×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

The eye sees more than the heart knows



夏の日差しが空の雲の葉叢に金色の鍍金を掛けたとしても、冬の月光が野原を刻み、嵐が散らした錯綜を浮き出しにしたとしても、我々はそれを見るに堪えない。我々にのし掛かる責任が余りにも重い。遥か昔に言った事や行った事、言いもせず、行いもしなかったが、言っても良い、行っても良かろうと思った事が我々にのし掛かり、我々を押し拉ぐ。一日として何かを思い出さぬ日はない。良心や虚栄心が肝を冷やさぬ日はない──ルーピンは、決して多くはない不死鳥の騎士団の隠れ家の一つに案内された。内輪でも限られた者のみが存在を知る場所であり、それは鬱蒼とした森の中に建っていた。位置を知る姿現しでのみ到達する事が出来、また当然乍らマグルは感知する事が出来ない。彼は仲間に別れを告げて、再び建物を見上げた。それは荘厳な大貴族の屋敷であった。一つの名を受け継ぐ親族や近親が住んでいたであろう場所であり、純血主義を美徳とし、俗世間からかけ離れた暮らしをしていた事が看取出来た。しかし、今は誰一人として此処には住んでいないようであった。ルーピンは杖を懐にしまう事をせず、余所者を毛嫌う屋敷の中へと入って行った。玄関の扉が重い音を立てて背後で閉まると、夜の森よりも鋭い一切の静謐さが彼の皮膚を刺した。暗闇が支配している長い廊下を歩く勇気は早速挫けてしまい、入口付近の部屋へ足を踏み入れた。彼は書斎を見渡した。それは天井の高い、薄暗い、種々雑多な家具の並んでいる大きな部屋であった。その家具の多くは大きな事務机や文机、事務用の帳簿や書類の入った戸棚等であった。幅の広い赤いモロッコ皮のソファーは、どうやら利用者の休息の役を務めているらしかった。ルーピンは椅子の前にあるテーブルの上の二、三冊の書物に気付いた。その中の一冊は魔法史で、読み掛けのところに栞が挟んであった。周囲の壁には剥げ落ちた金箔の額縁に、黒く煤けて、何が描いてあるのか分からないような油絵が幾つか掛かっていた。その中の一つの全身の肖像画が彼の注意を引いた。それは英国風ではあるが裾の長いフロックを着、首に二つもメダルを付け、白髪交じりの短い顎髭を蓄え、皺だらけの蒼白な顔に、疑い深く秘密の多そうな物悲しい目付きをした、年の頃五十歳ばかりの男が其処にはいた。余所者に声を掛けるでもなく、ただ静かに眺めている。ルーピンは杖から齎される光を額縁に当てがった。其処には"バラデュール公爵"との文字が彫られていた。何処にでも隙あらば蔓延る闇であっても、その名はそれを払う力がある。彼は密かに息を呑んだ。
人間は二つの極の間にて己の道を走る。炬火が、火を吐く息が現れては、昼と夜のあの背反を悉く抹殺する。肉体はこれを死と呼び、心はこれを悔恨と言う。だがそれが正しければ喜びとは一体何だ?ルーピンは、バラデュールという名に呼び覚まされた様々な記憶を、一つ一つ丁寧に手で摘んだ。彼は末恐ろしい敵も、実現し難い幸福の企みも全て忘れてしまった。生まれて初めて、彼は美の力に動かされたのだ。彼の性格とは全く相容れない、不明瞭な甘い夢想に耽りながら、この上なく美しくて大好きだったあの手を優しく握り締めた事、彼は菩提樹の葉並をざわめかす夜の微風に、また湖の頭上を飛び行く鳥の鳴き声にうっとりと聞き惚れた事なんぞを想起した。サラは私を覚えているだろうか。私と過ごした日々を未だ覚えてくれているだろうか。あの慎ましやかで他人の心を動かす美しさ、それに加えて、下層階級には見られない知的な美しさは、ルーピンがそれまで気が付かなかった彼女の精神の一面を啓示するかのようであった。凡庸な彼の目に映っていたあの美しさに心を奪われて、彼は愛想良く迎えられようなどという期待をすっかり忘れていた。それだけに、努めて自分に氷の如く冷ややかな態度を示そうとする彼女を見るかも知れないと思った時の、彼の驚きは一層激しかった。その態度の内に彼は、自分をまた元の地位に引き戻そうとする意図をさえ認めなければならないように思った。喜びの微笑は彼の唇から消え去った。彼は自分が上流社会に於いて、殊に富裕な財産を相続した貴族の女性の前で、どのような地位を占めているかを思い起こさなければならなかった。