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Mephistopheles and sandman



サラがプリドーの姿を眼で追う前に、もう耳は近付いて来るエンジンの音を捉えていた。どうやら彼が遂に自分の姿を見付けたらしい、と意識の影から出て来たもう一人の自分が報告した。彼女は彼のその姿と共に、懐かしい川沿いを振り返り、遥か遠くをゆっくりと眺めていたかった。小さく凹んだままのボンネット、おんぼろ中古車、その中に鋭い眼光の懐かしい顔がちらと覗き……エリス、エリスと叫んで駆け出し、自分の唇を、乾燥して日焼けした頬に押し付けたかった。彼にそう出来たら良いのに。あれ程に愛し合った仲なのだから、監視の目を気にせず、そうする事が出来たら良いのに。大いなる犠牲と見做されながらも、表舞台に放り出された人。サラは一瞥で、プリドーの筋肉の落ちた身体、一層痩せこけて影が深くなった目鼻立ちを看取した。また、ハンドルの向こうに見えた、不自然に上がった右肩。あれでは歩き方は歪になる。恐らく背中で受け止めた銃弾、一発か二発の銃弾。何故彼のような用心深い人が撃たれたのか?そんな容易に、他人に撃たせる事があろうか?もしや彼は裏切りにあったのではないか?彼女は、変わり果ててしまった恋人が自分の後を追って来るのを願いながら、懐かしのフラットへ入って行った。いや、外見はあのように変わり果ててしまったかも知れないが、彼の心は未だ自分のものだ。未だ……現に彼は、あの凹んだ中古車でこの界隈を徘徊していたのだから。用もないのに?そんな無駄な事をする男ではない。
プリドーは決心が付かずにいた。その深緑色の目でじっとサラの後ろ姿を見詰め、険しい顔一杯に狂おしい恐怖の色を浮べていた。しかし、一度彼女の姿を捉えてしまったら最後、腰に差してある拳銃の存在を手で確かめては、窮屈な運転席から這い出た。危険であると分かっていても、彼の中で追う以外の選択肢はなかった。例え罠であったとしても、今彼女を追わずにいたら、死よりも深い後悔の念に苦しむ事が明瞭であった為である。人目がなくなった途端、彼は拳銃を構え、嘗ての想い人を追った。拳銃は彼の相棒であり、どんな時であれ彼を安堵させ、生き延びるという事をさせてくれた。しかし、今はそんな拳銃も殆ど頼りないものに感じられた。俺は撃てるだろうか?そんな疑問が初めて浮かんだ。サラは既にあの部屋の中へおり、プリドーの照準に故意に合わさるよう窓辺に立っていた。その態度が親友の最期のものと重なり、彼の癪に触った。撃てるか撃てないかの問題ではない、俺は撃たざるを得ないのだ。奴の時もそうだった、奴は堀の向こう側から俺を捉えていた。ライフルを構える俺をじっと真面に見据え、逃げも隠れもせず、俺に撃たせたのだ。それと全く同様だ、彼女も、そんな選択を俺にさせているのだ。その思いに一度として捉われると、抗う事は困難である。彼は沸騰した感情を抑える事が出来ずに、利き手に拳銃を持ったままサラの細い身体を、何度も大切に抱き上げては体温を取り分けた身体を、冷たい床の上に押し付けた。途端、不自由と成り果てた身体が唸りを上げた。右肩に対する苦痛か、将又感情の抑えの効かぬ自分自身に対する怒りか分からぬまま、プリドーは低い悲鳴を歯の間から押し出した。俺は撃たざるを得ないのだろうか。嘗ての想い人とやらを、俺はもう一度、撃たなければならないのか。彼は既に後退りつつある心の呵責を警戒し、手の力を更に加えた。不覚にも左手が彼女の首を掴んでいた。幾度となく聞いた折れるあの音を、一臂の力で聞く事が出来る。彼女の米神に当てている銃口なんぞは大したものではない、轟音を立てて発射される銃弾よりも、静謐の内に死が訪れてくれる。
「俺にこんな事をさせる為に姿を見せたのか」
