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Someone better



相変わらずルーピンの曇りない二つの目は、サラの姿を捉えていた。しかし、それは単なる彼女の姿ではなく、薬指に鎮座し、主の魅力を静かに引き立てている婚約指輪が加えられたものであった。またそれと同時に、その事実の裏付けである人物の姿をも彼は捉えていた。彼女は以前のように一人の人間ではなく、その人物との二つの心臓が合わさってやっと一人の人間として成り立つ、といった印象が彼の心中に植えられた。純血主義を掲げる家柄同士の婚約は、当然の如く蔓延っている。そういった子供は親を選ぶ事が出来ず、自由が欲しければ絶縁という潔い世界に彼女達は生きていた。サラは彼女自身の口を閉ざす事を選んだのだ、とルーピンの心は密かに沈淪した。彼は短くも欺瞞のない時間を彼女と共に過ごしていた為に、彼女は自分の理解者であり救世主であり、幸福の所以であるとすっかり夢見ていたのである。あの灰色の瞳は謂わば彼の未来であり、清らかな自己の投影であり……しかし、突然、ある一人の男が掻っ攫って行ったのだった。
ルーピンには経緯は何も分からなかった。彼の眼前にはただ心を通わせた一組のカップルがいた。その仲睦まじそうな様子は見ていて気持ちが良かった。彼は全く馴染みのない不思議な感情に捉われていた。こういった場合、男はまず嫉妬し、しかる後に凡ゆる形を取って愛し始めるのだが、この時に限って彼の心はこの定番の経路を辿る事はなかった。彼はこの若きカップルの内に、第三者である自分の割り込む隙間を探そうとはしなかった。サラが婚約者と話しているのを見て、まるで自分が彼女と話しているようにただただ楽しかったのだ。彼は口をぽかんと開けたままこのカップルに見惚れていた。悪友に話し掛けられても返事もしなかった。そもそも彼には何も聞こえてはいなかった。ルーピンは胸の内でこう呟いていたのだ──もし僕の幸福の為にサラに何かの役を演じて貰う事になるとしても、この二人には絶対に今のままでいて貰わなければ困る。二人が不仲になったら、僕も幸福にはなれない。だって彼女を彼処まで幸福に出来る男は、彼程の男でないと出来ない。悟性と品格、彼女の名を傷付ける事のない立派な家柄、そして……そして何の穢れのない、人間としての存在。その時、「なんて素敵な女性だろう。妻として、あれ以上の人はいないね」と、誰かがそう呟いたのをルーピンは聞き取った。僕だって、と彼は心の中でしんみりと思った。僕だって、妻としてサラ以上の人はいないと思う。彼は他の誰かにこう言われると、やはりそうなる他ないのではないかという気になった。それに加え、この恋が間違っていない事を保証して貰ったような気もした。そうだ、僕が彼であるべきなんだ、とルーピンは胸の内で呟いた。だが、直ぐに諦めたようにこう付け足した。ああ、でも、彼女はそうは思わない。此処まで考えてから、どうしようもない無力感の嘆息と共に痛む心を休めるように、彼は開いた両手の平に顔を埋めた。悪夢なら耐える事は出来る。
ルーピンとサラの恋が始まってこの方、黙りがちの生活が眼差しにも優しい言葉にも溶け行って、彼女特有の落ち着いた物腰が時として彼には花々しい感情を寄せた事は、心嬉しく感じたのであった。しかし、この美しい魂が初めて花を開いて、その運行を始め、朝の後に真昼の高さに昇らねばならなかった時、その魂がどれ程までに見慣れないものに思えた事か。幸福な娘の姿は殆どなくなって、酷く崇高な酷く悩んだ姿になってしまった。彼は自分の魂が泣き入るのを思い、憬慕の念と共に渾身の力を感じては、それを以前のようにサラに伝える事は出来ないのだった。胸を締め付けられる思いに、ルーピンの目には一閃の炎が宿っていた。願いと悩みとに満たされて彼の胸中は狭くなり、それ故に少年の物思いはかくも美しく大胆であった。新しい偉大なものが、感じる力のある全てに冠たる明らかな威力が彼の胸に支配していた。しかし、彼はもはや彼女を取り巻く外の世界、塵世の人間の数に入れられる身であった。君との末路がどうなり行くかと、あの当時、僕は考えておけば良かったのだ。愚かにも僕はこの恋が楽しくて、輝く君が大好きで、先の事など一つも見えていなかったのだ。