忽ち彼の顔には傲慢さと、自己に対する憤りの色しか見る事が出来なくなった。彼はそんな屈辱的な待遇を受ける為に、此処へ来た事が悔しくて堪らなかった。死喰い人と対峙する方が、未だ自分の面目を保つ事が出来るように思われた。ルーピンはふと床を見下ろした。部屋に敷かれている上質な絨毯を今正に踏んでいる、何層もの泥を付着させている革靴。また、鏡に映る、草木の湿気染みた匂いを放つ古びた服装。こんな落ちぶれた、詰まらぬ男がサラほどの貴族に会う資格はない。彼女はこんな容貌の私を見て失望するに違いない。何せ今の私は、昔の私とは似ても似つかないのだから。彼はそのまま顔を上げる事なく屋敷を辞した。
何処かとんと見当も付かない程遠くの方に、まるで黒い海にでも漂っているように思われる灯りが煌煌と光っていた。ルーピンはそれを目で捉えると、思わず足を止めた。彼はその心に何か不吉な事でも予感するように、我にもない一種の恐怖を覚えながら、背後を振り返ったり左右を見回したりしたが──辺りはやはり冥冥たる海のようだった。いや、見ない方が良い。そう考えると彼は視線を外らし、門の外へ出て姿眩ましをする為に急ぎ足で歩いて行った。軈て、もうそろそろ門を潜り終わったのではないかと思って顔を上げた途端、突然、彼の眼前に何者か、小柄な人間が立ちはだかっているのを見た。それが果たして何者やら、彼にはそれを見分けるだけの余裕があった。今まで私の姿を見ずにいてくれたサラに、この姿を晒さねばならない──それを思うと、身も世もあらぬ思いがした。これが私だと、分かってくれるだろうか。生れて初めてルーピンは恐る恐る嘗ての想い人を捉えようとした。もしも彼女の眼差しに、その心が示していた程の寛容と愛情が見えないと感じたら、この私は一体どうなる事だろう?当時の私は、自分を愛する為にも彼女の愛が必要なのだとそんな気さえしていた。いや、今も尚……。高い門を隔てた向かいに立ち止まっている、黒い衣装の女性。その気品のある態度に彼は驚きの目を見張った。ローブの中から覗いた露わな白皙の腕が、すんなりした身体に沿って美しく垂れ、眩しいような髪に差したフクシアの軽やかな小枝がなだらかな肩の線にはらりと落ちていた。明るい灰色の眼が白い額の下に、落ち着いた怜悧そうな光を湛えていた。それは確かに落ち着きであって、憂いではなかった。そして、唇が微笑を浮かべていた。何とも言えぬ優しい、柔らかい力がその顔から漂っていた。サラがこの自分に対し、あの時と同様の微笑を投げ掛けてくれた。彼はそう思うと、恋を除いて他のもの一切が彼の心から消え去ってしまった。
「リーマス」
この女性の感じの細やかさ、気持ちの良い上品さ、そういったものがルーピンの心をすっかり掻き乱していた。こういう品格は他の人々とは全く別物であった。正にバラデュールという名に相応しい女性になられた。一人の立派な女性になられた。サラと共にいたならば、私は幸福な優れた人間になる事が出来たであろう。自分を心より信じる事が出来る人間、彼女を真摯に愛する事が出来る人間に。また、現世を愛す事の出来る人間にも。この腕に彼女を抱く事が出来たらどんなに良いか──彼女について寸言を語る事は出来る。しかし、彼女の話をせよと言われても、全体としての彼女の為人は忘れなくてはならない。恍惚と悲哀との中に身を滅ぼす事のない為に、生き生きとした彼女の姿に捉えられてはならない。彼女の為に喜びの死、悲しみの死、何れの死も訪れる事がないのならば、自分は思い違いをした事にして、彼女は現存の人でなく、ずっと昔に生きていた人のように昔話で二、三回聞いた事がある事にしなければならないのだ。
「貴方が此処へ来てくれるなんて思ってもみなかったわ。ありがとう」
そう言いながら、サラはその言葉がまるで本当の事であるかのように見せた。彼女の嬉しさは、自分ではなく他の男の為にあるというのに。この時ほど彼女の声の優しさが、ルーピンにとって情けなく聞き取れた事はなかった。彼女の顔は、『当然の事を言っているのよ、何を悲しんだりなさるの?』とでも言っているかのようだった。そして、彼の心の凡ゆる抗議は唇まで上らず、咽喉のところで止まってしまった。気高いサラ・バラデュール。どうしたら私は貴女に引けを取らないで済むであろうか。何故、このような無為な私を愛してくれるのか──全ては愛の楽しい戯れであったのだ。諂いや気遣い、感じ易い心、厳格や寛大などといったものの。また私達の心を見通す全知や、私達を賛美する無限の信念など。恋をする時は人間は謂わば太陽であって、全てを見、全てを照らすのだが、恋をしないと煤けた豆洋燈の灯った暗い部屋である。私は沈黙すべきだった。忘却と沈黙とを守るべきであった。けれども心を蕩かす炎に誘われて、私はその炎の中に飛び込み、挙句の果てには蝿の如く果敢なく死んで行くのだ。自分の中にある彼女の存在が次第に物静かになって行くのを、抑え切る事の難しい懊悩の中に彼は感じていた。
