。そして、常にありありとそれを感じており、その暗くて耐え難く、惨いものは美しく結び合わされたものをもう一度示し、差し出し、そして引き裂いてしまう。ハートとの思い出が全て悲痛で以て想起させられる、とでも言うように。エグジーは不器用で、痛みから立ち直ろうと努めているサラを救いたかった。
「だけど、本当に良いの?ハリーの大切な人は君だったんだよ」
「ええ、良いの。弟子である貴方が住むべきよ。私にはもう家があるから」
『大変残念な事だが、エージェント・ガラハッド、我々の同志の死亡が確認された』──そういう時に自分が何を言ったか覚えている人間はいない。しかし、死に慣れているサラであっても、お決まりの苦痛や恐怖、または不信の叫び声を上げた。それと同時に、物を明瞭に見る事が出来なくなった。 血と埃に汚れた手で持っている拳銃、辟易するまで見た街の風景、薄汚れた自分の顔や死人が住んでいるような屋敷。一方で、一年のこの時期にしては晴れて暖かかった事は嫌に覚えていた。吐き気を催したのも確かだったが、彼女は素直に感情を外に表す事が出来ない性格の為、何とか吐かずに済ませた。マーリンに連れられ、大混乱の後の閑散とした本部に帰った事も覚えていた。イトスギが密生する雑木林に遮られている中庭の、随分と昔から時間が停止している景色を見ながら、外傷の治療をさせられた事も覚えている。どのようにしてハートが死んだのかをマーリンに聞く事なしに、またその静かなる訃音を信じ切る事が出来ずに、ただ一心に、疲労の伸し掛かった魂を生に結び付ける事をした。しかし、深い自責の念が顕になっているマーリンの眼差しは、サラにその事実の真偽を示していた。ハートとの思い出は……謂わば槍のように尖った花であった。それと並んで大胆に開いて露を滴らす花は正に火と絹であり、その二つがそれらを覆い、殆どが痛みとして記憶されているものであった。
死に行く動物は恐怖も希望も持つ事はない。人間は死を前にして尚恐怖し希望する。人間は幾度も死に、幾度も生まれ変わるのだ。名誉を知る偉大な男は例え殺されようとも、自分の息が絶える事を恐れたりはしない。そのような男は知っているのだ、人間が死を作り出したと──さらば、束の間の、我が強き光。また顔を俯けると、サラはエグジーよりも先に部屋の出口を通り抜けて、中庭の奥の方へと向かった。彼女は埃だらけの小さな木の間にある一つのベンチに腰を下ろし、既に二つの眼から流れ落ちそうになっている涙を拭った。彼女は心臓も砕けんばかりに締め付ける激しい痼りを、今こそ解きほぐす為に、未だもっと泣きたい気がした。暑さが無花果の枝々の間に、徐々に降り注いで来た。午後の青空は、直ぐにもう白っぽい曇りに覆われて来ており、それが大気を一層息苦しくした。彼女はベンチの上でぐったりと身体を休めた。じっと木の枝や空を眺めながら、徐々に呼吸を取り戻し、少しずつ疲労を解して行った。

天地創造を未来永劫に渡って讃え続けるであろう人々、羊飼いと葡萄作りとによって眺められて来たこの空。それは彼等の目によって永続するものとなったのであろうか。この美しい空とその風、その青い風。そして風の後のかくも深く、かくも力強い静寂は、満ち足りて眠りに入る神を思わせた──惨たらしいかな、ガラハッドの遺体は。酷いものかな、英雄の最期の姿は。いや、酷いものではない。ただ事実であるだけだ、とサラは腹の中で自分自身に答えた。夢想の中の夜は、不思議な程に厳かで静かだった。ただその優しげな夜は、君はハリー・ハートという人間を愛していたのだと、彼女に囁いて聞かせた。また、彼が以前、二人共が今にもその生命を失くす恐れがあったにも関わらず、傷付いた彼女を両腕に抱えて、生死の荒れ狂う流れを渡り、辿り着いた廃墟で彼女の心に触れようとした時の事をも、彼女に囁いて聞かせた。彼女は今までその事を全く知らなかったように、全く等閑視していたように、その囁きに初めて耳を傾けた。すると夜は、戦死した筈の人物を、彼女の眼前に現した。それはサラが最後に見たハートの姿であった。