×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

Anthem for doomed youth



今朝方、ルーピンは嘔吐の発作に打ち倒されてしまった。その直後、気力が衰退するのを感じた彼は、一時はこのまま死ぬ事が出来るのではないかと思った。ところが現実はその通りではなかった。初め、彼の身内には大きな平静が訪れたが、軈て彼は肉体と魂との戦慄、一つの苦悶に襲われた。それは丁度、彼の一生の突然な、そして明瞭な啓示ででもあるかのようであった。彼は其処で初めて、此処が自身の愛そのものであるサラの屋敷である事に気付きでもしたようであり、彼は無上に恐ろしくなった。今、こうして寝台を抜け出し、蛇口から流れ出る澄んだ水を茫然と眺めながら洗面台に顔を寄せているのも、全ては気を落ち着かせる為であった。自分自身に対して穢す言葉を口にする事なく、最後まで行き着く事が出来るように……。ルーピンはこのまま、自分が現世でたった独りである事を再び思い出さない内に、直様この世を去りたいと思った。未来がどうなるにしろ、自分は彼女と一緒になる事は出来ない、一緒にいて幸福となる事は出来ないのだ──我々が身の危険を感じるのは、病が我々の中に忍び込んで来る正にその瞬間である。一旦病が我々の内に根を張ってしまえば、適当に折り合いを付ける事も出来るし、また忘れている事も出来る。彼にはもうこれ以上、自分を欺き続ける事は出来なかったし、立ち上って来る騒めきに耳を塞いでいる事も出来なかった。一体何の廉で彼女を責めれば良いのか分からなかった。ただ、彼女の所為だという事は明瞭であった。これは他の誰の所為でもなかった。また、時々ルーピンは、自分が彼女に感じているものが所謂恋なのかどうか、自分がサラを本当に愛しているのかどうかと考えて分からなくなっていた。一般に人間が恋について述べているものと、彼自身の考えるものとはそれ程に異なっていたのだ。彼は、そういった言葉は口に出さずに、また自分では愛している事に気付かずに彼女を愛していたい、彼女に知られる事なしに彼女を愛していたいと思っていた。彼女なしで暮さなければならないとなれば、何一つ自分に喜びを与えてくれるものはなくなってしまう。実際、彼女と再会するまではそうであった。彼の徳も、全く彼女の気に入られたいが為に他ならないのだ。しかしそれでいて、彼女の傍にいると、その徳が崩れそうになって来るのだった。
ルーピンは寝台に再び横になったが、目も瞑らずにいた。間もなく彼は、何かしら微かな照返しが彼のいる部屋の中へ、絶えず射しては消え射しては消えする事に気が付いた。彼は身を擡げて窓を眺めた。神秘めいて不明瞭に白んでいるガラスの上に、窓の桟が明瞭に描き出されていた。雷雨だ、と彼は思った。確かに雷雨には違いなかったが、とても遠方を通っている為に雷鳴も聞えない程だった。ただ、光の鈍い、長々と尾を引いた、枝に分れたような稲妻が空に閃いているだけで、それも閃くというよりは寧ろ死に掛けている鳥の翼の如く、ぴくぴくと震えているのだった。ルーピンは起き上がって窓の傍へ行き、朝まで其処に立ち尽くした。稲妻はほんの束の間も止む事はなかった。彼はひっそり静まった草地や、 黒々とした森陰や、鈍く稲妻が閃く度にやはり震えるように見える湖の表面を、じっと見詰めていた。見詰めたまま目を離す事が出来なかった。そのひっそりした稲妻、その遠慮がちの閃きが、同様に彼の身内にも閃いている無言の密やかな衝動に、丁度相応ずるもののように思われた。夜が明け始め、朝焼けが其処ら中に真紅の斑を散らした。日の出が近付くに連れて稲妻は段々淡く、短くなって行った。その戦慄きはいよいよ間遠になり、遂には明瞭に明け離れた一日の、人間の夢を覚ます疑いもない光に浸されて消えてしまった──サラ、以前にするべきだった告白、君と大気とに言うべきだった事を私は繰り返す。私は自分が度し難い人間である事を知っているし、また、自分の存在が奇怪千万、殺意に満ちた凶器である事を知っている。