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Surrender



犬でさえ聞き取る事が難しい程、この世界では愛憎の音域は超越する。最後に残るものは嘔吐と虚無のみ。二度とそんなもので苦しまないようにする事だ。二度とな。愛憎に詩を読み、幻想を抱く事が許されるのは一般人、何も知り得ぬ凡庸のみ──騎士の感情を顧みる事のない王の一瞥が自分に注がれる。躊躇のない固定された冷たい眼差し、低い厳かな声、身振りを一切しないよう組まれた手。両親の罪を知る王、裏切りの鼓動を打った二つの心臓を止めた王。感情に支配される騎士、咄嗟に英断を下す事が出来ない騎士をこの世の何よりも忌み嫌う王。そして、継承した爵位を通してしか自分という存在を見ず、それ以外は全きの汚点と見做す王。両親同様に裏切りの鼓動を打ち、其処から流れ出た血が全身に回る猜疑を抱いており、魔術師に監視令を下した王。血筋を正鵠と信じて止まない王。プリドーが任務で失敗をしたと聞かされた時、私は何を思った?相当悩んだのではなかったか。彼を取り巻く人々、管理人やサーカス幹部に対する憎悪、彼に対する愛情、そして身動きの取れない自分の身体へ打撃を加えるような不快感。それを私は、つい先程味わったのだ。確か私は夜に、一晩中何処かを歩き回ったのではなかったか。本部を抜け出し、彼を想いながら、ロンドンの夜の街を歩き続けた……いや、これは本当の、正しい記憶だろうか?どんな風にその散歩が終わりを告げたのか、さっぱり覚えがない。私一人だったのだろうか?いや、誰かの気配を直ぐ傍で感じた。大きな体躯の、鍛えられた、運動好きの身体。私達はまるで逃げ出すような慌ただしい足取りで歩いた。その誰かは、私の腕をぎゅっと小脇に抱え込んでいた。私は魂が抜けたようになっていて、道に石ころが一つあっても転んでしまいそうになっていた。何処から何処までが本当の記憶か、今では分からない。ただあの静かな息遣いは彼、プリドーのものだ。夢であったなら尚、彼のものだ。全て彼のもの。彼は優しいから、私以上に弱っている自分自身の事を顧みず、私の身体が崩れないようにしてくれた。あんなにも近くに居たのに、彼は何処に行ったのか。そして、私は未だに、此処に縛り付けられている。サラは戦慄が足先から上って来るのを感じ、縮んだ心臓に到達する時には眼を覚ました。彼女は自分が本部のベッドに横たわっている事を知り、また、向かいのソファーにはラップトップを相手にしているマーリンの姿を捉えた。ガラハッドが見当たらない事は、彼女にとって細やかな救いであった。残念ながら腕を掴んでいたのはプリドーではなく、ガラハッドであったのだから。
「君は一時間程度、眠っていた」
「貴方はずっと此処に?」
「報告書を纏めないといけない。後、試験の採点も」
車のスピードメーターを確認する頻度に殆ど等しい間隔でサラを確認していたマーリンは、彼女の意識が浮上したのを直様看取した。それと同時に、罪の意識が齎す怯えをもその表情に落としながら、彼女に水の入ったグラスを差し出した。眠らされていたとは言わずに、彼は戦友を庇う。また、戦友にあのような処置をされた彼女に、彼は付き添う。自己犠牲型の人間。彼女は水を咽喉に通しながら、彼のその痛みの表情を見上げた。貴方の戦友は私を傷付けるけれど、私は貴方を傷付けている。異邦人である私が此処英国に来たその時から、不信感を抱いていたアーサーは貴方に監視令を下した。貴方は他のエージェントよりも特に私を厳重に見張っている。貴方の言う恋心から益々そうなっているのかは知らないけれど、貴方達は、貴方とガラハッドは私を愛してなんかいない。愛してなんかいない。サラの僅かに歪んだ顔を、マーリンは見逃す事をしなかった。プリドーではなく、別の事に気を取られている彼女は、苛立ちを抑える為に震えた溜息を返した。あの秀麗で憧れの的である男、ハートは彼女の心にのみ苛酷な暴君となっていたのである。
「サラ、ハリーに悪気があった訳ではない」
「そうね、悪いのは全部私」