サラはルーピンに対し、筋書き通りの弁明をしようと機会を探っていた。だが、彼は何もかもを承知していた為にその接触を避けていた。彼は彼女の魂を眼前に捉える勇気がなく、また他の男に取られてしまった彼女に以前のようには優しく接する事が出来ないと分かっていた。リーマス、と彼女は以前よりも慈悲深い声で呼び掛けた。それが彼には恐ろしかった。彼女に何故自分ではなく別の誰かを選んだのかと、問いただそうという気が幾度も起こり掛けたからである。サラの横を擦り抜けようとした時、ルーピンはその悲しげな微笑みに胸を衝かれ、足を止めた。心は再び彼女の元へと飛び立ち、当てもなく言葉を紡ぎ出そうとした。だが、彼の心臓からは血が滴り落ちていた。
「婚約おめでとう。結婚式には出席したいけど、僕は歓迎されないかな」
気高いサラ・バラデュール。どうしたら僕は君に引けを取らないで済むだろうか。どうして、こんな無為な僕を愛してくれたのか。彼女がルーピンの瞳を捉えては不意の嬉しさに喜びを隠そうと、喜びの休まるのを求めた時──不思議に何でも気が付いて、彼の心の奥の協音も不協音も直ぐ、彼すら気付かない内に一つ一つ指摘した時、彼の額に掛かる曇り、唇に浮かぶ憂鬱や苦衷の影、目に宿る閃きを一つとして見逃す事のない時、彼の精神が余りに節度を失い、心を浪費し過ぎて、度重なる話の内に蝕んだにも関わらず、彼女は彼の心に満ち干く潮を聞き分けて、注意していては陰鬱な時を予感した時、そして愛らしい彼女が彼の頬の変化を鏡よりも忠実に映じてこれを教え、友人としての憂慮から落ち着きのない彼の心を見詰め、愛児を咎めるように彼の心に触れた時──彼女への距離をおずおずと数え、彼女の散歩の道筋や、以前に座っていた事のある場所を知らせ、其処で過ごした有様を物語り、遂には今でも二人が其処にいた事があるように思われると言った時──これでも二人の心は結ばれる事はないのだ。ここまで愛し合った二人でさえ、一緒になる事はないのだ。サラはルーピンと同様、当てもなく言葉を紡ぎ出そうとした。彫刻宛らの顔立ちは悲痛の色を帯びていた。だが結局、何の会話もないまま、二人は別の方向に別れた。彼が立ち止まって振り返ると、彼女の後ろ姿が遠ざかって行く。彼は両手を差し出し、愛を込めた本当の言葉を呟きたかった。君を恨むなど有り得ない。真逆、とんでもない。僕は君を愛している、この瞬間も愛しているんだ….。「サラ!」と彼は叫んだ。声を聞いて彼女は身を震わせ、振り返るが、そのまま立ち去った。

此処何年もの間なかったような冬だった。それはチェスの駒の動きのように密やかに、しかもじりじりとやって来た。ある朝、二、三本の寂しく立っている木々と垣根のサンザシは、まるで植物性の外皮を動物性のものに脱ぎ変えたかのように見えた。枝という枝は夜の中に、樹の皮から生えた毛皮のかぶのような白い毛羽に覆われて、いつもの数倍もの大きさになっていた。薮も立木も全て、空と地平線の悲しげな灰色の上に、白い線で描かれた写生画のようになった。鳥の巣は結晶力を持った大気によって、はっきりさせられるまでは全く何も見えなかった。小屋や壁の上に姿を現わし、離れ屋や柱、門などの突き出た所から白い毛糸の輪のように下っていた。冬期の長期休暇は、自分の居場所を何処に置いているかによって、生徒一人一人の心中で捉え方が異なるものである。ホグワーツの他にそういったものを見出す事が出来なかったルーピンは、キングス・クロス駅へ向かう汽車へと乗り込む生徒の姿を目で追っていた。