何故なら私は、平穏無事や安泰といった凡ゆる固定した掟に対抗し、それらを足元より揺らそうとしているからだ。この世の誰もが私を受け入れていたら違っただろうが、誰もが私を拒んだ為に、私は益々決意が堅い、私は経験や警告、多数意見や嘲弄に見向きもしない、また唯の一度だって振り向いた事もない。そして、地獄と言われるものの脅威などは私にとって取るに足らない、いや何物でもない。そして、天国と言われるものの誘惑なども私にとって取るに足らない、いや何物でもない。信頼出来る仲間と共に、私は共に前進しようと促して来たし、今も尚促しているが、告白すれば我々の行き着く先が何であるのか、我々が勝利するのか、それとも完全に打ちのめされて敗北するのか、少しも知りはしないのだ。
日々の出来事の暗澹さは、恋の真の惨めさを忘れさせてくれたように思われた。中庭にて互いの姿を捉えた二人は、荘厳とも形容すべき、深い深い沈黙が続く中で同じ時を過ごした。サラと一緒に歩いていると、過ぎし不幸と今の幸福の対照は、ルーピンのような性格にとってはどうにもならない程に強く感じられるのだった。彼は彼女の手を取り、血の通った唇を押し付けたかった。あの部屋、君が用意してくれた部屋で、私は君の事ばかり思いながら過ごしたのだ。彼処であの大きな門をじっと見詰めながら、君の手がそれを開ける嬉しい瞬間を、幾時間幾時間も待って……。彼はすっかり弱気になってしまい、その時の極端な絶望の気持ちを、到底空想では思い付く事の出来ない真実らしい色彩を持って、描いて見せた。短い感嘆の言葉が、この恐ろしい苦しみに取って代わった今の彼の幸福を確かめるようであった。一体、この有様は何だ──彼は急に我に返った。私はもう破滅だ。心配の余りルーピンは、早やサラの眼から愛の光が薄らいだようにさえ思った。しかし、それは錯覚だった。彼女の頬がすっと紅潮し、その同じ瞬間、何か同情を示すようなものが、彼女の恥ずかしそうな、如何にも怖気付いたような可愛らしい顔に閃いたように彼には思えた。恍惚感と同時に躊躇いが彼の顔に閃いた。こうした美しい顔と眼は全てがきらきらと燃えて輝き、この上、更に何かを待ち望んでいるように見えた。死人の如く蒼白であった彼の顔、また、光を失って悪意すら感じられる程の傲慢な表情が、今までの何もかも忘れて真実に溢れた愛の表情に取って代わろうとした彼の目。ルーピンに向けたサラの眼差しには、隔てを置かぬ情愛が込められていた。
「バラデュール夫人……いや、サラ。今より後は一言も私は口を利かず、書きもしないつもりだ。これがつまり、私の最後の愛情の印であり、言葉であると思って欲しい」
遂にこの言葉を口に出した時、ルーピンは初めて大層不幸な気持ちになった。彼の懐奥深くで望んでいた様々な希望が、自分は死ぬのだ、死ななければならないというこの言葉によって、一つ一つ水泡の破れるように心から消されて行ったのである。死そのものは恐ろしいものと思う事はなかった。ただ彼は、自分の一生は不幸への長い用意であったのだと思った。自分が愛するサラは、自分とは違って何の非もない男を愛しており、ルーピンは過去に捨てられた愛人の痛ましい嫉妬が溢れてしまうのではないかと思った。 彼女は尚も過去の気持ちを全く眼に浮かぶように、また少しも隠し立てしない調子で、事細かに語り続けて自分を悩ませるかも知れない。だが、彼女が現在眼の前にある事柄を描いているのだという事は、彼にもよく感じられた。こうして二人切りで過ごす内に、彼女は自分の心の中で今まで気付かなかった様々な事を発見して行くのだと思うと、彼は辛かった。これ以上の激しい嫉妬の苦しみは有り得ない。愛されている恋敵があると考えるだけでも既に不幸な事だが、その恋敵に対する気持ちを当の女性の口から事細かに打ち明けられる……それは恐らく苦痛の極みだろう。
