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Without her



マーリンは姿の見えないサラの事を思いつつ、今回の任務のターゲットである一組の夫婦に意識を転じた。部屋に仕掛けた盗聴器からの情報と、ハッキングした端末からの位置情報をラップトップに表示し、彼は暫くそれらを監視していたが、既に今回の任務の目的を達成しつつあった為、任務完了という文字が脳裡に浮かんだ。任務とは、ターゲットである夫婦が毎年催すディナーパーティーに潜入するといったものであり、サラと共に、武器の密売や地下取引などの証拠を掴む事を目的としていたのだ。だがもうやる事はない。彼はそう心中で呟くと、ラップトップをそのままに、何故かこの場にいない彼女の事を再び思った。彼女はマーリンと夫婦を演じる事に快諾したにも関わらず、日付が越えようとしている時刻になっても部屋へ戻って来ない。ターゲットが別行動を取った際、我々もそれと同様にしようと提案したのは彼であったが、ターゲットは今、二人共に一つの部屋へと戻っている。当然パーティーもお開きとなり、中庭には諦めの悪い数組のカップルが良夜を堪能しているだけであった。一体何処で何をしているのか。ターゲットなんぞよりも不可解な行動を取って見せるパートナーに対し、マーリンは今回の任務の役割が自分へ回った時に感じた高揚感が、虚しくも苦しげに萎れて行くのを感じた。サラが自分の妻となり、またそれが終わりを告げるまで後五時間。もう少し難易度のある任務であったならば、彼女の事を考えずに済んだのであろうが、このような心地良い夜気の中では、そういった夢想を止める事は出来なかった──それにしても、私はこれ程までに彼女に惚れているのだろうか?彼は自問した。いや、全然そういったものではない。そういったものではなく、何かの力が私を引っ捕まえ、抑えているのだ。どうすれば良いのか、私には分からない。もしかすると、意思が強くなれば、その時は──マーリンは、ベッドに腰掛けているサラを見詰めながら、初めて知る幸福を味わうつもりだった。間もなく彼女が眠りに落ちると、肩まで毛布を掛けてやる。そして、窓際のテーブルに設置した機械を徹宵いじる。彼女を気に掛けながら。彼のそういった密計の前半部分は見事に崩れたが、後半部分は難なく実現された。彼はカーテンを開いて窓を開け、外を覗いた。中庭に面した窓の二つに明かりが点っている。その一つには、テレビの画面の青い影が映り、一組の男女が身動きもせずに見入っている。もう一つの窓では、サラと同じ年頃の女性が、髪を乾かす事に夢中になっている。自分が取り憑かれた夢のどうにもならぬ空虚さを見て、彼の心は沈淪した。それもまた現実遊離の一時であった。
指輪の位置情報を頼りに探しに出たマーリンが捉えたのは、瀟洒なイブニングドレスに身を包んだ女性が、一人の男と安逸に談笑をしている場面であった。左手薬指には高価な結婚指輪が、此処ぞとばかりに煌煌と光っているのにも関わらず、それを全く意に介していない二人。こんなバーで既婚女性が一人でいるなんて全く有り得ない、信じられない事だぞサラ。任務の前に『夫婦とは』といった一般常識を彼女の頭に植え付けるべきだった、とマーリンは悔やんだ。颯爽と登場し、あの男の好奇の眼差しを阻むように割り込み、彼女の腕を掴んでは半ば無理矢理に彼処から連れ出す。誰が夫か知らしめ、男を見せる。しかし、そういった自分の姿を彼は内に見出す事が出来ずに、バーの入口にて佇んでいると、浮気男の肩越しに合わさった妻との視線。その優婉さで収攬する悪魔。風雅で嫋嫋たる風采だが心の内を見せない臆病者。期限付きの伴侶、だが我が永遠の妻。サラは許された一夜限りの談笑をいつもの穏やかな優しい声で中断し、眼を細めてにこにこ笑いながら、無法である男から法である夫の傍へと寄って来た。マーリンが姿を見せた事に彼女が嬉しさを感じている事が、彼には全く思い掛けない事であった。彼はあのまま彼女が自分に気が付かずにいたら、そのまま立ち去るつもりだったのである。夫婦といっても架空のものであるし、彼女が他の男と楽しく過ごしたいのであれば、そうしても構わないとさえ思っていたのだった。しかし、彼女は彼の方へ来た。彼女は待っていたのだ、と彼は思った。
「出歩く時は端末を持って行けと、何度も言った筈だが」
「珍しく命令口調なのね。分かったわ、ダーリン」
