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I and this love are one, and I am death



全体の調子が不自然なものに思えてならなかった、マーリンの声色。その口から知らされたサラの任務内容は、何の変哲もない、有り触れた極一般的なものであると分かった。色仕掛けというものは、その人間にも依るものだが、脅迫よりも更に強いものとなり、心の奥深くに根付いてしまうものである。その為に古くから使われて来た手法であり、こうしたスパイの世界では常套手段と言える。従って、彼女は上からの命令そのままに、ある情報部員を落としに掛かっただけであり、自分が気に掛ける程のものでもない。ハートはそう思っていた。しかし、その任務の最中に一度だけ本部で見掛けたサラの顔。我が家宛らの本部や、家族宛らの仕事仲間を何処か異質なもの、彼女の見慣れた筈の場所を、自分と何ら関わりのない別次元のものと捉えたような眼付き。心は其処に在らずといった様子、その心を今し方置いて来た関心ある場所へ一刻も早く帰りたいといった様子の彼女を見た時、言葉は交わさなかったが、彼の胸にふとある影が差した。彼女が所謂向こう側、外界の人間の群れの中へ行ってしまうのではないかという懸念と、彼女の手を取り共に生きて行こうとする存在への恐れが徐々にハートの胸の中で沸騰していった。サラへの恋心を自覚する以前の自分を想起しようと努めた彼であったが、それが一体いつの事なのか、また、彼女を愛していなかった頃の自分が一体どんなものだったのかを全く覚えていなかった。しかし、既に彼の元にはあるものが猿臂を伸ばして来ていた。怒り狂った嫉妬の獣が檻の中で吠えはじり、今にも飛び出ようとしていた。彼はこの獣に気付くや否や、それを恐れていた為に直様檻の戸を固く閉ざした。実に醜い感情だ、この嫉妬というものは──また、ハートはこうも自分自身に言った。彼女が浮かべていたあの表情以外に、自然なものが有り得るというのだろうか?
ハートは寝床に入った。現在就いている自分の任務についての思考を始める前に、いつも彼は至って早く眠りに落ちる事が出来る。ところが、不意に電流が走ったような感覚に襲われ、目を覚ましてしまった。すると、現実で向き合っている事柄は何一つ念頭に浮かぶ事はなく、離れた所にいるサラの事や、彼女に対する自分の精神的な愛、また肉体的でもある愛、彼女の手を取る情報部員の事、彼女とその男の仲はすっかり出来てしまっているという事などを考え始めた。恐ろしさと憎しみとに心が締め付けられた。それでも尚、彼は自分に説き聞かせようとした。そんな馬鹿な事があるか、何の根拠もないではないか。何事もありはしないし、これまでにもあるものか。そんな悍ましい事を想像するとは、よくも自分自身と彼女とを其処まで卑しめられたものだ。相手は何やらサーカスといった情報部の下っ端で、誰もしたがらないような汚れ仕事を率先して引き受ける男らしいではないか。それにも関わらず突然、非の打ち所のない立派な女性が、誰からも敬愛されているサラが、この私が嘸かし大切に想っている彼女が蹌踉めくなどと、何とも馬鹿馬鹿しい──しかし、一方ではこのようにも思われた。何故にそれが有り得ない事と思える?極めて単純な、分かり切った事が起こらぬ筈はない。この私であれ例外ではなく、彼女に求めているものと言えば一つだ。それが目当てで彼女の隣に居座る許しを乞い、その為に彼女と共に此処で生きて来たのだ。他の男共であれ、求めるものは同様である事に決まっている。恐らくその男は独身で、頑健であろう。現場工作員らしく血色が良く、主義を持たぬどころか禁欲的な生活を強いられて来た為に、眼前に現れた対象はさぞ光り輝いた事だろう。それに加え、あの二人の間には孤独という、この上なく念入りな結び付きがある。その孤独から脱する事が出来ると思う心を、あの男を抑え得るものなどあるだろうか?何もありはしない。反対に、サラの何もかもがあの男を惹き寄せるのだ。彼女を心から愛さぬままに、一時の快楽としてさぞ楽しんでいる事だろう。彼女を知らぬままに、彼女の境界を理解せぬままに。では、彼女の方は?彼女はどういう女だろうか。私は彼女を愛しているが、何故彼女を愛しているか自分でも理解出来ないでいる。これまでと同様、今でも彼女は謎だ。私は彼女という人間を本当の意味で知ってはいないのではないか。知っているのはキングスマンとしての彼女だけだ。キングスマンならば、何一つ抑制出来ぬものなどないのだから。
