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You told me you love me, why did you leave me all alone



サヴィル・ロウに帰る道すがら、ふと落ち葉を鳴らす夜風がヘレネーという名を運んで来たのを、ハートは捉えた。別の男が付けた名は正しくその名の通りの意味を持ち、ハートの中でさえもその意味が甘やかな響きとなり、疲労した身体の末梢にまで行き届いた。サラにガラハッド帰着との連絡を寄越すか。この惨めな顔で本部へ急いで駆け付け、彼女に迎えて貰い、彼女の身体をひたと抱き締めたい。だがもう遅い。仕立て屋は既に視界の中にある。俄に、無性に彼女が欲しくなった。彼女のいない周囲の空気、任務後に必ずといっても良い程に味わう瘴気宛らの空気が耐え難い。ハリー、と彼女が静かな声で呼び掛け、貴方だけが最愛の人、貴方以外の他には誰も欲しくないと言って、真紅の豊かな唇を動かし笑う彼女が恋しくて堪らなかった。共に睦まじく身を横たえた事など一度もない女に対する想像は、ハートのそういった瘴気を宥めるものとなり、また、この世界に危なっかしく生きており、今にも無限の空間に落ちてしまう男にとって、それは身を地上に引き留めてくれる引力でもあった──急に自分のいうものを裏切り始めたのは、一体いつであったろうか。軍人への道を歩み出した頃ではない。であれば、キングスマンになった頃であろう。その頃から自らの高潔の観念に背く事を強要され、それが当然の事、世の常と思い込むようになったのだ。ハートは不潔感を覚え、自己嫌悪すら味わった。しかし、今自分がサラを無性に欲しているのは、誰からの強要でもなければ、自らの高潔の観念に背くものでもない。全きの自由、それは専ら愛という世界に於いてのものであり、彼女の名は自分の解放であり、自分がこの世に存在する意義であるのだ。彼はそう思う事が出来た。
その一方で、ハートの胸には愛に対する些かの失望といったものも同時に蝕んでいた。それは、巷の人間を裏側から見て来た彼に言わせれば、極めて単純なものであった。世間を生き行く人間は、誰でもそういうものなのである。結婚する。未だ多少は愛したりも出来る。そして働く。働いて働いて、その挙句、愛する事も忘れてしまうのである。そのような人生で溢れ返っている巷の人間と、我々は一体何処が異なるというのか?老衰で死ぬ事が出来ないだけではないか。自分もサラも同じように働いてはいるが、各々の筐底に存在しているものは丸切り別物である。彼女にも正義や良心、忠誠心といったものが存在するが、彼女の心を捉えている罪の意識を越えて、自分を愛するという事をするだろうか。彼女が此処にいるのは、それは過去に償いの約束をした為であり、何も正義といったものに魅了されている為ではないのではないか。疲労も手伝って、ある人間はつい自分自身に気を許すようになり、益々黙りがちになり、配偶者の、自分は愛されていると思う気持ちを支えてやろうとしない。身を粉にして働いている人間、抜け出せない貧乏、身動きの出来ぬ環境、徐々に塞がれて行く未来、食卓を取り巻く沈黙──このような世界に、情熱の入り込む余地はないのである。恐らく、そんな彼等と同様に我々は苦しむ事となろう。それでもハートは踏み留まる自分を其処に見出した。恋の法悦とした自覚から、凍えるような情動までが舞い降りた身は、そういった未来を眺めても、サラとの残された時間を諦める事はしなかった。彼女を今よりも幸福にしたいという思いが依然として存在したからである。人間は長い間、自分でも知らず知らずの内に苦しんでいる事があるものであり、彼女も例外ではない。そして、彼自身もまた例外ではない。