「……楽しそうだな」
「まあね。ところでマーリン、身体付きが変わったようだけど、鍛えてるの?タキシードのサイズが一回り大きくなったみたい」
「私は君達より運動量が圧倒的に少ない。こうした時の為に、私なりに備えている」
「前の貴方は痩せ過ぎだったから。そんな貴方と比べてガラハッドは……ヨガマットで三時間居眠りした逸話があるの、知ってた?」
「勿論。彼はああ見えて運動嫌いだ」
廊下から覗いた夜空は、丁度マーリンの喜びのように温かく輝き渡り、すっきりと澄み渡っていた。太陽が頭上にあった時には、周囲の眼差しの的となっていたサラが、今では誰の眼差し一つ浴びずに自分の隣に収まっている。濃藍のドレスと金剛石を身に纏い、信じられない程に美しく、剥き出しの喉元が眩しい。今夜だけは他の誰のものではない、自分のものであるのだ。今夜ばかり、太陽が昇るまでは。彼は二人の部屋に辿り着くまで、歩調を注意深く合わせた──名を明かそうか?マーリンはふと考えた。サラが故意に、マークやらスチュアートといった出鱈目な名で自分を呼ぶ行為に対し、笑いを堪える必要がなくなる。出会った頃から彼女は自分の本名を知りたがっていた。また、厄介な事に彼女は他のエージェントの口ではなく、自分の口を直接割る事に執着している。別に明かしても良い。特別に秘密にしているものでもない。彼女は殆ど真面目に、ハリーと同じ名ではないかと疑い始めている。だが、名を明かすと出生地も同時に明らかとなる。いや、それはもうアクセントで明白か……いや、何だって自分はそんな下手な気を起こしたのか?この人の一夜限りの夫になったからって、良い気になるな。この人がとても美しいからって、浮つくな。そんな事は知っているんだ、随分と前から。今まで堅く口を閉ざしていたにも関わらず、こんな時に本名を容易に教えるなど、一体どうしたのだと彼女は訝しむだろう。それこそ出鱈目だと言い、不覚にも軽快となったこの心を笑うだろう。
マーリンは部屋の扉を開けると、サラを先に中へと通した。馥郁と匂う薄暗い寂しい部屋の中に、明かりが一つ淡く点り、彼が窓を押すと、窓はパタンと音を立てて開いた。彼は窓がこんなにも軽く開くとは思わなかった。それに、手が震えた。暗い柔らかな夜が、殆ど真っ黒い夜空と、微かに葉を戦がす木々と、自由な清らかな空気の爽やかな匂いと共に部屋を覗いた。時折揺れるカーテンの間から忍び込む、心を騒がす夜気。起きている人間にのみ聞こえる、夜の神秘的な囁き。彼は数秒の間、じっと身動ぎもしなかったが、密かな興奮が次第に胸の中に広がり始めた……それが彼女に伝わってしまうのではないかと気が気でなかった。彼は不意に、若い、美しい女と二人切りでいる事を感じた──もしサラがこのまま私の傍にいてくれたら、どんなに幸福だろう。この夜の中に、此処で二人切りなのだ。一度だけでも、恋人宛らに彼女を抱き締める事が出来たら。夫婦宛らに彼女に触れる事が出来たら。二人だけの秘密とする事が出来たら、どんなに幸福だろう。彼女の恋人となる夜、彼女の灰色の瞳が自分を見詰め返す夜。それは遂に彼女の名を愛すると誓った夜と同様のものとなる。これが、この夜が永遠のものとなりさえすれば、私は他に望むものはない、この人以外に一体何を望むものがある?今だけは例え神であっても自分からサラを裂き得まい、とマーリンは思った。悪魔さえも決して自分の魂を、美わしの彼女から裂き得まい。月照れば哀れ、美わしの彼女は自分の夢に入る。また星が輝けば、美わしの彼女の明眸が見える。愛する人、痛み、永遠の妻。今だけは、例え神であっても自分から彼女を裂き得まい。
「──貴方は今、幸せ?」
「は?」
「いえ、何となくそんな気がしたから。こんな緊張感のない任務は殆ど無いものね」
「確か、随分と前に同じような任務があっただろう。ハリーとの時はどんな感じだった」