サラは小さな針が刺さった首筋を手で押さえた。マーリンはハートの意図、彼女にそのような事をした意図を打ち明けようかと思った。直接、彼の口から聞いた訳ではなかったが、彼の心情は然程複雑なものではない。いや、寧ろ本人が自覚するよりも先に、マーリンが理解する事だって可能であるかも知れなかった。ハリーは全て愛だと思っているのだ。君があの部屋から去ろうとした際に君を呼び止めたのも、プリドーの元へ行こうとした君を気絶させたのも、全て愛であると思っての行為なのだ。君には到底信じ難い事だろうが、事実ハリーは君を愛している。君を、愛しているんだ。マーリンは何とかそれを伝えようとしてみたが出来なかった。総崩れとなった彼の論法の退却を告げる太鼓の音宛らに、彼の心臓は激しく鳴っていた。これから始まるこの会話のやり取りが、二人の内の何方にとって、より苦痛であるかは予測する事は出来ないが、こうなってはもう先を続ける他はなかった。
「エリス……彼はどうなったの?二度と彼を探したりしないから教えて」
サラは悲しげに、心の底を打ち明けるように話し出した。そんな声を、増してや彼女自身の固く閉ざされた心を、マーリンに打ち明ける事など今まで一度もなかった。『貴方は人を愛した事がないのよ』と彼女は自分に言い放った。躊躇のない、それが事実とも信じないような蔑んだ口調。何故そんな事が言える?私はこんなにも君を愛しているというのに。しかも、君はその事を知っているにも関わらず……それを私の弱味として利用するのだ。君はこれまで、私がどういう人間か知りたいと思った事はないのか?友情だけは持ってくれているのか、この私に対して?耐え難い、プリドーの元へと舞い戻るサラの姿。彼女の心に過去に於ける憂鬱な思い出を呼び覚まし、それらを鎮め、人間に与えられた全きの幸福というものに取って代わらせる事が出来た男。不意に彼女の一切を覆っていた闇を破り、その瞬間、これまでの生涯をもそのありと凡ゆる明るい未来の喜びで包み、彼女の眼前に浮かばせる事の出来た男。彼女にとってたった一人の男。本当の名も身分も明かせぬ男が見せ、また与えた一時の幸福。彼女にその心を開かせた男。君は知らない、君は私のこの心を知る由もない。君があの男と会う度、私の中にある何ものかが死ぬのだ。全きの静謐の中で死ぬのだ。君は知らないだろうが。マーリンは身震いが出た。ある種の恐怖で心が凍る思いがし、サラの意識を他へ逸らさなければならないと思った。
「それは出来ない。すまないが」
「友人の頼みと思って」
「知ってどうする。知ったところで君は何も出来ない」
サラが利き手を差し伸ばした。マーリンはその手に、人殺しの手とは思えない淑やかな手に、瞳を転じる事をしてはならなかった。その手を見る事なしに、その手から逃れる方法を取らなければならなかった。しかし、魂を苦衷の中に落とされながらも恋焦がれた相手のその手から、抗う事は出来なかった。彼女の手は彼の腕をそっと掴んだ。貴方が唯一の頼みなの、と言っていた。何故自分は抗う事をしない。巫山戯た事を抜かすなと怒鳴り散らして、その手を払い退ける事がどうして出来ない。その手が腕ではなく、自分の心臓を掴んでいるようにマーリンには思われた。ジェイムズ・プリドー……君の愛人は今、サースグッド校で教鞭を執っている。相変わらずの運動好きで、欠かさず朝にウォーキングをしており、クリケットの職員対抗試合では大活躍したらしい。そして、突然思い立ったようにふらりと、週末には君を探しに行っている。ボンネットが凹んだ中古車で、わざわざあの界隈まで運転している。しかし、彼はいつになったらボンネットを直すのか?エンジンオイルを交換した際に、ついでに修理すれば良かったものを。痛む身体が我慢出来なくなれば休憩し、車内で軽食を取りながら時々茫洋と遠くを見ている……彼は今でも、歴とした君の愛人だ。君が彼を愛しているように、彼も君を愛している。学校に一人、彼の庇護者たる生徒がおり、その生徒は訣別した親友の成り代わりになりつつある。しかし、君の成り代わりは何処にもいないらしい。君は彼にとって……いや、彼にとっても、唯一無二の存在であり、君は彼を現実世界に繋ぎ止める存在であったのだ。プリドーがサラを探そうとする気になった事が、マーリンには悲しかった。その気持ちを痛烈に理解する事が出来た為である。白いものが混じった髪、拷問で硬化した身体、そして痛みと共に思い出される現在の境遇。プリドーが足を踏み入れ掛けていた愛の世界、そして過去の波打つ靄の中から浮び掛けていた夢の世界が、ゆらっと揺れて──消えてしまった。