これ程までに美しい、これ程までに非凡なこの人が、一度は私を愛してくれた。一度は……だがいつからか、あの男を愛するようになったのだ。ルーピンには、サラが本気で夫を愛しているという事を疑う事は出来なかった。彼女の全ての仕草には、事実の調子が余りにも明瞭に現われていたからである。彼を不幸のどん底へ突き落とそうとでもするかの如く、彼女は夫に対して抱いている感情を心中に秘めており、確かにその調子には愛が篭っている、と彼は感じた。彼の胸の中は、例え鉛の熱湯を流し込まれたとしても、これ程までに苦しくはあるまいと思われる程だった──情の手綱を余り緩め過ぎてはならない。極めて堅い誓言も、血気の炎に煽られると藁しべも同然である。しかし……私が今、君からどれ程までに離れ難く思っているか、辛い別離の前にこうしてお暇乞い出来る事がどれ程までに嬉しいか、君には分からないだろう。君のような人には、君のような人には……。
「今でもこの命は、何か永遠の事に捧げたいと思っているんだ。私に未来は存在しないが、君には依然として存在する。価値ある、無辜な道が」
未来ある君に捧げる。この命を君に捧げる。我が永遠の恋人、我が友なるサラ・バラデュール。君のような女性は一人もいない、一人として。ルーピンの血潮がこれ程までに暖かく、そして甘美に流れた事はなかった。それは流れ流れて、血管の影まで溢れ、軈て宿望の目的に達し、約束されたであろう幸福に迫り、静まって行った。愛すとは言うも愚か。我はサラを崇むるを。だが君は、愛する夫と光の道を歩むが良いのだ──ルーピンの脳裡には時々一切を放り出し、後も見ずにまるで突然の事のように、ふと思い付いたように、何処かへ逃げて行こうという決意が閃いたりもした。考えてみれば、それは今でも幾度となく思っていた事であった。いつもであれば、時間が経過するに連れ、我と我が考えを疎んじて嘲笑っていたものであった。こういう碌でもない考えというものは一旦頭に浮かんだ以上、そして自分が少しでも真面な人間である限り、何処へ行ったところでなくなる訳のものではない。となれば、そういった考えからは逃れる事は出来ないし、逃れて何になろう。それに……逃げてどうしようというのか。しかし、サラはゆったりと感嘆の微笑を湛えて、ルーピンが張り詰めた静寂の中に呟いた。それは彼女が懐の奥深くにしまっていた言葉であった。
「私の最期は貴方の胸の中で死ぬわ。例え死んだって、その方が生きていた間よりもずっと幸福だから」
ルーピンの魂の全てがサラに引き寄せられた。もっともっと語りたい事があったのだが、取り留めなく混乱した言葉が浮かぶだけで、それらが一気に迸ろうとした。彼は彼女の手を取って、『君は生きてくれ。君が死んでは私も生きていられないから』という言葉を聞かせてあげたかった。しかし、彼にとって彼女の言葉は、幸福な目覚め同然であった。彼の目が光に向かって再び開いた時、そして再会の涙を浮かべて、偉丈夫の彼の眼前に彼女が佇んでいた時には。彼はつと手を伸ばして、彼女の手を取った。その手は直ぐに引っ込められた。彼は自分のしている事が明瞭に分からないままに、再びその手を握った。自分も酷く感動していたが、彼は捕らえたその手の氷のような冷たさに愕然とした。彼はそれを震える程に力を込めてぐっと握り締めた。逃れようと最後の努力をした彼女だったが、遂にその手は彼に委ねられた。誇らしいルーピンは、愛情を込め狂喜してサラの手に口付けた。二人はこれら言葉で微笑した。依然として悲しみは近くにあったのだが──我々は何処までも人間の営みと生きなければならない。それらの死と誕生、人間と人間のものとなる全ての死と誕生。労苦と音を伴って動き、且つ呼吸するものは全て生まれて死に、循環し衰え、蘇る。私が今も尚この人と一緒に幸福にいる事が出来るとしたら……未だ幸福になる事はある。最も美しい生涯は未だ残っている。それを体験し得るなら、青年は英雄に、人間は神になるのだが。彼自身の述懐を聞いている内に、不思議に彼の心の夜が明けた。樹々の梢は、迫り来る闇との決戦に僅かに慄いていた。仄暗い地面に咲き浮かぶ花のように、星は夜の懐から芽を吹き、そして空の春は聖なる喜びの中に、二つの人間をただ照らしていた。

Dream, Ivory - Dream, Ivory