余計な事を口走る前に気を取り直し、嫉妬なんぞしたら物笑いの種になるだけだと、マーリンは自分に言い聞かせた。しかし、あの秀麗で完璧で誰の心をも掴んでは離さない戦友の存在も相俟って、長い間積み重ねられた嫉妬心が顕となった。さぞ今思い出したように例の任務の事を口にした表情を繕った彼であったが、途端、幾度も想像したサラと戦友との長い夜が、再び彼の脳裡にまざまざと浮かんだ。そもそも彼女と戦友の仲を疑い、非難する権利を微塵も持ち合わせていない為、行き過ぎた妄想は何の役にも立たない。しかし、そんな箍を嵌める決意をするが早いか、思考を他人に悟らせないあの二人の共鳴が念頭から離れなくなった。ハリー・ハートの恋人、それが彼女の隠している事実ではないだろうか。分け隔てなく、躊躇いもなく愛し合っているのではないだろうか。自分の前に……いや、一夜限りの愛なんぞ望んではいないが、もし自分と彼女がそうなったとしても、自分の前にはガラハッドがいたのではないか。また更には、自分の後にも彼がいる事になる。二人は、こんなにも静かな夜を共に過ごしていたのだ。そしてその任務には、自分は関わっていなかった。二人してホテルの華やかな一室に閉じ籠り、互いを求めて身を寄せ合い、サラが魂を顕にし──他に何を顕にしたのだろう。結局自分は、彼女や戦友の事を何一つ分かっていないのではないか。彼女は貴族でも何でもない、仮に亡命者であるという事が事実であるにしても、何か後ろ暗い曖昧な経歴を持っている亡命者である、というのがマーリンの理解する彼女であった。そんな彼女が彼を虜にしてしまったのは、祖国を思って苦痛に苛まれる魂の無類の高潔さであった。マーリンはいつも彼女をハートと共に結び付けて考え、ついぞ一度も、彼女が彼を愛しているだろうか、などと心に尋ねてみなかった事に気が付いた。彼は彼女に恋をし、彼は彼女の事をまるで光かなんぞのように思い起こしている。サラが彼にとって光だという事は、そんな言葉を聞かなくともマーリンには分かった。今まで人間を愛した事のない男のあの無意識の眼差しは、口で言う言葉よりも明瞭である。冷徹な一瞥の中に宿る情愛、慈悲、開かぬ硬化した心。マーリンとしては、彼女もハートも一つなのであった。つまり、運命なのだ。マーリンがその言葉を確かめるように心中で言った。君とハリーが惹かれ合ったのは運命なのだ。運命からは、運命からは逃れる訳にはいかないのだから。
「酷かったわ。ガラハッドも私と同じくらい、夫婦というものを理解していなかったし、私は眠れなくて辺りをほっつき歩いてたの」
『私がマーリンでなくて、君は落胆しているだろう』
ハートと偽りの関係を築く任務は何度もあった。彼は表情や態度を僅かにも崩さない人であった為、そういった関係を繕う必要がある時には、他の誰よりも心強く、また他人を愛した事がない癖に、そういった関係にある人間の振る舞いや心情を深く理解をしていた。だが、前回の彼との任務に於いて、あの揺るがぬ琥珀色の目を伏せ、此方の表情を窺うように言った言葉が、サラの念頭に残っていた。初め、彼女はその言葉がどういった意味を帯びたものなのか判断し兼ねた。私は、貴方とマーリンを同じような存在と考えた事なんてない。互いに取って代わる事なんて出来ない筈なのに、何故彼はそんな事を言ったのだろう?
『私より彼の方が話し易いからね』
灰色の虹彩に、矜持を喪失した冷徹の色が映った。確かにマーリンは冗談が通じるし、凡ゆる事について話がし易い。難しいと思われる提案でも快く受けてくれ、また、それを最後までやり遂げてくれる。ガジェットを改良し、情報収集を怠らず、どんな状況に陥ったとしても助力となるよう努力してくれる。一方でハートは、冗談を冗談と捉えない事が多く、心情を考慮せずに正論だけを言ってくる為に話す話題は限られる。だが、我々は現に夫婦となる訳ではない。現に恋人となる訳ではなく、依然として危険の傍に感じながら任務を全うしなければならない。そのような現場では彼のような工作員が必要だ。彼がいれば安心出来、彼がいれば生きて帰れる、この人が向かうところへ共に行く事になろうとも、この人の信念が曲がる事はない。彼女の心中で、彼はそういった人間なのであった。
潜入や暗殺よりも、誤魔化しの効かぬ関係を演じる事に気後れを感じるサラに、ハートは『夫婦なんぞ大したものではない』と真面目な顔をして言ってのけ、警戒心を刺激しないよう彼女の手を握ってみせた。ハートはマーリンと同様に夫婦の何たるかを理解しており、またそういったものの理解に乏しい彼女をも理解していた。一人で出歩く彼女に注意をし、夫婦の何たるかを説き、日が昇るまで一つの部屋で共に過ごした。また、ハートはマーリンのように話し上手ではない為、徹宵一人で、窓辺の椅子に腰掛けて物思いに耽っていた。サラと同様、プライベートが殆ど存在しないハートと雑談は難しい。それを彼自身も承知してか私的な事を自ら話し、尋ねる事もしない。そんな彼の後ろ姿を見詰めながら、睡魔と戦っていた彼女を本格的にその腕に委ねたのは、他でもない彼であった。