君のような人間に、死は無縁であると思っていた。嘗て君が俺に齎してくれたあの明るい世界には、死なんてものは存在しないと思っていた。プリドーの、常に穏やかな声で語る鉄の自制心の中に、表情の強張りの中に今は怒りがあった。自己嫌悪と一体になった怒り。生来の凡ゆる高潔な性格に反して、やらなければならない事の悍ましさに対する怒りである。夜の眠りさえ失わせ、悩ましい痛みで持ってこの自分を痛め付けたサラ。彼女は俺を愛した振りをしていたのだ。だが、そうであればあの手紙は一体何だったのだ。プリドーの眼前にいたのは、低賃金でも充実感を持ち、英国の宝である子供の育成に励んでいるしがない家庭教師ではなかった。彼の見知らぬ人間、下っ端の現場工作員の給与では到底手が届かない程に高価なスーツを着熟す人間、上流階級の賢明で薄幸な人間、堂に入っているであろう完璧なアクセント、現実世界を忌み嫌っている人間が其処にはいた。そして、外界の人間とは普通に口も利けず、知らぬ相手からは笑顔を向けられてもならない同業者であったのだ。そんな人間の、サラの心臓の鼓動が肌越しに伝わるのが感じられた。死の傍にいる彼女は抵抗すら見せず、殺意を垣間見せたプリドーにひしとしがみ付いていた。
「こんな事ってなに」
「スパイめ、俺から何を得た?俺を使って土竜でも炙り出そうってか?」
プリドーが味合わされた拒絶という侮辱感が、まるでサラも同様に受けた生々しい傷の如く、彼女の心を焼いた。あの時、私は貴方が好きになったと告白したかった。自分も貴方と同業であると、誰もやりたがらない下っ端の仕事をしているのだと打ち明けたかった。生まれた時から貴方に出会うまでの半生を話したかった。両親の裏切り、見知らぬ諜報員からのリクルート、軍人への道のり、絶え間ない人殺しの訓練。そして、私の本名、組織内での名称、凡ゆる任務で扱う偽名の数々、生の営みとは掛け離れた生活。その一切を貴方だけに打ち明けたかった。貴方は任務の一部だったけれど、こんな感情を抱いたのは初めてだという事も言いたかった。私は貴方に身体と心は勿論、命だって捧げたいと思っていた。貴方が喜んでくれるのであれば、何だってしてあげたいと思っていた。私も貴方と同様、周囲から猜疑の目で見られているの。心を誰にも、ただの一度も開かずにいるのはとても辛いわよね。身体でしかものが言えない事があるけれど、貴方にだけは本当の愛を囁きたかった。サラは罪、自身の定めに於ける呪縛という観念を越えようと努めていた。しかしやはり、罪は彼女にとって忍び難いものであり、名誉挽回の機会を与えてくれた彼等を見捨てる気にはなれなかった。また、プリドーを愛するからといって、罪を犯しても良いなどと思うのではなかった。この愛を彼女の心臓から引き抜く事は、彼女自身の心臓を引き抜かずには出来ない。彼を愛さないのであれば、彼女は今度は慈悲の情で彼を愛する事になるだろう。彼を愛さないという事は彼を裏切る事となり、彼を愛するという事は彼等を裏切る事となる。しかし、プリドーにはサラの愛が入用であり、彼女の眼にもそれは明瞭であった。彼女は彼の顔を見るのが好きだった。彼の内に輝く幻想的な明かりが好きだった。
「私は貴方と同じ事を考えていた」
「黙れ、知ったような口を利くな」
「あの手紙に書いた事を、私はずっと思っていたの」
プリドーの目が、自分の左手にサラの手が添えられるのを追った。その白皙の手にどれ程、焦がれたかを彼は思い出した。宝石細工のような筆跡を記し、早く帰って来てと主に言わせた手、フランス語の解答をすらすらと採点する手、自分の顔に恐る恐る触れる臆病な手、愛を知らないが知ろうと努力している手……今も尚、それを知ろうとしている手。嘗て我々は二人切りだった。冷たい合成物であるこの世間の中で二人切りだった。あの窓に曙光が差すまで、自分は彼女を抱き締めていた。彼女は他人の温かさに戸惑いながらも、拒むような動作は一切しなかった。彼女が額を自分の方へ擡げた時、我々の唇はぴたりと合わさった。サラがプリドーに与えた印象は中々消えなかった。