その二つの目に留まる色は決まって灰と深緑であり、家柄が良いと帰らざるを得ないスリザリン生を生気のない目で見届けた。その中にサラがいた。彼女はまるで彼が其処にいる事を予感していたように、直様、彼の姿を眼で捉えた。連れ添っていた友人に一言声を掛けると、群れから外れて彼の元へとやって来た。彼は彼女の魔法の音、階段での足音の事を思っただけで、もう心臓は止まり、でなければ胸が苦しくなって来た。天候や昼夜の時間に関わりなく、ルーピンは刻一刻を大切に生き、棒切れに刻み目を付ける事によって、それを記録しておこうと心掛けて来た。彼は過去と未来という、二つの永遠が出会うところ──正に今この瞬間──に立とう、その線上に爪先で立とうとした。だが、それは出来なかった。破れ掛けた心では震え慄くだけであった。何故彼等は静かな人生を歩いて行く事が出来ないのか。春夏秋冬という人生の名、それは敬虔な名だが、彼等はそれを知らない。恋する春の日に悲しむのは罪過ではないだろうか。何故やはり彼等は、こうした人生を歩んで行かなければならないのだろうか。
「君はどうか幸せになって」
「……リーマス」
「つまり、運命なんだね」
輝やかしく西に沈んだ星、夜の影。陰鬱な涙を流させる夜。仰ぐと姿を消す大きな星、その星を隠す黒い暗闇。自分を捉えて無力にする残酷な定め。自分の寄る辺ない魂。自分の魂を自由にならせない、無慈悲に取り囲む雲──恐らく自分は、何処かの地で一週何ガリオンの仕事に有り付く。そしていつまでも、昔と同じように森の奥に引っ込んでは自分を痛め付け、呻吟の真っ只中で、此処ではない何処かへ自分を運んでくれるものはないかと思案する。心惹かれる素敵な事と、決して砕ける事のない本当の夢がある所……。ルーピンがその言葉を確かめるように再び言った。
「運命からは逃れる訳にはいかないね」
サラはルーピンの手を密かに取り、門扉の外、城外へと続く階段へと導いた。「僕は、家には帰らないんだ」と彼は半ば困惑して言った。彼女がさっと振り向いた。胸が波打っていた。「あなたを愛してるわ」と彼女は言った。「分かった?私が愛しているのはあなたなの」不意に彼女は彼を促し、再び三段、四段と階段を降りて行き、両腕を彼の首に回し、彼の頬に口付けをした。その身体の震えが伝わって来た。「私が愛しているのはあなただけ」彼女は身を離し、階段を駆け上がった。ルーピンにとって人生は長い苦行であり、それを耐えられるものに出来るのはサラだけだと言いたかった。彼女に見せた少し困った、傷付いたような彼の表情は、忽ち暴風の荒れ狂う湖のような目に変わった。またそれと同時に、吐き気が込み上げ、頭は身体からの激痛にきりきり鳴っていた。彼は真っ白な雪の上に悲しみの涙を落としながら、蹌踉とホグワーツ城への道を辿った──彼女は僕のものではなかった。サラは僕のものではなかった。証人であった清らかな泉、二人の話を立ち聞きした公平な樹も、陽の光も、神聖な空気も遂には姿を消してしまったのだった。彼女は僕のものではなかったか。生命の凡ゆる響きの中で一つに溶け合ってはいなかったか。僕ほど彼女を知り抜いている者が何処にいるか。僕の胸ほどこの光を集めている鏡があるだろうか。そもそも彼女が僕の喜びの中に自分の姿を認めた時、その美しい姿に対して嬉しそうに驚いたではなかったか。僕の胸ほど彼女を満たし、彼女に満たされている者が何処にいよう。天使が神を守るように、彼女の胸を抱く為に唯一つだけ存在している僕の胸ほど……。自分とサラは死んでしまわなければ、晴れて自由の身とはなれないであろう、とルーピンは思った。彼は、快楽と苦悩の秘儀の中を彷徨い歩いたかのような心地がし、この日の光の下へ戻って来てからも、別の世界の記憶が心から消えず、その為に彼はこの世界の活力と滋養に富んだ大気の中で、自分が無縁の余所者だと感じなくてはならないのだった。

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