『君は眠って良いよ──おやすみ』
サラが半ば夢想の虜となっていた中で捉えたハートの姿。その表情の中に、一種の独特な慈しむような優しさがあった。不器用な人、と思いながらも彼女は、そんな不器用な人が傍にいるこの夜程に、安心出来た夜はないとも思った。ガラハッド、ハリー・ハート、完璧な人、私を……恐らく私を、愛している人──彼女はマーリンを見上げた。彼は何だか彼女に心中を見透かされているような気がして、顔に狼狽の色を浮かべた。すると、微妙な表情の変化に気付いた彼女はこう考えた。この人はガラハッドが絡んで来ると、途端に洞察力が鈍る。自ら持ち出した話題にも関わらず、聞きたいようで聞きたくないといった表情を浮かべている。私とガラハッドの仲を疑っているのだろうか──マーリンが見ている戦友は、サラが見ているものとは異なっており、マーリンは恋する戦友を知らないのだった。運命的に惹かれ合った二つの人間が、それぞれに夜を明かすという事が果たしてあろうか?その心を顕にする事を得意としない二人は、一体どんな風に任務に携わったのか?夜中に彼女を探し回るという事を、彼も自分と同じようにしたのだろうか?それとも彼女が言った通り、本物の恋愛を今までした事がなかった為に、故意に放って置いたのだろうか?夫婦というものを知らずに、サラにいつもの取り澄ました態度を取り、素気なく、部屋の隅にある椅子に座って窓の外を見ているハートが思い浮かんでは消えて行った。
「そうだろうな。彼も少し抜けているところがある──君はどうなんだ」
「え?」
「君は今、幸せか」
サラなしでは鏡も何の役に立つか。月の表面のような虚ろな水溜りと同様である。彼女なしではドレスも何の用を成すか。月を横切る千切れ雲のように空虚なだけである。彼女なしでは道もどんな意味を持つか。荒廃した夜にすっかり寂れるばかりである。彼女なしでは臥所も苦悩に濡れたまま、心も冷たい忘却に閉ざされている。彼女なしでは私の心の空虚な事、どんな言葉も明瞭な形を結びえず、闇夜を旅する孤独な人間宛らに移ろうのみだ。彼女なしでは私は一人彷徨い、長い空に掛かった長い雲が、地を暗黒に包むよう心を閉ざされるのみだ。君は今、幸せか。私と共にいて、幸せか。一瞬の内、耳を聾したマーリンは、サラの左手薬指に嵌められた指輪に瞳を転じた。位置情報以外何の仕掛けもなければ、本当の名も彫られていない、何の役にも立たない丸い金属。それを、外さないで欲しい。これからもずっと、永遠に。君が今、幸せであれば。ガラハッドを忘れると、君が言うならば。
マーリンはサラを愛しているのにも関わらず、彼女に人殺しをさせなければならない世界にいる。彼女が任務から少しでも外れた事をしようとすると、彼はそれを正し、きちんと人殺しをさせなければならない。愛していると言いたいのに、再び彼女をそんな世界へ連れて帰らなければならないのだ。もし彼女が帰りたくないと言い出しでもしたならば、彼は銃を突き付けてでも、気を失わせてでも、彼女を連れて帰らなければならないのだ。ガードマンが見守る中でマーリンはサラの腰を抱き、左手をケープの下に差し入れ、笑顔を彼女の顔にくっ付けながら、拳銃を露わの背中に押し当てなければならない。銃口は頸の直ぐ下。如何にも古い親愛の絆で結ばれながら、そのまま通りまで陽気に話し続け、車を呼ばなければならないのだ。そういった世界から二人で抜け出し、二人だけの平和で愛に満ちた世界で暮らす。其処には我々が精通していたものは一つもない。私がこの世を、一つどころか全てのものを、他ならぬ彼女に捧げて来た事を分かって貰えたなら。"夜"だって、"哲学"だって、彼女の為にある。彼女がこの事を本当の意味で知る日は永遠に来ないにせよだ。
マーリンのざらついた、だが力強く深味のある声。サラは言外の意味を悟ろうとせず、何の反応もしなかった。思い切り深遠な意味を込めたのにも関わらず……。だが一方で彼女には彼が、自分の答えを聞きたくないように見えたのだった。例え彼が望んでいる言葉を言ったとしても、彼はそれを信じる事をしないだろう。だって彼は、私と幸せになる未来を私よりも想像出来ていない人でもあるのだから。私と同様、幸せを恐れている人でもあるのだから。彼女は謎めいた微笑を溢したが、ハートの時のように眠らずに、徹夜するであろうマーリンと共に、この夜を明かす事を密かに決めたのだった。

Bobby Caldwell - My Flame