仕立て屋の第二試着室の扉が開いた際、大きな影が中へと入る事を一瞬だけ躊躇ったのを、サラは二つの眼で捉えた。惨めな顔、と彼女は思った。ハートの心が無意識の内に後退った理由は、その惨めな顔を自分に見られたくないからか、将又、今は自分に会う気分ではないからか。彼女は自分のコードネームが彫られた指輪を棚に収めては、また新しいものを小指に嵌めると、そそくさと部屋を辞そうとした。しかし、出入口で自分の辞去を待っていたと思っていた彼が丁度中へと入って来た為、それが叶う事はなかった。珍しい事に彼は伏し目がちで、彼女の視線から逃れようとしているかのようだった。だが彼の背中では扉がピタリと閉められ、何か言ってくれと言わんばかりの風采を見せた為、サラは掛ける言葉を念頭で探した。ハートの左頬には叩かれた跡があり、思い掛けぬ衝撃に其処だけ赤味が増し、僅かだが腫れていた。これ程までに分かり易い制裁はない。女だ、色仕掛け対象による仕打ち。女の責任を被るべきか、それとも男を詰るべきか。彼女はふと考えたが前者を選び、彼を痛め付けた同じ女に対する怒りの情を顔全体に蔓延らせた。任務の為に女を騙し、愛した振りをした貴方は微塵も悪くはない。ただ騙された方が悪い。永遠の愛を夢見たその女が悪い、増してや魅力的な貴方を叩くなんて酷い。ごめんなさいね、同じ女として恥ずかしいわ。
「君が責任を感じる事はない」
「中々強めの制裁と見えたから」
「君のそういった演技も、すっかり堂に入っているではないか」
「貴方程では。氷を持って来るわね」
ハートには、その時辺りに響いた鋭い音が思い出された。色仕掛け任務で失敗した事は一度だってないが、今回の任務は嘸かし事を上手に運ぶ事が出来た。皮肉な事に、ターゲットである女性はサラと対照的な性格の人間であった。男を魅了する力は備わってはいたが、些かその心に男を深く入れる癖がある。凡ゆる場面で、また凡ゆる場所でターゲットと彼女を比較し、またその比較後に益々彼女の魅力について意識を奪われるといった事を繰り返した。手に入らない女の事は崇拝し、良いように考えるとは正にこの事だ、と嘲笑しながらも、心が遠く離れている彼女の面影を少しも見出せないターゲットの身体に幾度も触れた。口に出さぬ謝罪のつもりで、自分に関する記憶を消去させようかとも思ったが、その時は人気が周囲にあった為にしなかった。ただ……あの傷付いた顔、頬を叩かれた自分ではなく、心に傷を負ったターゲットの顔が未だに脳裡にあった。ハートは愛を失った人間の顔を、今まで散々見て来た筈であったが、何故かその顔が自分の顔に見えたのだった。ターゲットを傷付けたのは他ならぬ自分であるにも関わらず、ターゲット以上に傷付いた顔をしている自分、また、ターゲット以上に傷付いた魂を持っている自分。本当にすまなかった、全ては任務の為なのだ。だが君のその痛ましい気持ちは私も知っている。それは私が今まで真面に向き合う事を恐れていたものであり、君ではない誰かに向けているものなのだ。さらばだ、私は少しも君を愛しはしなかった。君を通して君ではない誰かを見、君ではない誰かに触れ、君ではない誰かを愛したのだ。
サラは氷を入れた袋をハートに手渡した。先程までの惨めな顔はすっかり影を潜め、女に叩かれたという事実がまるでなくなったような顔付きとなっていた。少なくとも一つの心に痛みを与えるこういった任務の後も、他の任務と同様に、ターゲットのみならず自分自身も夢見ていた世界から鋏で切り離され、深い孤独を味わう。その孤独から手を差し伸べて救い出してくれる人間がいれば、途端にそれは悪夢ではなくなり、最後まで耐える事が出来る。大人しくこの部屋で氷を待っているハートの姿を見た時には、サラは些か驚いた。彼もそういった事を他人に求めるような人間であるのだろうか。心を覆う遣る瀬無さを汲み取り、それに翻弄される人間であるのだろうか。彼女は彼の欺瞞の演技を間近で見た事があった。女の頭の中で存分に拵えられた愛が、一瞬にして崩れ去る。それは彼の言動や態度によるものではなく、あの無上に冷たい、突き放したような氷の刃宛らの一瞥によるものである。彼の温和な琥珀色の虹彩から愛が消えると、どんな色に変貌するのかは分からないが、その目の中に愛を見ていた女であれば即座に分かるのだろう。この人は一体誰、今まで私の身体を抱き締め、愛を囁いてくれた人は何処に行ったの。それが正しくガラハッド、ハリー・ハートという本来の人間の面影を巷の人間に見せる事をしない孤高のスパイであり、永遠に報われる事のないスパイである。