清らかな、華奢な、おずおずと上に向けられた顔が絶えず彼の目先にちらついた。彼は手の平にあの柔らかい髪の感触が残っているような気がし、また、穢れを知らぬ僅かに開かれた唇と、陽光を受けて濡れた真珠のように光っていた歯が見えるような気がした。しかし、その他人に対するある種の怯えは彼にも存在し、二人が出会った初めの頃、恐れていたのは彼女ではなく彼の方であったのかも知れなかった。ある日暮れ時、あの川沿いで彼女の姿を捉えると、彼は人影に紛れるようにして息を潜めた。しかし彼女には、黄金色の穂の間からじっと窺っている彼が見えており、近付いて優しく声を掛けた。本当に無知であった自分と、その無知すらも知り抜いていた彼女。幸福の罠にまんまと足を取られた自分と、幸福を知らぬままに幸福を演じた彼女。だが確かなのは、我々は完全なる恋人であったという事だ。互いにとって完全なる恋人、二分の一程度の恋人などではなく。
「エリス……ジェイムズ・プリドー」
宇宙創造の神が夜というものを、これ程に深くこれ程に美しいものに仕立てたのは、迷える子羊の為なのだろうか。それとも、サラや自分の為なのだろうか。空気は暖かく、開け放されたあの窓には月の光が射し入り、嘗て我々は大空に広がる無量の静寂に聞き入っていた。御手に成る天地の万象を、押し並べて褒め讃えようにもその術は知られず、我々の心は言葉もなくただうっとりと、その中に融け入るばかりであった。我々は無我夢中で祈る他はなかった。愛の何処かに限界があるとすれば、それは神の所為ではなく、人間の所為である。 我々の愛が、 縦しんば人間の目には罪障と映ろうとも、せめて神の目にとっては聖なるものであると……。サラが何故、ジェイムズよりもエリスの名を好んで呼んだか、プリドーには理解出来た気がした。彼女はプリドーという名を口にしたくて堪らないといった様子で、しかも非のない、あのとろりとした響きを齎した。それはサースグッドでの彼の渾名にも由来しており、生徒からその名で呼ばれると、彼女の美しい声を思い出したのだった。彼はプリドーといった名が、生まれてこの方自分だけのものであった名が、初めて耳にする句のような気がした。何故君は、俺の隠された名をさも大切そうに言うのだ。まるで自分のものであるかのように。君の秘密の名にも、俺と同様の血が流れているからか。幸い、俺は未だその名を知らない。一度聞くと頭から離れないような名を、俺は未だ知らないでいる。彼の窶れ果てた顔は、唇を固く結んでいるにも関わらず、微笑んでいるように見えた。プリドーの顔に表れたその苦しげな、と同時に幸福そうな表情を、サラはその後決して忘れる事が出来なかった。今、彼等は臆する色もなく互いの目を見詰め、唇を近付け、声音は聞き取る力もないままに願うのはキス、雨降るようなキス、寄る辺ない二つの魂の休息、幸福、二人切りの僥倖──しかし、その小さな部屋、思い出の詰まった部屋にいたのは、当事者である彼等だけではなかった。幸福への道を歩んで行こうとする彼等を阻む部外者、それも二つの魂があり、禁じられた束の間の逢瀬に侵入して来たのだった。灰と深緑の虹彩が混じり合った瞬間、プリドーの利き手にあった拳銃が弾き飛ばされた。彼が辛うじて感じ取っていた周囲の気配は微塵も細波を立ててはいなかった為、床を滑っては壁に衝突する鉄の塊を見るまでは、それが何故飛んで行ったのか皆目分からなかった。しかし、利き手の甲には強烈な痛みが忙しなく走っており、彼は咄嗟に視線を部屋の入口の方へと向けた。誰かが殴った、と理解する事が出来たが、気配を消す事に長けた人物はまた新たな一撃をプリドーの米神に与えた。それは人間の温かみのある拳で殴られたのではなく、無機質な感覚であり、痛みさえも鋭く冷たいものであった。彼が微かな視界でその姿を捉えるまでに、その人物は彼の胸倉を掴むと、まるで人形の如くその巨体を硬い床に叩き付けた。