×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

Visor’d



英国へ帰還次第、何としてでも会いたい。会わずには居られないといった、あの小さな存在への想いがプリドーの胸に沸き立った。平凡な生活に対する揺るがぬ堅実さ。子供を一人の人間として見ながらも、厳格さを実行する事はなく、また、寧ろ却って濃密にさせる、サラを押し包む従容な印象。子供達の目を通してのみ分かる、そんな不思議な彼女の優しさ。何としてでも会いたい。何も知る事なく、ただ自分を待つ彼女の元へ。自分が眼前にいると見詰める事を余りしないのに、フラットの窓から自分を探す眼差しには遠慮がない。英国の不機嫌な厚い雲のような灰色の虹彩、日が差すと銀色の宝石宛らに燦然と輝く魂の色。高潔の色、二人の未来。自分には一度も許されなかった些事への関心。帰国し、何としてでも会う必要がある。それは、本当の自分に会う事と同様の意味を持つのだ──血潮は体内で滾り立ち、胸は疼き、此処英国の地で起こった凡ゆる事を思い出しても、むずむずする程に甘たるく、滑稽な程であった。プリドーは絶えず何ものかを心待ちにし、絶えず何ものかに怯え、見るもの聞くものに心を躍らし、全身がこの姿勢にあった。空想が生き生きと目覚め、常に同様の幻の周囲を素早く駆け巡る有様は、朝焼けの空に燕の群れが鐘楼を巡って飛ぶ姿に似ていた。彼は物思いに沈んだり、塞ぎ込んだり、時にはサースグッド校の教会で跪いては涙を溢さぬよう、目頭を指で押さえて泣く事もあった。しかし、与えられた新しい人生に於ける響き高い悩みや、或いは夕暮れの美しい眺めによって、或いは涙が、或いは哀愁が唆られるにしても、その涙や哀愁の隙から宛ら春の小草のように、若々しく湧き上がる生の喜ばしい感情が、滲み出すのであった。それはフランス語嫌いな生徒達、だがプリドーを慕って、大きな体躯を囲みに掛かる生徒達が齎してくれた光であった。過去には存在しなかった光が、今や傷付いた彼の心を暖かく照らし出していた。これ以上何も望むまいと思う昼、そして、サラを望む遣る瀬無い夜。そうして感情を何度も殺す内、すっかり耐性が付いてしまい、心中で殺す事が困難となり、寧ろそれは身体の痛みとなって現れ始めた。右肩の痛みとは全きの別物であったにも関わらず、何故かその痛みが引き金となり、銃弾が細胞に齎した細波が再び立つのである。アルコールで治る夜もあったが、特に週末には痛みが激しくなった。遂には耐える事が出来なくなり、プリドーはあの酷く懐かしい界隈、彼女と出会った、静謐で欄干たる空の下へと車を走らせた。彼女の手により小さな名誉の傷を負わされた車は、主の追憶の旅へ付き合う事に機嫌を損なう事はなかった。相変わらず乗り心地は悪く、主の肩の痛みを助長させたが、心の痛みだけは軽減させてくれたように彼には思われた。また、助手席に収まるサラの笑い声。彼女の煌めく明眸、馥郁たる香り、血の通った言葉さえも思い出された。
一向に変化を遂げていない街の様子を眺めながら、プリドーはかの不安と称せられる、未来に対する仄かな胸苦しさが身の内に湧いて来た。地下情報網の諜報員が全員射殺された事に対する多大な自己嫌悪。裏切り者の親友を許し、呼吸させ続けた事に対する自己欺瞞。それらが齎す陰惨な生命力。この生の惨めな結末を思うと、決まって彼は癒し難い無気力に襲われた。死がもう間近であるのに、死が絶えず付き纏っているのに、これ以上頑張ったところで何の意味があろうと彼は思った。しかし、その度に半ば強引に彼の手を掴み、上へ上へと引き上げる存在。太陽の傍へ来るまで、彼の魂を掴んで離さない存在。決して彼を見捨てはしない存在。遠い灰色の影が、記憶の中に存在し励まし続けたサラが、彼を促すように見えた。