「ありがとう」
「女は直ぐ男の頬を叩く癖があるから」
「その程度なら可愛いものだ──君は、過去にどのような制裁を受けた事がある?」
幻想というものは祝福すべきものだ。思う存分に放ってやるが良い、それらは色褪せる事はない。豊かな唇の絶えず新たに古びぬ女神は心中にある。また、飽かずに眺める灰色の明眸、至る所で会いたいと願う美しい顔立ち、如何に優しくあろうとも限りもなく、聞きたいと願う心地良い声も変わらず心中にある。しかし、一指触れると、雨に打たれる水泡の如く良き悦楽は溶け失せる。それならば羽ばたく幻想に見付けさせるが良い。幻想のサラはハートの思うがままに微笑み、心待ちにしている言葉を言ってくれる。また、彼女はその白皙の手を差し出し、彼に許しの言葉を告げる──君は私を愛した事があるか。例え少しでも、ほんの僅かでも、たった数分でさえ──彼は恋愛が心の安らぎを奪うものであるとは知らなかった。恋をして来なかった為に知る由もなかったのだ。氷を持って来てくれた手に視線を注ぎ、その手に何度恋焦がれ、何度触れようとしたかを思い出した。しかし、それと共に常に連想する事が出来たのは、彼女の手は人間らしく温かい熱を持っているのにも関わらず、自分の手は凍えそうに冷たいという事であった。
「いや……そんな事を尋ねるのは無礼だね。すまない」
「いいえ、良いの。でも私、制裁を下された事が殆どなくて。もし私に恋人がいたら、もっと酷い事になっていたかも」
「いないだろう」
「あら、本当にそう思う?」
一度その手が私の手を真摯に握る事をしてくれたならば、サラの手が温かい熱を私の手に分け与える事をしてくれたならば、私は息を吹き返したように蘇る、敢然と蘇っては矜持を持つ事が出来る。しかし、人を愛す事をしない君は、私にそういったものを齎してはくれない。これは本当の私ではない、分かるね?君が仮面を被っているのと同様、私もそうして耐え忍んでいるのだ。女性の身体に触れる事と、君の身体に触れる事とはまるで異なる。また、私は色を帯びた任務を安逸に楽しむ事が出来るスパイではない。その事を、君だけには分かっていて欲しいのだ。ハートはサラの手を取ると、神経質に切り揃えられた爪に指の平を沿わせた。今、この瞬間、君はこんなにも近くにいる。私の無知な手に触れている君の無情の手が感じられる程に、君の温もりが私に伝わって来る。幾度となく孤独に君の事を想いながら、心が乱れ凍えたものだが、今は温かい。前に会った時も君は愛らしく美しかった。だが、今の君は一層愛らしく美しい。君の瞳、君の頬、君の微笑……いや、そうではない、その全て、君の全てが素晴らしい。だがそんな君は、人を愛する事を知らない。私を知ろうともしない。
サラはハートの手を思わず払い退けようとした。それは殆ど潜在的な意識が齎した防衛であり、また、慰めや愛情の籠った手に無縁であった為に齎された恐怖であった。絶えず出会う人間の手が優しい世界に彼女は生きておらず、絶えず出会う人間の手は自らを殺しに掛かるものであり、凡ゆる手段を駆使して自らを陥れるものである。意味のない行為をする手を彼女は知らなかった。今の彼の手が正にそれである。今し方まで氷を持っていた手は冷たく、様々な武器を器用に扱っては、自分ではない女を沢山抱いて来た手。また、自分の愛情に値しないと思われる事を恐れている手。サラはふと思った。ハートが冷淡に見えるのは、実は凡ゆる思いを胸の内に収め、外に出さないからに過ぎないのではないか。彼自身の思いを表現する能力に欠けているという事もあるかも知れない。彼は疲労を知らぬ騎士ではあっても、一つの事に執着する性格ではない。また、他の人間の如く、幸福と快楽を熱心に探し求める人間でもないように見えた。しかし、自分を前にするとその端正な顔立ちは、未だそれらを手にしていないといった、ある種の訴えのような表情となるのだった。