宙を舞い、天井が丸いものと成り果てた景色が、サラットでの訓練を彼に思い出させた。案の定、次に訪れたのは手の甲の痛みとは比べものにならぬものであり、右肩が弱点である事を知っていたその人物は、彼のその部分の真上に手の平を置き、ぐっと全体重を掛けた。その簡単な動作一つで彼の抵抗力は消滅してしまい、外部へ顕になったのは苦痛に耐える唸り声だけであった。サラは名状すべからざる苦悶に胸を締め付けられたが、プリドーに瞳を転じる事は出来なかった。それは彼女にとっての脅威であり憧れであるガラハッドから、恋心より彼女を監視する事となったハートから視線を逸らす事が出来なかった為である。掟を破ったキングスマンに対する憤怒と軽蔑の色が其処にはあった。しかし、更に経験に富んだ目ならば恐らく、この思い掛けぬ部外者の、相変わらず精力的ではあるが窶れの見える姿に、心の動揺の印を見て取った事であろう。床から立ち上がった彼女は、哀願するような眼差しを脅威に投げ掛けた。彼女の背後にはプリドーの拳銃があった。
「ヘレネー、君の口が堅い事は我々も重々承知している。君はプリドーに撃たれたとしても、何一つ秘密を漏らさなかっただろう。だが、重要なのは其処ではない」
ハートは変わらずサラに視線を送り続けたが、意識は四肢が押さえ付けている男に向けていた。恐らくこの男は彼女に合図を送っている事だろう。先程自分が弾き飛ばした拳銃が彼女の背後にある為、この男はそれを使うように訴えているだろう。もし自分がこの男の立場であれば、そうする。そして、彼女が本当に君を愛しているのであれば、そうする。しかし、彼女は、君が愛した彼女は平凡な人間ではない。嘗て君が見付け、恋に落ち、心乱れる程に恋焦がれた彼女は、今まで君が見て来たような人間ではない。君のこんな有様を見ても尚、身動ぎ一つしようとしないのは、彼女はもう既に私の成すであろう行為を見抜いている為なのだ。また、秘密裏に動く我々が何故、君達の前にわざわざ姿を現したか。それはサラに、完全なる忘却というものを知らしめる為だ。それにはあの便利な化学薬品なんぞは不要であり、この行為には彼女に心理的打撃を与える事が出来る。即ち、二度と、金輪際、我々ではない外界の人間に対し、恋や愛やらの下らぬ感情を持つ事のないよう、心的外傷を与える事が出来るのだ。化学薬品は所詮、一時の忘却に過ぎない。愛を忘れても、軈ては新たな愛がその心に芽生える。この処置をマーリンは余りにも残酷だと非難をしたが、私はそうは思わない。こうなったのは全てサラ、君が引き起こした事だ。君がこの男に接触を図った為に、我々は動かざるを得なかった。君がこの男を愛した為に、我々はこの処置を施さざるを得なかったのだ。ハートは自分でも、これ程までに怒りを覚えた事はなかったように思われた。血管の浮いた手が震え、常に生気のない琥珀色の目が燃え上がっていた。
「きっと君は理解する。時間は掛かるだろうが、その為には必要な事なのだ」
君は私をある種の脅威と見ている事だろう。君が忌み嫌っているあの厳格な王は命令を下すだけで、実行するのは我々騎士である。また、他人の感情を顧みる事なく、正しいと思われる判断を躊躇なく下す私に、愛は無縁のものと見ている事だろう。しかし……実際はそうではない。私という人間をこの部屋へ導くには、尋常ではない行為をやり切るには、何としても事実が必要であり、何としても本物の直感的な閃き、本物の情熱或いは完全な詩的同化が必要であった。君に対する愛情そのものが必要であったのだ。さもなければ、それは上手に事を運べないばかりか、もしかすると醜悪な、何やら恥知らずなものとも見え兼ねない。情熱的な感情のみで、これ程にも張り詰めた力を表現しようとすれば、良心の呵責という反駁を招き兼ねない。しかし、真実と純朴さがあれば全てが救える筈だ。全てが。これは単なる嫉妬ではないのだ。他人に対する愛情を、私は自分のものと出来なかった。