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When I have fears that I may cease to be



人間の心中には危険な、一時的かつ熱狂的な偏愛体系というものがある。この体系が作動し始めると、気に入った相手と滅多矢鱈と会わずにはいられない。マーリンの、こういったものが作動した事は今までなかったのだが、それが遂に作動してしまい、サラの面影を何処までも追い求めた。彼は時折、寝付く事の出来ない病人の如く何度も寝返りを打った。そして、どのような薬ならば効くだろうかと自問した。熱に浮かされたようなこの状態では、ひんやりとした手のみが安らぎを与えてくれそうだった。特に誰の手でなければならないという事はなかった。誰かに少し優しくして貰えたならば、それで十分な筈だった。この時、彼自身は漠然として対象の定まらない愛情に捉われているのだと思っていた。ただし、そんな漠然とした思いを抱くのはある強い衝撃を受けた所為であり、その衝撃の正体は実は明瞭であった。マーリンはその衝撃に本当の名前を与える事を恐れていた。彼が自分自身に対してこれ程に気を遣ったり遠慮したりする事は初めてだった。普段より一層の事、彼は欲望を抱いているという事を、自分自身に打ち明ける事に躊躇う人間となった。自分の官能を解放した事が一度もなく、増してや自分の考えを外へ出そうなどと思った事もない彼が、今はある種の事を考える事をそもそも己に禁じていた。改めて彼は、他人に良し悪しを判断される行儀作法よりも、自分で監視する他はない心と魂の礼節の方が大事なのだと悟った。何故人間は自分と上手く付き合おうとしないのか?マーリンはこれまで他人に対する程、自分に対して敬意と礼節を示して来なかった事を恥じた。他人には絶対に言う事の出来ない幾つかの事柄も、自分にだけは平気で打ち明けて来たのだ。だが、それにしても今回、彼はこの種の潔癖に捉われ過ぎて、いつの間にか偽善的な考えに陥っていた。どうやら世の中には特別丁重に扱わなければならない人がいるらしい。その人を欲望の対象にし、それを自覚した時点で、既にその人に対して酷い無作法を働いた事になるのだ──そういう高潔な人々がこの世には存在しており、サラ・バラデュールはその一人だった。
マーリンは既にサラを愛していたから、彼女に嫌われる事を恐れていた。そして、彼女に嫌われたくないから、彼女の事を考えないようにしていた。考え始めると、彼女に相応しくないような事しか頭に浮かんで来ないのだ。今、愛が彼の内に宿ったところだった。彼自身にも降りて行く事が出来ないような心の深みにそっと宿ったのだ。未だ若い人間は自分の最も強烈な感覚、つまり最も粗野な感覚にしか気が付かない仕組みに出来ている。その点でマーリンも例外ではなかった。彼の内に芽生えたのがこのような愛ではなく、如何わしい欲望ででもあったならば、彼ももっと動揺していたのだろうが……。
『此処へ来ての初任務だが、ヘレネー、どうか肩の力を抜いてくれ』
『うん、ありがとう。多分、骨が折れるのはターゲットの護衛ね』
『ああ。だが大丈夫、私がついているから』
マーリンの心中には愛と同様、不安があった。どんな腕利きにも死ぬまで付いて回る、あの人知れぬ不安。覚え切れぬ程の敵を作った複雑な過去から、ある日、その一人が自分を見付けて報復するのではないか。自分のみに報復するのであれば構わない。だが、自分ではない他の誰かに、それが降り掛かる事は何としてでも止めなければならない。裏方の最大の仕事は、一つの物事から生じる凡ゆる可能性を予測し、対処する事にあるのだ。異国の地へ来たばかりのサラ、異邦人のサラ、独りぼっちのサラ。マーリンは悲痛な気分だったが思わず微笑み、健気に言った。だが大丈夫、私がついているから。私が君についている限り、死は遠い。死が近付く事はない。君の胸に、冷たい死が降り立つ事はない。