「君は私を愛していると言った。なのに離れようとするのは何故だ。愚かにも私は、あの言葉を未だに覚えている。流れ出た血と共に君は忘れたのか」
躊躇う事なく問題の核心に触れながら、ハートは歯切れの悪い口調で言った。女の頬や身体に触れる時、いつも君を思い出す──任務の最中、記憶の中のサラの顔に漂い続けていた不思議な微笑が、彼は気掛かりでならなかった。それは愛してもいない女に相手にされる惨めな男に、故意に投げ掛けるような微笑であり、今までついぞ彼女が見せた事のないものだったが、彼はそれを彼女の新たな眼差しの所為だと思い込もうと努力した。それはまた、涙宛らに両眼から流れる微笑でもあった。これに対し、彼の腕の中にいたターゲットは彼の反感を唆った。彼はサラの身体に触れた事はなかったが、眼前のターゲットとは全く異なるものであると何故か確信する事が出来た。この一連の騒ぎを知らぬサラは、ハートの言葉を聞くと、彼女はその秘密を見破ったらしい様子にも見えた。もし彼女と二人切りになれば、きっと打ち明けてくれるに違いないと彼は思っていたのだ。しかし、彼女は殆ど口を利かずにいた。愛の言葉を放ったとは思えぬ静かな佇まいで彼の双眸に映り、彼の前で呼吸をした。他でもない彼女が、無上に愛している彼女が、彼を無上に惨めな存在と知らしめていたのである。彼は、はっきりと覚えていると言って見せる彼女の顔から逃れるように、真意から背けるように、抵抗をひた隠しにしている小さな身体を抱き締めた。サラがいれば、自分の知りたいと望んでいる事が明白になったかも知れないのだ。もしかすると、彼女はそれを知っていて、今此処にいるのではないか──そんな風にハートは勘繰ってもみた。しかし、本人を前にしてもそれは知る事は出来ないのだった。
「頼む、どうかそのままで」
だってこの人は悪魔だからね。正しく悪魔だ。何しろ私の意志に反して、私を骨抜きにしてしまったのだから。ハートは半分恋人や、四分の一の恋人などといった不完全な恋人なら幾らでも作る事が出来た。しかし、欲しくて堪らないただ一人の女性はサラであった。それにも関わらず、仕事以外の会話を殆どしていなかった事に思い至り、彼は自分を詰った。とはいえ、彼は恋を自覚する以前から、寝ても覚めても彼女の苦痛の人生を一刻一刻、我が事のように共有して来た。それを自分の人生の一部として捉え、我が事のように痛みを感じて来た。彼女の凡ゆる衝動、純粋な心の凡ゆる揺らぎ、脆さ、反発、自己嫌悪に応えて来た。また、それを態度に示そうと努めてもいた。未だ身体を重ねてもいない内にこれ程に長く知り合い、これ程に親密になった女性が他にいたなら、教えて欲しいものだ。ハートは幾度もなく思い描き、想いを募らせたサラの身体に大切に言い聞かせた。それと同時に、すっかり常套手段となっている韜晦も必要ではないという事を、彼女が理解するように願った。 君は私に力を与えた。今までとは異なった人間にしてくれた。長年の内に、女性達は私に優しく無遠慮に、或いは見るからに幻滅し、また私も最初から女性達を愛しはせずにいた。友となった我々は一瞥だけで命を預ける事の出来る戦友となり、注意深い恋人にも夫婦にもなる事が出来る。もし本当にそうなる事が出来たならば、我々の人生を左右し得る全てのものから解放される筈だ。私は君を愛している。任務から帰還する度にそれを切に感じる。私はもう英国の為に、また世界平和の為に十分過ぎる程に働いた、サラと結婚して彼女を幸福にする為に尽力する、それでキングスマンを辞めなければならないのであれば辞めるつもりだ。何ものも私のこの心を翻意させる事は出来ない。例えアーサーの命で馘首よりも悲惨な目に遭わされようとも、私は君から離れる事はしない。