その夜、サラとあの男が出て来た。夢の中では、何か情熱的な事をし終えた時の二人の姿が浮かび上がった。ハートは彼等を遠くから眺めながら心の中で言った。あの時、二人の間で全てが成就した事なんぞ明瞭であっただろうに。既にあの時、二人の間に何の障壁もなくなっていただけではなく、何方も、もしかすると特に彼女が、二人の間にそんな事のあった後だけに、一種の情動すら味わっていた事が分からなかったというのか?彼は後で忘れもしなかったが、彼が二人の傍に歩み寄ろうとした時、彼女は赤く上気した顔の汗を拭いながらか弱い、いじらしい、幸福そうな微笑を浮かべていた。二人はハートの存在に気が付くと、互いに相手を見る事を避けたり、ちらと顔を見合わせて微かに微笑み合うといった事をした。彼は夢想の中でも自分の気付いた、微かに分かる程度の微笑を秘めたあの眼差しを思い出し、慄然とした。そうだ、すっかり出来ていたのだ、と一つの声が告げ、また直様別の声が丸切り異なる事を囁いた。お前はどうかしているのだ、そんな事はあり得ないよ、ともう一人の自分、サラの表面だけを見ている自分がそう言った。
サラの姿はあの時から一向に見ていなかった。ある晩、ハートは気晴らしに夜更けの散策をした。それは昼間よりも一層美しかった。新月と微かな寒気、彼は気の赴くまま、限られた時間を楽しみ、何が自分を待ち受けているかという事なんぞ、殆ど全く考えようとはしなかった。というよりも、何が待ち受けているかを知っていたからこそ、特にそれを楽しみ、人生の喜びに別れを告げていたのだった。しかし、その安らかな心境や自分の感情を殺す力も、散策と共に終焉を告げた。仕立て屋へと向かう車に乗った途端、全きの別の心境になったのだ。この時間は彼にとって一生忘れられぬような、何か恐ろしいものだった。後部座席に座るなり、既に本部に着いた自分の姿をありありと想像した為か、それともこの世に生まれたばかりの太陽が人々に興奮するような作用を及ぼす為か、兎に角その時から、彼は最早自分の想像を制御する事が出来なくなったのである。ハートの想像は休みなしに、嫉妬を煽り立てるような様々な情景をそれからそれへと、益々卑猥の度を強めながら並外れた様子で描き出し始め、それが全てサラの任務中に起こった事や、彼女がある一人の男に慰めを求める情景ばかりであった。それらの情景を見詰めながら、彼は憤りと憎しみと、自分の屈辱に酔うような一種特別な感情とに心を燃やしていた。そんな情景を見ないでいる事も出来なければ、それらを拭い消す事も、描き出さずにいる事も出来なかった。そればかりでなく、想像上のそうした場面を眺めれば眺める程、益々強くその現実性を信じた。そうした情景の描き出される程度が、彼の想像する事が現実であるという証拠として役立つかのようであった。悪魔か何かがハートの意志に反し、この上なく恐ろしい考えを思い付いたり、耳打ちしたりするかのようであった。よく考えてみなければ──彼は自分に言った。私の考えている事は本当だろうか。私の苦しみには根拠があるのだろうか。彼は冷静に考えようと望んだが、冷静な思考どころか直様再び同様の事が始まった。判断の代わりに様々な情景と妄想ばかり浮かぶのである。思えば、今までに何度このように苦しんで来た事か。何も今回ばかりでない──彼は過去のこうした嫉妬の発作を思い起してみた。いつも後では何事もなく終わって来たではないか。もしかすると、今度もそれと同様かも知れない、いや、恐らく、何事もなかったかのように帰還するサラを見出すに違いないのだ。私は彼女が持ち帰った有益な情報を喜び、その言葉や眼差しにより、私は何事も起こらなかった事、何もかも馬鹿げた想像に過ぎなかった事を感じるのだ。もしそうであれば、そうだったとしたら、どれ程に救われる事だろう……。