周囲の人間のように愛情の扱い方というものを知らなかったのだ。 ところが今、ハートがこの薄暗く狭いフラットへ足を踏み入れた最初の一歩から、本物の直感的な閃きが彼の心の中で燃え立ち、魂を震わせていた。愛情の一言一言により、感情が愈々強く、愈々大胆に弾け顕になり、新しき恋敵を打った時には情熱の叫びまで聞き取る事が出来たのだった。やはり、やはり私は君を愛している。尚も彼はサラに目を向けながら、愛の最後の言葉を言ってやりたかった。それにも関わらず、彼女はその場に立ち竦んだまま、口を利く事をしない。騒ぎは静まらず、自分の愛を拒絶するような灰色の明眸に彼の苛立ちは激しくなっていった。自分の体重を床との間で支えているこの悪魔を、彼女の眼前で何度も殴り付け、その事で覚えるであろう異様な快感に対する羨望も中にはあった。ハートの心臓は自分の行為に対する恐怖と苦痛で今にも止まりそうになったが、実際は、この心臓の止まりそうになった事実の中に快感があったのだ。彼は激怒した余り、銃弾の的となった右肩を浮き出た手の甲の骨で抉るようにし、憤りと恐怖に精神錯乱の懸念も感じられたが、其処にはやはり無限の快感があり、もはや度量を鑑みる事もなく、悪魔の悲痛の声を聞きながら、怯えるサラの顔を依然として見詰めながら言った。彼はこうした事を一切、破壊したかった。
「私は自分で、訣別しようとしたの」
「そうは思えない」
「サラ、俺を見ろ」
プリドーはその人物からサラの意識が離れるよう叫び、熱病宛ら光に燃える目を彼女に注いだ。酷い仕打ちをした彼女に対し、まるで恋人に呼び掛けるように言った自分に、その人物の力が更に加えられたのを感じた。此奴は一体何者だ?君にとって、君の人生に於いて一体どんな位置を占めている。此奴は俺ではなく、君に罰を与えに現れたのか。遂に彼女と眼が合った途端、彼が全く予想しなかった事だが、彼女は不意に白布の如く唇まで蒼褪め、眼が何か特別な光を放った。サラと会う事が叶わなかった間にも、その精神の内部にある種の操作が行われていた事は疑いもない。何故なら、次に一緒になる時には必ず新たな驚きを味合わされ、彼女から自分を隔てている闇の層の薄くなったのが感じられた為である。温む空気と春の根強い営みが次第に冬に打ち勝って行くのも、やはりこれと同じなのだと彼は考え、また、想起される彼女の微笑に彼は幾たび心を騒がせ、雪の解けて行く様に、幸福に幾たび目を見張った事だろう。サラ、君を捉えている世界がどんなものかは俺は知らない。だが君が、少しの勇気を見せてくれさえすれば、この右側が一生使いものにならなくなろうとも、残った左側で俺は此奴の首を捻じ曲げる。君が無上に恐れているこの男を、君の弱味を知るこの男を、君から永遠に遠避ける事が出来る。いや、それだけではない、この男の背後に佇み息を潜めようと努めている、もう一つの卑怯な男についてもだ。彼女の視線は、プリドーと同様の色を持ったマーリンへと転じられた。彼の管理下であるフラットであるからか、彼は部屋の中へ入ってすらおらず、半ば放心状態で廊下に立っていた。ハートを此処へ連れて来たのは他でもないマーリンである事は、サラには分かっていた。彼は自分がターゲットの事を忘れられないでいる事に気が付いており、また彼は、自分が密かに、プリドーがあの後どうなったのか調べている事を知っていたのだ。正にカインを追う神の目の如く密かに、自分のみならずターゲットをも監視し、我々が実行に移すまで沈黙していたのだ。そして、彼だけでは自分とプリドーを相手にする事は不可能であると踏むと、戦友であり恋敵であるガラハッドを連れて来たのだ。この処置を愛と捉えている彼を、マーリンは連れて来たのだ……。サラは自分を見詰め続ける彼を、悲しげな、厳しい刺し通すような眼差しで見た。私を愛しているのなら、ガラハッドを止めて。貴方が望むものなら何だってあげる、私の名や私に残された時間を望むのであれば全部あげる、だから彼を止めて。