満月の下、柔らかな白銀が庭の夜々に煌めき滴る時には決まって黒色の嘲笑者が、死がやって来ては、数々の犯した罪を忘れない番人のように彼女の耳元で囁いた。また、彼女が触れた指の間から逃れ去ってしまう愛は美しい花の上、かの燃える真紅が強烈な赤い花弁の暗い奥に潜んで行った。数多くの思い出に、それらの無情が彼女に尋ねた。馥郁たるも悲しい、答えようもない問いを──彼が此方へとやって来る。救いの手を幾度も差し伸ばしてくれた彼が、ゆっくりとした足取りで夜の中を進んで来る。死による囁きから耳を塞いでくれ、また愛が溢れ落ちないように手を握ってくれた彼が。
サラは英国での最初の年、当時は他人が自分に何を求めているのか、さっぱり理解が出来ない事さえあった。ある太陽の輝いている晴れた日に、彼女は、ある悩ましい、とても言葉では表現する事が出来ない考えを抱いて、長い間あちこち歩き回った事があった。眼の前には光り輝く青空が広がっていた。下の方には湖があり、四方には果てしも知らぬ明るい無限の地平線が連なっていた。彼女はこの風景に見惚れながら、苦しみを味わっていた。彼女は自分がこの明るい果てしない空の青に向かって、密かに泣いた事を思い出した。サラを苦しめたのは、これら全てのものに対して、自分が何の縁もゆかりもない他人だという考えであった。ずっと昔から──ほんの子供の時分からいつも自分を惹き付けている癖に、どうしてもそれに加わる事を許さないこの饗宴は、このいつ果てるとも知れぬ永遠の大祭は、一体如何なるものであろうか?毎朝毎朝これと全く同様の明るい太陽が昇り、毎朝毎朝滝の上には虹が掛かり、夕べともなればあの遠い大空の果てに聳り立つ一番高い雪の峰は、灰色の炎のように燃え立つ。自分の傍で、輝かしい陽光を浴びて唸っている蠅は、どれもこれもこの地の一員で、自分のいるべき場所を心得、その場所を愛し、幸福なのだ。どんな草もすくすくと成長し、幸福なのだ。全てのものに己の進む道があり、全てのものが己の道を心得、歌とともに去り、歌と共にやって来るのだ。それにも関わらず、ただ自分一人だけは何も知らず、何も理解する事が出来ないのだ。自分は全てのものに縁のない赤の他人であり、除け者なのだ。この世で一人、除け者なのだ。そう思う事を止めさせてくれた彼が、英雄が、直ぐ傍で立ち止まった。
『真逆、君との別離が訪れるとはね。だがサラ、このような夢想の中でも一つだけ明瞭な事がある。それは──それは君が、ある男に必要とされた事だ。除け者などではない。君は必要とされたのだ。またこれからも、君は必要とされ続ける』
ハートは、血の気の失せた唇を僅かに震わせているサラを見詰めた。彼女は星空を見上げるとよく分かった。星がどう言おうと自分は地獄へ行くのだと。この地上では人間を恐れる事も獣を恐れる事も、どちらにしても大して変わりはない。報いる事が出来ない程の情熱で、星達が輝くのを見るのは素敵な事だと。星と同じ程の情熱を持てないまでも、せめて今より愛する事の出来るものになりたい。彼女はそう思っていた。自分がどれ程までに星を賛美したところで、星にとってはどうでも良い事なのだ。自分だって星を心底から愛した事が、あるだなんてとても言えないから。もしも、凡ゆる星が消えてなくなったとしたら、自分は星のない虚ろな空を眺める事となり、暗黒を崇高なものと感じるようになるだろう。それには少し時間がかかるかも知れないが……。終始、サラの脳裡に浮かんでいる、今までひた隠しにしていた思いを、この男に打ち明けようかとも思った。しかし、結局それをする事なしに、ただハートの眼差しを見詰め返した。琥珀色の、散々に傷付いた心。さらば、束の間の、我が強き光。二人は再び沈黙に陥った。一、二分すると、彼女の呼吸が規則正しくなり、いつの間にか彼の手を握っていた手が緩み、彼女は眠ってしまった。東の地平線に沿った青白い銀色の帯の為に、その大平原の遠方の部分さえ暗く、近くなって見えた。そして、巨大な風景全体が、夜明けの少し前にいつも見られる、あの遠慮と沈黙と躊躇との印象を帯びた。