ハートはそうした希望を胸に本部へ辿り着いた。しかし、それが一時の希望、車内から此処までの短い時間の中だけで働いたものであると分かったのは、マーリンの沈んだ表情を一瞥したからであった。仲間の凡ゆる死に慣れ過ぎてしまった彼等は、そのような感情を外へ出したり、長引かせたりする事はしない。死人はそういった優しさを齎してくれる。しかし、生者はその命の限りが尽きるまで、苦しみを与える事がある。彼の有様を見たまえよ、私が思った通りの事が起きているではないか──何かの声が告げ、またしても始まったのだった。其処には依然として刑罰も存在した。あの男の欲望をサラから引き離すには、或いは彼女の孤独をあの男から引き離すには、私であればマーリンのような生温い事はせず、私の心の中を覗かせ、心をズタズタに引き裂いた悪魔共を眺めさせてやりたい。兎に角恐ろしい事は、ハートがまるで彼女の身体が自分のものででもあるかの如く、彼女の身体を支配する完全な、疑う余地のない権利を自分に認めており、それと同時に、その身体を完全に支配する事は出来ない、それは自分のものではないのであり、彼女は好きなように扱えるのだ、しかも彼女は自分の望むのとは異なるように扱おうとしている、と感じた事であった。また彼は、あの男にも彼女にも何一つ手出しする事は出来ないのであった。あの男はサラが如何に素晴らしい女であるか、甘い唇にどれ程にキスをしたか、という事を高らかに言う事だろう。あの男が勝ったのだ、あの男だけが勝ったのだ。また、彼女に対して何かしてやる事もまた難しい。仮に彼女が実際にやってはいないがそう望んでおり、彼女のそんな気持ちを私が知っているとしたら難儀なものだ。それならば一層の事、私に分かるように、曖昧なところがなくなるように、実際にやってくれた方が未だ救いがある。このままでは私は自分が何を望んでいるのか、言えなかったに違いない。私は、彼女が当然望む筈のものを望んで欲しくはなかった。これは正に完全なる狂気の沙汰であった。

ハートは窪地を見た途端、進むのに革靴では時間が掛かると思った。しかし、プリドーの息の掛かったこの私立小学校の生徒全体による監視の目を気にしながら、暗視機能に切り替えた視界を頼りに見窄らしいトレーラーハウスへと進んだ。──君が、こんな男を愛するとは思ってもみなかった。突然、自分でもどうしてか分からぬ内にそう言った。まるで自分の内部から誰か別の人間がこの言葉を言ったかのように。その時は殆どその言葉の意味を理解していなかったのが、今になってそれが明瞭に、またサラの表情も共に思い出された。その薄情な言葉が彼女の胸に、どれ程に悲しく響く事かと今更ながらに気遣われ、また、見極めたくはない不安が彼の胸中に湧いて来た。だが今は、彼女を想う気持ちよりも重要な事がある。彼女にはマーリンがついている、何も心配する事はない。ただ今は、あの男と彼女の繋がりを消し去る事をすれば良いのだ。それさえ完了すれば、あの男は最早我々の問題ではなくなるのだ。ハートは室内に泥を持ち込む事をしない為に、靴を脱いで中へと入った。五分、と彼は胸中で呟いた。鍵を掛けていないトレーラーハウスらしく、取るに足らない物ばかりが並んでいた。恐らく拳銃や脱出用のパスポートなどは此処ではない何処かへ隠しているのだろう。繋がり、と言えば何を思い浮かべる?自分があの男でサラが恋人であれば、どのような物を残す?巷の恋人達にとって写真は有り触れた物だが、痕跡が残る物を恐れるスパイには無縁だ。写真は無い。では手紙といった類の物──ふと積み上げられたフランス語教材に瞳を転じると、その傍にはレコードプレイヤーがあった。グスタフ・マーラーの名が刻まれた一枚のレコードが其処には設置されており、使い古している品物。だがプレイヤーは最近購入したのか新しく、埃一つない。誰かからの贈り物であろう。首狩人なんぞが好む旋律ではない。ハートは一瞬、贈った人物に彼女を思い浮かべたが、直様その考えを払った。彼女には音楽の趣味はなく、殆ど無知に近い為、その事実と結び付ける事は出来ない。