魔術師の目、誰よりも洞察力に長けた目を持つ男は、彼女のそんな心情をも容易に看取した。しかし、彼はその場より一歩前に出る事すらせず、寧ろガラハッドの無防備な背後を守るようにして立っていた。マーリンはその訴えるようなサラの眼差しを浴びながらも、それに応える事をしない自分自身に戦慄していた。いつも彼は周囲の感情を先に読み取っていた為に、自分の感情は自覚する事なくその中に埋もれていた。このようにまざまざと嫉妬に駆られた心を意識したのは殆ど初めてであり、またそれを促したのは他でもない彼女であり、また彼女を虜にしたプリドーに、今まで抱いた事のない熱を感じた。この処置を提案したガラハッドに非難をしたマーリンであったが、彼が口に出すよりも先にそれを念頭に置いていたのはマーリンであり、またこのようにガラハッドを利用したのもマーリンであり、また自分に酷い仕打ちをし続けたサラを同様にして苦しめようとしたのもマーリンであった。君にとっての悪魔、また睡魔であるこの男が憎かった。君の愛を勝ち取った男、信念や親友を失い、生きる希望も殆ど潰えたにも関わらず、今も尚、変わらずに君の愛を向けられている男が無上に憎かった。もしかすると、この先は長い茨の道に成り果てるかも知れない。君はこの男を忘れようと努め、一方でこの男は君の名すら覚えていない。だが君には私がいる。勿論、私は君の名や君に残された時間が欲しい。望んでいたものは正にそれだった。だがこの男が君の事を覚えている限り、君の事を愛している限り、それらはこの男のものなのだ。どうか許して欲しい、君がこの男を愛したように、私も君を愛しているのだ。
「──君が、こんな男を愛するとは思ってもみなかった」
『来週は会えないが、寂しいか?』一つの情景が脳裡に浮かぶと同時に、それを覆い隠すように涙が溢れた。思い出に触れる事により張り裂けた心臓、その心臓からは何かが引き千切れ、心が震え慄いた。力んでいたプリドーの身体が脱力し始め、サラだけを見詰めていた豊かな色の目──何かしら崇高な、自分の世界観などでは到底窺い知れぬ境地であるかのように感じた、玲瓏たる目がゆっくりと閉じられた。二人の思い出、二人の愛が闇へと消えて行く。それらはこの先二度と、闇の中で煌煌と輝く事もなければ、一つの光芒の影すら浮かぶ事もない。ハートは左手首の時計をカチッと操作し、彼女に無表情の一瞥を投げては、先程までの頓着を急激に失ったように部屋を辞した。サラは蹌踉とした足取りで嘗ての想い人、プリドーの元へ寄り、これがなかったら困る、と言って渡してくれなかった上着にそっと触れた。何としても留まらせたかった。不安を拭い切れぬ頭で、出来る事なら無事で此処に戻って来させてあげたいと真摯に思った。彼を自由にしてあげたい、彼が身を置く世界から抜け出させてあげたい。何が何でもこの世に、自分がいる世界に彼を留まらせたい。しかし、終始其処から抜け出そうとしていたのはプリドーではなくサラであったのだ。マーリンは一歩、また一歩と近付き立ち止まった。彼は突っ立ったまま、一、二分の間じっと目を凝らして見詰めていた。彼女の冬の湖のような瞳からは涙が流れており、絞められていた首は青と灰色の抜け殻のようだった。彼は亡霊の如く転がっていた拳銃を拾うと、密かに腰にそれを隠した。その間、二人は一言も口を利かなかった。彼女の心臓は激しく打ち、その鼓動は死のような部屋の沈黙の中で聞き取れるかと思われるばかりであった。以前の晴朗な輝き、それを取り戻す事は出来るのであろうか。記憶を喪失した犠牲者は、恐らく取り戻す事が出来るだろう。しかし、魂の半分を喪失したこの凋落者は──ジェイムズ・プリドーと共にいた、苦しみに満ちた無限の歓喜、苦しみの帯を締めた幸福の日々は無に帰した。その後には……言うに言われぬ暗黒の時。

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