初めの頃、サラは他のキングスマンの事を信頼しなかったが、彼女の中に備わっている僅かなそれを勝ち得ていたのはマーリン一人だけあった。その事を自負していた彼であったが、彼女は容易には心を開いてくれなかった。『君の名を彫った指輪を作ったから、見て欲しい』と言ってそれを見せると、彼の心中にいる彼女は嬉し気に、嘸かし気に入った素振りをしてくれた。しかし、現の彼女はこれといった反応を示さなかった。数秒後、顔を引き締め、表情が気掛かりな、知る人が見れば内向する表情へと変わり、『うん、ありがとう』とだけ彼女は言った。彼にとってその指輪は、裏側に彫ったサラの名は愛の告白同然であった。此方がきちんと告げるのも待たずに、これ程心なく礼を言ってのけるなんて、とマーリンは苦い気持ちになり、酷く傷付いた。彼は不意に息を止め、当然の憤りに駆られて言った。
『サラ、君に言っておく。私ほど君に優しい男はいない。これだけはちゃんと言ったからな』
君が誰のものになろうとも、この事だけは覚えていて欲しい。嘗ての君をこれ程に愛し、大切にした男がいた事を。マーリンの思いはその肉体と同様、何一つ新しいものに衝突する事なしにぐるぐると円を描いた。等閑視していた愛からの罰、巡りの闇から悪が猿臂を伸ばして此方へ向かって来る。魔法を解かれた者宛らに自分は息付き、しかもいや増しに呪縛されるのだ。凝然たる夜の中で、孤独と恐怖の中でヘレネーだけが、サラだけが幸福の鍵を握っている。
『分かっているでしょう?マーリン。私ほど貴方が好きな人はいないって』
温かい喜びがマーリンの心臓を震わせた。サラの言葉を聞き、照れ臭さと嬉しさで何処かへ行ってしまいたくなった。彼女の方を見る勇気もなく、目を伏せた──あの時の自分ならば、確かにそうする事しか出来なかった。しかし、今、その喜びが自分の心臓を震わせても、彼女の方を見る勇気はある。あの灰色の明眸を真っ直ぐに見詰める勇気が、今の自分にはある。彼女が背負う定めや苦悩を、肩代わりする事だって出来る。何も全てが、ガラハッドの役目ではないのだ。マーリンはもう従来から、明るく照らされた窓越しにサラの姿を眺めただけで、いや、彼女の影を少しでも見ただけで幸せになった。私のヘレネー、美しい名と幸福の鍵を持つ人、君が故郷で幸福に、楽しく暮らせるかも知れないのだと考えるだけで、私は救われる。ところが今はどうだろう、凡ゆる悪人共が君を破滅させたばかりか、君に残された時間を僅かにし、君を辱めているのだから……。彼はふと、さっきから自分が彼女の事ばかりを考えていた事に気が付いた。彼女の帰還を待ち侘びるこの時間は祈りに近いものであった。再びマーリンを包み込んだ新たな輝かしい陽光にも似て、生き永らえた時のサラはいつだって彼の褒賞なのだった。

今し方まで引っ込んでいた一切の闇、選ばさるを得なかった常夜の世界より逃れてきた無冠の英雄は、秘密裏の出入口の一つである通路の片隅で、上質な背広が汚れる事にも構わずに、小さな身体を丸めて眠りこけていた。その顔には静穏と沮喪の色が重なっており、普段の近寄り難さは微塵もありはしなかった。ある密かな優越感と混じり合った、サラに対する寛容な労わりの気持ちがマーリンの心を満たした。灰色の月は愛する人の唇を青褪め、風は胸を凍えさせる。夜は頭上に露を降り注ぎ、そして暮れた空の刺すような息吹が訪れる所に、今正に此処に横たわる。彼は恵み溢れる花束を抱えるように、彼女の身体を抱きかかえた。