プリドーは何故、サラを愛したのか?遠い歳月の奥からこの錯乱の真っ只中に、彼女の瑞々しい声が、あの男と話す彼女の声がハートの耳に蘇って来た。あの二人は、互いに何を考えているのか知ろうとしていたし、互いに相手にとって善良なもので在り続けようと考えていた。二人が住み慣れた愛のないこの世界は宛ら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事、勇猛心にも辟易し、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求める時が来たという訳である。もう一つ指摘するならば、ハートはこの時に初めて、サラが彼の光の届かないところ、彼の関心の及ばないところにいるのを目撃したのである。不覚にも彼には、彼女がいつもより更に趣のある女に思えた。まるで他人の女を見ているような感じであった。彼は無意識の内に彼女を自分のものと思っていた為、それには僅かな狼狽を感じた。嘗ての恋人に首に手を掛けられていたにも関わらず、彼女は抵抗する素振りを一切見せる事はなかった。死んでも良いと思ったのだ。彼処で、二人が過ごしたあの小さな部屋で。あの男の手であれば自分は首を折っても良いと、誰にも触れさせた事がないあの心はそう思ったのだ……。いや、あのサラが貴様を本当に愛しただと?二重スパイの探索対象は直ちにロンドン本部に引き渡さなくてはならない。それは指揮官直々の通達であり、永続命令であった。だがそのロンドン本部の指揮官、また親友である男の裏切りに目を瞑っていた貴様が得られたものは、高々数千ポンドと車だけだ。何故彼女を愛したのだ。夢を見たかったのかジム・ボーイ、哀れなジェイムズ・プリドー。二重スパイが君のメフィストフェレスであったように、貴様が彼女のそれであったのだ。何故に貴様は彼女の愛を得たのだ。一体貴様の何が、彼女の心に適ったのだ。今にして思えば、プリドーは私の首をへし折る事が出来なかったのが残念でならなかっただろう。何の痛痒を感じる事もなく、難なくやってのけただろう。サラの為に。彼女がいる未来の為に、また彼女を我々から救う為に──君達は虚無の中に、空気のない空間にどのように生き、愛し合ったのだ。ハートが声に出す事なしに呟くと、血が騒ぎ、視野内の色彩が鮮明になり、節度の感覚が危なっかしく傾き出した。
今頃、マーリンはサラの傍に座り、片時も離さずに彼女の顔を見詰めながら、まるで小さな子供をあやすように、両手で彼女の頭や背中を撫で摩っている事だろう。彼は彼女の微笑に応じて微笑し、その涙に応じて泣かんばかりの人間である。彼は一言も口を利かずに、しかし彼女の突発的な取り留めのない思考に、じっと耳を傾ける。恐らく彼にはその思考の意味が何であるか分からなくとも、ただ静かに彼女に寄り添い、彼女が少しでも寂しがったり泣いたり、咎めたり訴えたりし始めると、直様安堵させるような言葉を口にする。彼女の為に息をしているような男だ、容易に想像する事が出来る。しかし、何故アーサーはマーリンを介して、あの任務にサラを就かせたのか。ハートはマーリンの口調を思い出した。いや、あの任務だけではない。今までの色仕掛けの任務に於いて、常に彼が後方支援に回っていたと言った。通常、特にそういった類の任務となると後方支援は殆どなく、彼の出る幕はない──ああ、そうか、監視だ。アーサーは彼女を利用してはいるが信用してはいない。マーリンが彼女を愛している事は承知の上だったのだ。例え彼女がターゲットと恋に落ちたとしても、彼はその嫉妬心から、その後始末を必ず行うであろうという事をアーサーは踏んでいたのだ。哀れだ、あの優男も。彼女に恋するが故に利用されている。彼は候補生に向かって感情に流されてはならぬと毎度説いてはいるが、優しさは正に感情である。また、怒りや嫉妬も同様であり、それらに親しみを抱く程に我々とは近い存在でもある。ハートはふと思った。感情がなければ誰かを救う事もないのだ。