マーリンはすっかり消えてしまえば良いと思った。サラ、何しろ今の私は、もし君を助ける事が出来ないのであれば、寧ろ死んだ方が良いと思える。君を助ける事が出来なければ、君の境遇を楽にしてあげる事が出来なければ、サラ・バラデュール、私は直ぐにその場で死んでしまうだろう。ところが、君を助けてしまえば、君は小鳥が巣立って行くように、私の手元から飛んで行ってしまう。この事が、私を苦しめているのだ。プリドーへの愛が、サラの口から囁かれようとしていた。我々三人共の運命が掛かっているその一句を、うっかり其処から誘い出しては駄目だと、マーリンは気が気でなかった。また、闇の底に沈むような思いさえした。彼女の心臓が希望に満ち掛けているというのに、彼の心臓からは血が滴り落ちていた。しかし、彼女は何も言うまいと心に誓いでもしたように、堅く唇を結んでいた。彼女を自分に繋ぎ止める事の出来る言葉を一つも思い付かず、彼は沈黙に耐え切れなくなり言葉を続けた。
「……出来ないよ」
何故君はプリドーを愛したのだ。哀れであるからか。サラの灰色の眼が伏せられた。翳りが深く、晴れる見込みはない。マーリンの胸は打ち勝つ事の出来ない名状すべからざる陶酔に誘われ、奇しく震え始めた。どうか信じて欲しい、サラ・バラデュール、君が例えどんな事をしようと、それで例えどんなに私が苦労しようと、私は一生涯君を愛する、崇拝する──彼は、その言葉を聞き、素早く自分の方へ向き直った彼女をひたと抱き締め、無辜なキスを彼女に与えたかった。自分の誓いに心を揺るがす彼女が欲しかった。束の間の恋を忘れ、プリドーを忘れ、彼女を想うただ一人をその心に留めて欲しかった。たった一日、いや、たった一時でも良い。君が私に心を向けてくれさえすれば。マーリンはその手を取り、凡ゆる苦悩から救い出したかった。サラを一目見た時の事を、彼は忘れた事はなかった。恋を罪悪と見、罪悪は全て魂の重荷になるものと信じていた彼は、自分の魂が圧し拉がれないのを見て、それが恋とは思いも及ばなかったのである。そうする内、彼女の全身全霊を貫いて輝き出る無上の幸福は、彼女が罪を知らぬところから来ており、彼女の内には光明と愛があるばかりだ、と見るようになったのだ。昔、マーリンの燃えるような求道心の現れを見る度に微笑んだサラ、一層の事、自分の生活にぴったり合体させてしまおうかと彼が夢見た彼女、自ら先に立ち彼を光明へと導くように見えた彼女──あの天使宛らの姿を、今の彼女に見出そうとするのは正しく容易な技ではない。彼女の初めての微笑は、彼のありと凡ゆる煩いを慰め、彼の苦労を百倍にして償った。あの彫刻宛らの顔に浮かんだ微笑は、他のどの微笑よりも、彼の胸を清らかな歓喜で満たした。この人の為ならば何だってする。この人が幸福に生き、誰かを愛し誰かに愛される為なら何だってしよう。そう思っていた筈ではなかったか。いつから彼女は自分の所有物となったのだ。所有という言葉程、忌み嫌っていたものはなかった筈だ。それとも、あの頃の自分は恋に目が眩んでいたのだろうか?幸福な魂が愛の放射によって、幸福をその身の周りに振り撒くのと同様、彼女の周りでは何もかもが暗く陰気になった。ハートならば、彼女の魂は黒い光を放つとでも言うだろうか。しかし、マーリンが救いの手で持って掴もうとした手は、ベッドの表面へぽとりと落ちた。部屋を辞する際に一瞬、彼はサラを見詰めたが、焦点を結ばぬ視線は彼を通り抜け、人体ではない、何か別種のものに向けられているようであった──彼等は実は既に眠っていたのであり、そしてこの期間、全部が長い眠りに他ならなかったとすればどうであろう。空間には目蓋を開けた睡眠者の群れが充満し、これらの人々が現実にその運命から抜け出す事といえば、時折夜中に、一見癒着したような彼等の傷口が、突然再び口を開ける時だけであった。そして、はっとして目を覚ましながら、一種の放心したような気持ちで、その疼く傷口に触れ、一閃の内に、突然清新さを取り戻した彼等の苦悩と、それに伴い、彼等の愛の掻き乱されてしまった面影とを再び見出すのである。朝になると、彼等は再び天罰へ、即ちお決まりの習慣へ戻って行くのである。しかし、果たしてそれが出来るであろうか?

Sarah McLachlan - Sweet Surrender