暑い盛りの七月に入ったが、マーリンは季節そのものを忘れていた。彼の悲しみは崩れた腫れ物の如く心の中で疼き、それが絶えず苦しい、自覚した思いとなって現われていた。サラが彼の素姓に気付かず、しかも、彼が苦しい程に愛していた事を、彼女が知らないままに死んで行くかも知れないという事をマーリンは恐れた。それが一番の苦悩とも言えた。サラの喪失は、仄暗いながらも楽しい明かりに照らされ、彼の前にちらりと覗いた人生の目的の全てが突然、永遠の闇の中で輝きを失う事であった。彼は今、絶えずこの事ばかりを考えていたが、その人生の目的というのは他でもない、彼女が日々刻々、全生涯を通じて常に自分の愛を感じてくれる事だった。誰にしたところで、これ以上の目的というものはないし有り得ない、とマーリンは暗い歓喜に駆られ、時々考え込むのだった。仮に他に目的があるとしても、これ程に神聖なものは一つもない筈だ、サラの愛があれば。私の悪臭漂う無為の人生も全て清められ、贖われる事だろう。浮ついて不道徳で、疲れ果てた私の代わりに、清潔で美しい存在を一生賞でるつもりであったし、この存在があれば恐らく私も全てを許され、私自身も全てを許しただろう……彼女の愛があれば。
しかし、今でさえもマーリンは、サラを支える薬となる事が出来ないでいた。彼は彼女に、この胸板に、まるでそれが自分の孤独の海に浮かぶ最後の救命ボートであるかのように縋り付いて欲しかった。本来の彼女は非力なのだ。この世の何ものかを劈く力など持ち合わせてはいない、幸福に見放された一人の人間なのだ。彼女には誰かの助けが必要なのだ。しかし、未だに彼女は助けを求める事をせず、高潔な人間とは無縁のこのような薄汚い通路で切れた体力を回復している。サラ、もう一度君に言っておく。私ほど君に優しい男はいない。また、分かっているとは思うが、サラ、私ほど君を愛している男もいないよ。悪臭漂う狭い通路で数匹の鼠と擦れ違ったマーリンだったが、専ら赤い絨毯の上を歩いているように思われた。一日の終わりに彼の胸に呼び掛ける声、彼女によって残された小さな愛、長い孤独を破り夢想の中で自分に触れてくれる手が、今正に、腕の中に。外界は、落日を滲ませる昼の影に満ちた黄昏に、西空には一つの小さな星が浮かび、移り行く影の岸辺から現れていた。彼女は彼の傍にいる事を望んではいない。その事を彼は知っていたが、こうして少しの間、彼女を自分の恋人と思っていたかった。自分の胸を震わせる言葉を言ってくれる人、小さな愛だが確かなものをくれる人、深い聡明らしく輝く眼で孤独から掬い上げてくれる人、この世に於いてたった一人の人。マーリンはふと、鼻腔を優しく刺激するサラの香りを嗅いだ。麝香のような、香りの強い石鹸であった。いつでも彼の傍にあったこの香り、彼女が去った後に仄かに残り続ける香り、その場のみならず、彼の脳裡に幾つもの思い出と共に存在し続ける香り。嘗てあれ程に近付いた我々の距離は、仕事を全うする事に時間を捧げる内、徐々に遠去かって行った。我々は互いの心に触れる前に、互いの心を熟知した感覚に陥り、或いは触れる事に恐怖し、歩み寄る事をしなかった。私は君を故郷へ帰す事が、君への最大の恩返しだと思っていた。だが君はそんな事を望んではいなかったのだ。ただ君は誰かを待っていたのだ。
「君は救われる……必ず救われる」
マーリンは如何にも寂しそうな、と同時に如何にも優しい微笑を浮かべた。彼のような人間であっても持っている一つの特性。こればかりは幻ではなく、学びなぞった感覚でもない。慰めを受け付けぬサラの不安を見る時、彼の心を奇妙に重い同情が掻き乱すというこの事ばかりは。彼自身、慰めもなく途方に暮れながら、彼は彼女を慰めたいのだった。不可解な心の悩みも、捉え難い内部の事象も、何一つ弁えぬ子供が子供を慰めようとするように。恐らくこれが、彼等に残された最後のものであった。心の思いが、それと知らずに早くも偽りを語る時、震える心に別の心が耳傾ける事が。そっと力を込めて握りながら手に手の寄り添う事が。苦しくはあったが、マーリンは誇らしい喜びを味わいながら、この風雅で玲瓏たる魂を本部まで運び、同僚の一人が見付けて出迎えに寄越した部下にも彼女を渡さなかった。彼は寝室まで彼女を運ぶと、眠りの神の腕にそっと委ねた。