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For thee, against myself I’ll vow debate



夕付けに星が晴朗たる空に出ており、二人は茫洋とした湖の辺りで静謐の中に佇んでいた。永遠なものが二人の心に、ホグワーツ城の頭上にあり、広々として澄み渡った大気のように、優しくサラの魂がルーピンを取り巻いていた──彼が彼女に何かを渡してあげる時、屡々二人の手が不器用に触れ合った。彼はそういった不確かな長い一日を過ごしても、別段不安を感じはしなかった。『彼女と一緒にいて、僕は何も感じない』と、愛を等閑視していた彼は心の中でよくそう言った。しかし、これは幸福というものの一つの秀逸な定義ではないだろうか?幸福は健康と同様のものであり、人間は幸福には気付かない。気付くものといえば苦痛だけである。サラ・バラデュールとの出会い、また初恋の全ては、ルーピンには夢のようであった。こうした愛の奇跡を僕は信じる事が出来ただろうか。僕に出来ただろうか。喜びは彼を殺してしまう程であった。
「昨日の課題、出来た?」
「一応ね。でも間違ってる自信の方があるわ」
「僕もだよ。答え合わせしない?」
幻想上の悪友の一人がルーピンに、『彼女はスリザリンだぞ、純血を美徳としている奴だぞ』と言った。そうだね、僕達が忌み嫌っているスリザリンだ。純血を美徳としている両親に育てられたかも知れないけど、サラの口から純血という言葉を聞いた事がないし、珍しい事に彼女の友達はスリザリン以外にもいるんだ。彼女は両親を失望させない為だけに、スリザリンに入ったようなものなんだ。『彼女は違うよ、良い子だよ』と、心中で悪友に返事をすれば最後、ルーピンの心中では彼女が最も愛すべき存在、真摯に愛し向き合うべき存在である事が明瞭となっていった。またそれに加え、スリザリンに属する生徒であっても一人の人間であり、境遇は違えど自分と同様の人間である、という思想を彼だけは持っていた為、その思想に当て嵌まる人物が出て来るや否や、その稀有な人物を大切にせざるを得なくなったのだった。
「僕は……他の皆が見ている僕は、本当のものではないんだ」
ルーピンは自分がサラに恋をしている事を認めない訳にはいかなかった。「恋」という恐ろしい言葉を一旦口にしてしまうと、彼には全てが明瞭となった。この数ヶ月来、彼の心を覆っていた曖昧さの面紗は雲散霧消していた。しかし、丁度薄暗い場所に慣れた人間が急に太陽の下に連れ出された時のように、彼は強烈な光に目が眩んだ。勿論、もう一度闇の中に戻ろうとは思わなかった。寧ろ、直ぐにでも何か手を打ちたいと思ったのだが、どうすれば良いのか、誰に相談すれば良いのか、彼には皆目見当が付かなかった。今まで恋をして来なかった彼は、現在と過去、また未来という三つの自分の存在を代わる代わる眺めなければならなかったのである──目の前のサラに、動揺を悟られないよう必死に取り繕う。今や二人を隔てるのは一歩のみ。二人は互いの顔を見詰め合う。不意に彼女の頬は紅くなり、眼を伏せ、狼狽の表情を浮かべつつも微笑んだ。
「だけど君が見ている僕は、本当の僕だと思うんだ。僕は君の眼を通してしか、自分を見る事が出来ないから」
サラの灰色の眼に宿る、眠りつつ健やかに息付く宝石の安らぎ。ルーピンは自身の言葉にある種の怯えを感じながらも、その明眸を心中にそっと収めた──リーマス・ルーピン、確と見定めなければならない。自分の為に日に照らされて果実を実らせ、暖かい香りに満ちた影を投げる隣の樹。冷え冷えとした緑の草、それを踏む無知な自分の足。静かに死に行く両親もそれを踏み、彼女もそれを踏む。すると純連の花が香りも高く咲き出て、彼女の踵に纏わり付く。自分が其処で暮らし、其処で死ぬ事になる人生を理解しなければならない。そして、更に一個の行為者としての自分自身を畏敬を込めて理解しなければならない。自分で思う以上の意味が、恐らく、自分の中には籠っているのだ。忽ち明るい光がルーピンの顔に燃え上がり、その悲しみと喜びを同時に照らし出した。