「嘘でも良い。もう一度、言って欲しい」
「嘘でも?」
「どうしても君は、私を愛する気にはなれないようだから」
時間の経過と共にハートの声は力強さを増していた。彼はサラの眼差しから逃れる事を止め、沈んだ色の瞳を見詰めた。何て冷たく、情熱的な色をしているのだろう。この眼が愛に燃える事があるのだろうか、この眼が自尊心の代わりに愛を従える事があるのだろうか。愛に飢えながらも愛を知ろうとしないこの女性を、何故私は愛するのか。彼が利き手で彼女の顎に触れた。彼はあの言葉には何の意味も込められていない事を知っていたが、それを信じ切る事は出来なかった。あの言葉は目眩しに用いたもので、まやかしであったのだと考え始めると、もう一人の自分が姿を見せる。あの時のサラはありのままの彼女だ、熱に魘されていたとして、それが一体何だというのだ?この口から出た言葉だ、それを私は拾っただけの事だ。彼女からの贈り物として貰ったものだ、それを私は大切にしているだけの事だ。どれ程に……一体どれ程に君を想っているか、またどれ程に、こうしていられる事が幸福か、君が知る事はない。君が私を愛さない限り、それを知る事はない。今直ぐに、私は君の身体から離れなければならない。私が君に触れる事が出来る条件はたった一つしかないが、それは絶対に実現される事はないのだ。だって君は、私を愛してはいないし、絶対に愛する事はない。君を傷付けて来た男を、君は愛さない。当然だ。ハートの目は一瞬、茶色い眉の下で光った。サラは暫く返事をしなかった。この人が怖いと言う考えがちらと彼女の頭に浮かんだ。
「私に愛されたとして、どうなるの?」
依然としてサラの表情には変わりはなかったが、それが尚ハートの胸を打った。自分はこれから誰を愛の象徴として呼べば良いのか。誰をこのように優しい名で呼び掛けたものか。自分の心はこのような不幸に耐える事は出来ない。自分は彼女を神の光の如く愛していた、彼女という人を何から何まで愛していた。そして自分は彼女一人の為に生きて来たのだ。自分が仕事をしたのも、人を殺めたのも、脚が痛む程に歩いたのも、意味もなしに散歩をしたのも、そして友情に溢れたといったように自分の印象を偽ったのも、それもこれも全て彼女が此処に、眼前に、直ぐ其処にいたからなのだ。彼女はそのような事を知らないようだが、全てその通りだったのだ。ねえ、君、一つ考えてみて欲しい。君が私の元を離れて行ってしまうなど、そんな事が果たして出来るだろうか?いや、君は出来ない。そんな事は不可能だ、何としても絶対に……。ハートには、激情の出現を阻止する術もなければ、美しい星の運行を左右する力もない。眼前に散ける事のない力が生じる時、それは彼の心臓に押し入って痛みを与え、彼の繊維の一つ一つにのし掛かる。しかし、彼はこの力から逃れる事は出来ない──逃れようとも思わなかった。嘗て彼は、一切の感官を働かせたまま先へ先へと引き攫われ、当て所ない空間に落ち込んで行くその時早くも、不可思議な巨大な満足を予感していた。痛みを耐える事、痛みを加える事が恐らく自分には可能になるであろう。また、今、何ものかが自分を取り囲んでいるのを戦慄と共に感じる。それは高々と聳え立つ遥かな世界にまで。サラという一人の人間を愛し始める以前の彼は、知らず知らずの内に夢想の虜となっていたのだった。答える事が出来ないハートは目を伏せた。山積みとなった愛の幻想はみな、自身の限界を超えた幻想から溢れ落ちる虚しい余剰に過ぎないのだった。彼女は其処で口を噤み、そのまま黙り込んだ。彼の目付きから、何気なく口にしたこの取るに足らない一言が、一つの真実に触れているのを感じ取ったのだった。

Justin Timberlake ft. Timbaland - Cry Me a River