マーリンは長い間耐え忍んだ事だろう。彼はサラに任務の趣旨を説明し、彼女があの男の元へと向かうところを、血を吐く思いで見届けたに違いない。どうか彼女の心が、あの男の方へ向かないようにと祈った事だろう。彼は愛する彼女の傍にいながらも、最も傷付いた人間だ。優しさがある故に、利用されるのだ。しかし、私には……いや、私だけではない。我々は単なる手段でしかないのだ。他人の心に触れる事を恐れる我々は単なる傀儡であるのだ──案の定、手紙が存在した。それを、土の中ではなく地上の取り出し易い場所に隠していた事に些か驚きながらも、一度は塵同然の扱いを受け、再び大切に引き伸ばされたものに視線を落とした。長い文章であるとてっきり思い込んでいた彼であったが、其処に記されていたのはたった一言であり、また、それはサラの内に流れる血が記したものであった。今すぐ帰ってきて、エリス、今すぐに此処に帰ってきて欲しいの。私を此処から救い出して欲しいの、私を無情の世界から救い出して、私を二度と傷付けたりしない世界へ連れて行って。ハートは凡ゆる場面で彼女の事が頭に浮かぶ程、悠々としていた頃の自分をもう思い出す事が出来なくなっていた。あの何度も燃え上がった嫉妬心、嫉妬の炎に焼かれ続けた夜。しかし、今では悔しさと後悔が胸に迫っていた。彼女を愛した長い月日は、心苦しくも楽しく過ごしたように見えはするものの、それらは今宵で一変してしまったように思え、憂鬱な思いが消える事はなかった。その憂鬱さからどう逃れたものか、一向に分からずにいた──それにしても、よくもまあ、あれ程に卑下に出来たものだ……何もかも目を瞑って。彼は我と我が身を責め始めたが、直様そうした考えも打ち切った。泣き言を言う事自体、自分を卑しめるように思えたのだ。一層の事、誰かに向かって腹を立てる方が未だ好ましいとさえ思われた。愚か者が、と意地悪く呟きながら、脅威ではなくなった恋敵の私物達を横目に見てトレーラーハウスを出た。
忌々しい泥の道は、一度目よりも二度目の方が断然歩き易くなっており、その道から思う時間は成熟した季節宛らに思われた。花や葉、鶯やつぐみ、嘘やその他このような命の短い生物が、ほんの数ヶ月前、彼等が胚種や無機物に過ぎなかった頃、他のものが占めていた場所を彼等に代わって占めた。暁の光は新芽を引き出して長い茎に引き伸ばし、樹液を音もなく吸い上げ、花弁を開き香気を吸い出し、目に見えぬ噴霧や息吹きの如く辺りに漂わせる。傷を一つ残しては再び季節は過ぎ去り、また新たなものが訪れる。サラ、君は無垢な、感じ易い心を持った人間だ。そしてその無垢の中にこそ、君の完全な点がそっくり含まれている。その事だけはどうか覚えていて欲しい。君に対する私の恋情なんぞ、君にとって何だというのか?だが、君はもう私のものなのだ、私は一生君の傍を離れる事はない……私に残された時間など少ないからだ。ハートは内ポケットに入れた手紙、サラの悲痛を上着の上から手でひたと優しく押さえた。まるで自分の心臓に触れるように、彼女の心を慰めるように。君は愛していたのだね、君は真摯に、あの男を愛していたのだ。だが私の天使、私は身を焼かれる思いだった。地獄の業火に焼かれる思いだった、いや、今にも死にそうな思いだったのだ。君同様、マーリン同様、この私もそうであったのだ……。ハートの胸には、その他の彼等と同様、斜めに差し込む光があった。大聖堂の調べの重味の如く、それは人間の心を圧する。天上の痛みを、それは人間に与える。傷痕は見付からず、ただ心の内に変化が生じ、其処に意味があるのだが、誰もそれを教えられる事はない。それは絶望の印形であり、空から送られて来た荘厳な苦悩である。それがやって来る時、風景は耳をそば立て、物影は息を凝らす。

The Weeknd - Is There Someone Else?