「バラデュール夫人、私は直ぐに御暇します」
門に添えられている、苦労を知らぬこの綺麗な手が忘れられなかった。堂々とこの手を取りたかった。堂々とサラの隣を、肩を並べて歩き、凡ゆる場所へ連れ出したかった。堂々と、自分が何者であるかを告げたかった。そして堂々と、人間が与えられたという幸福の道を彼女と辿って行きたかった──彼女の魂の前で話すと暗い苦痛の波が総身に押し寄せ、ルーピンは思わず目を伏せた。何故、貴女は今、私の前に現れたのか。今頃になって、貴女は何を私に求めるというのか。もし、彼の愛が不確かなものだったならば、彼女のこの偶然的行為は大して意味を成さなかっただろう。だが、今更彼の愛が冷めてしまう筈もなかった。彼女のした事は結局、彼を悲しませただけであった。そして、その悲しみの為に彼は一層恋心を募らせた。サラは何も返事をしなかった。ただ立ったまま、顔色を曇らせ、彼の顔を見詰めていた。
「何をお望みですか?過去を思い出させにいらっしゃった?それなら今夜が最後です、バラデュール夫人。私は元いた場所に帰り、もう二度と来ませんから」
ルーピンは棘のある口調を変える事をしなかった。これに対してもサラは返事をしなかったが、口元が僅かに震えていた。彼女との、あの悲痛の別離は何年経とうとも脳裡から離れてはくれず、嫌でも彼女との記憶と共に過ごさなければならなかった。彼は正義の事や次世代に命を捧げる事などを、様々に空想しては気を紛らわせようと努めた。彼は一体恋をしていたのだろうか。それは当人にもさっぱり分からない。兎も角、ルーピンの苦しい胸の中には、空想力も幸福も思いのままに左右する彼女があるばかりであった。絶望の淵に沈むまいとして、彼は自分の心の精力の全てを奮い起こさねばならなかったのだった。彼の口調は険しさを増して、外へと溢れ落ちた。彼は自分の耳を信じ兼ねるように身震いをし、まるで恐ろしい打撃を頭に受けた者のようにすっかり感覚を失ってしまっていたのであった。
「私の愚かしさを一度ばかり認めたのでは充分ではないと?それではお聞き下さい。もう一度やって見せます。私の心は貴女に寄り添っていた。だが私は貴女に相応しくはなかった。これでご満足頂けましたか?」
「リーマス、どうか聞いて」
「貴女は私を拒み、別の誰かを選んだ。私には何の財産も地位もない。貴女から見れば動物みたいなものだ。若気の至りで貴族の社交場に転がり込んだ下賤の身に過ぎない!」
此処でルーピンは門を潜り抜けると、小さな声で「どうぞ、お許しを……」と懇願した。構うもんか、こうなったら何が起ころうと構いはしない。この一瞬の為なら、全世界でもくれてやるさ──この灰色の瞳、一瞥の強い魅力を眼前に捉えた初めの頃、こんな思いがちらと未だ幼い自分の頭を掠めた事を彼は想起した。オレンジジュースがスコッチ宛ら、飲み干す度に酔いが回って行った。サラは楽しげな微笑を浮かべて、少し離れた自身の寮の席に座って彼の方を見ていた。途端、頬が燃え、唇が熱くなり、輝いていた目がとろんとなって、彼女の眼差しが情熱的に心を惹き付けた。ある時、『本当に、あなたは私と離れている事を、不幸せだと思っているの?』と彼女が笑った。『大変な不幸せだよ。僕が心から恐れているたった一つの不幸だ』と、ルーピンはすっかり幸福であった。二人の内で余計に愛情を抱いているのは自分の方だ、とそう彼女に思い込ませてしまっていたのだった。恋はラテン語でアモールという。そこで恋から死、モーレが生まれる。そして、初めから心を悩ます心遣い、悲哀、涙、陥穽、大罪悪、悔恨が生まれるのである。今やサラの顔からは血の気が失せてしまい、彼女は一語一語をゆっくりと明確に発しながら言った。「貴方の顔を、一目見る事が出来て嬉しい」と。ルーピンは姿眩ましをした。今の言葉が彼には心苦しかった。