しかし、愛とは何か。薔薇の花々を吹き抜ける風、いや、血潮を滾らせる黄色い炎か。愛は硬化した心すらも開かせるものである。夜の訪れと共に花を開く壁際の雛菊、或いは、微かな息吹にも花を閉じ、微かな接触にも息絶えてしまう牡丹一華と言っても良い。愛とはそうしたものである。愛は己の捉えた人間を滅ぼし、また甦らせ、新たに焼印を押し付ける。今日は男に寄り添い、明日は女に寄り添い、明日の夜は他の誰かに寄り添う。愛はかくも移ろい易い。しかし、破り得ない封印の如く、抑える事の出来ない炎の如く、死の瞬間に至るまで揺るがず信義を貫き得る。愛とは如何なるものか。愛の……空の煌めく星辰と、地の芳しき香りに祝された夏の夜。しかし、何故愛は隠された道を若者に辿らせ、一人居の部屋で死に行く人間に爪先立ちをさせるのか。愛は人間の心を腐葉土に変える。豊饒且つ猥雑な土壌からは、秘密めいて行儀の悪い芽が厚かましく育って行く。愛に似たものは世界に二つと存在しない。地上に春の夜が訪れ、若者が二つの眼を見る。二つの眼を若者はじっと見詰める。若者が一つの口に接吻すると、彼の心の中で二つの光、一つの恒星とそれを眩く照らす一つの太陽が打ち合う。若者は腕の中へと倒れ込み、もはや何一つ耳に入らず眼にも入る事はない。愛とは神の発せし最初の言葉、神の脳裏を過ぎりし最初の思念である。『光あれ』──神の言葉に愛が生まれ、それ以来、満足してしまった神は何一つ変えようとは思わなかったのだ。かくて愛は世界の始原となり、世界の支配者となる。しかし、愛の辿る道は悉く花々と血に塗れる。花々と血に。
その頃のルーピンは恋で心が一杯だった。そして、この恋の思いに照らされて、初めてサラとの交遊が、彼にとって幾らかの重要さを持つ事になったのだった。彼女といえば、福音書が教えてくれた高価な真珠のようなものだった。例え、その頃は未だほんの子供ではあったにしても、恋を物語り、そして彼女に対して抱いていた彼の感情をそう名付けるのは間違っているだろうか。それから後、彼の知った事で何一つこれ以上に恋という名に相応しく思われたものはなかった。それのみならず、彼が肉体的に極めて明確な不安に悩まされる年頃になった時でも、彼の感情は大して変わる事はなかった。子供の時分、ただ何とかしてサラに相応しいものになりたいと思っていたその彼女を、ルーピンはもっと直接な方法で我が物にしようなどとは考えてさえもみなかった。精励、努力、敬虔な行為など、全てを彼は神秘な気持ちで彼女に捧げていた。そして、彼女の為にのみしている全ての事を、多くの場合、彼女自身には気付かせないようにしておく事こそ、徳を磨いていく事だと考えていた。こうして彼は、何かしら逆上せ返るような謙譲の気持ちに陶酔し、彼自身の楽しみなどは殆ど念頭に置かず、ただ自分にとって何か努力に値する事のみを喜ぶという風になっていた。こうした張り合いの気持ちは、ただルーピンだけを一生懸命にさせていたのだろうか?事実、サラはそうした事に気が付いている様子もなく、また彼女の為、かくも一心に努めている彼の為に、又は彼故に、何かしてくれようとするでもないように思われた。彼女の飾り気のない心中では、全てが全く自然のままの美しさを保っていた。彼女の徳には、あるがままに投げ出されていると思われる程の自由さと優雅さが見られるのだった。その子供らしい微笑のお陰で、彼女の重々しい眼差しも愛くるしいものになっていた。彼は、彼女の実に優しい、また淑やかな、あの物言いたげに上に向けられた眼差しを思い出した。
愛するサラの、ある一つの定めの為に体調を悪化させる自分を静かに案じる眼差し。その灰色の瞳の中には所以を見透かす事実が存在してはいるが、偏見は存在してはいなかった。彼女にはいつか、いつか自分の正体を打ち明ける事が出来るだろうとルーピンは思った。また、彼女の為になら自分自身と対決出来るとも思って疑う事をしなかった。あの慈悲深い瞳に映る彼は、彼が見て来たもの、彼が彼自身と思い込んでいた姿ではなく、彼の隠された美徳や忌み嫌っている正体を正しく見出した姿であった。それが、彼にも伝わった。彼の幸福でない心に、彼自身の新たな姿が灰色の瞳によって投影され、彼は初めて彼自身の持つ美点を見出す事が出来たのであった。君は、僕の心に近付いて、君の光で僕を暖めてくれた事が幾度であろう。その為に堅く凍った泉に陽の光が触れる如く、凍て付いたこの胸も再び活動するようになった。その時この幸福を抱いて、此処ではない別の世界へ翔り行こうと思ったのも、僕の喜びが周囲に汚されまいとする為であった。僕は……ありと凡ゆる幻を描いて胸を慰めているのだ、自分ではない誰かを愛するのは初めてだったから。ルーピンは瑞々しい空気を吸って生気を得た。それをサラの元へ送る事が出来たら、と彼は思った。それにまた空の爽やかな暖かさが快く、草木の世界の新しい喜びには身に積まされた。悲しんでいる内に、時が来て喜びに会う草木の、汚れのないいつも変わらぬ世界の喜びには。

Coldplay - Paradise