何としてでも会いたい、何としてでも失う訳にはいかないもの、嘗ての想い人。サーカスと共に忘却しなければならぬ想い人。プリドーは車を路肩に駐車させると、あの川沿いを歩き出した。英国へ帰還するまでに幾度となく想起した景色が、そのままに彼の双眸に映った。負傷し、車内まで担架で運ばれた時にほんの一瞬感じた、夏の夕べの香りと色。護送車の薄闇の中で彼の愛する一つの街の、また、時折彼が楽しんだ一時のありとある親しい物音を、疲労さえも感じなくなるその時まで、一つ一つ大切に味わった。既に和らいだ大気の中の、川のせせらぎ。公園の中の最後の鳥達。サンドイッチや新聞売りの叫び声。街の高みの曲がり角での、電車の軋み。街の上に夜が下りる前の、あの空の騒めき。こうした全てが、プリドーの為に、盲人の道案内のようなものを作り成していた。それはあの事件以前、彼の良く知っていたものだった。そうだ、ずっと久しい以前、俺が楽しく思ったのはこの一時だった。俺を待ち受けていたものと言えば、相変わらず夢も見ない、軽やかな眠りだけだった。しかし、あの地では全てが変わっていたのだ。数秒先への絶望と共に、俺が再び見出したのは自分の独房であり、恰も夏空の中に引かれた親しい道が、無垢の微睡へも通じ、また獄舎へも通じ得る、とでも言うような。
サラの閑散としたフラットもまた、変わらず其処にあった。他所の子供の遊び場である仄暗い階段を上り、彼女の部屋の扉の前に立ったが、何かがおかしかった。再会に躊躇いがちの自分が扉をノックし、中から彼女が出て来ては言葉を失い涙する。そんな彼女を、肩を痛めながらも自分は抱き締め、彼女の額と頬にキスの雨を降らせる。何度も何度も……。思い描いていたそれらの想像は、忽ちプリドーの中で消え去った。部屋は空であった。何一つない、家具もカーテンも。其処には虚無だけがあった。彼の記憶には鮮明に残っていた物が本当に其処にないのか、将又拷問により衝撃を受けた頭が幻覚を見せているのか、暫く見当が付かなかった。彼は確かめるように狭い部屋の中を歩いては、忽ち眩暈が彼を襲い、何度も壁に手を付いた。自分の来訪を告げ鳴らした扉の音、階段を上がる自分の足音の事を思っただけで心臓は止まり、でなければ、胸が苦しくなって来た──此処はこんなにも小さな部屋だったのか。プリドーはふと思った。しかし、彼には此処が楽園宛らに思えたのだった。此処にはサラと彼の二人切りで、神に祈る人間と安らう人間がおり、彼女は彼を此処に連れて来ては、その胸に彼をひたと抱き締めた。其処には嘗て彼が母親から受けたような安堵と暖かみがあった。この場所はちっぽけなものだが、外にある冷酷無情な世間から彼を守っていたのだ。この隠れ家と優しい眼に守られている間、彼は何も気にせずにいる事が出来た。彼等の心同士が触れ合い、息と息が溶け合っていた為に。
蹌踉としたプリドーがあの窓辺へ向かおうとした際、凹凸のある床が彼の靴先を引っ掛けた。耐え難い肩の痛みに唸りながら姿勢を低くして見れば、小さく型取られた床の一部が外れていた。しかし、それは故意に外されていた事が分かった。中の隙間に左手を入れると紙がしなる乾いた音が立ち、注意深くそれを引き抜いた。まるで自分の心臓を身体の内から引き抜くような感覚に思われ、また、今から手にして覗き見るものは、自分か或いは彼女の心であるという事を明瞭に意識をした。『今すぐ帰ってきて』──殆ど皺のない綺麗な紙に宝石細工のような文字。サラの筆跡、彼女の息遣い。彼は何度も繰り返し読み、彼女と一緒にそれを読み返しているような気持ちになった。プリドーは我を忘れ、右肩を動かさずに座ると、不意に自身の息を殺した。彼女との思い出、一連の想起が彼の胸に迫った。また、彼の恋に対する想念に突き当たり、筺底がひやりとした。彼女の怜悧な顔が眼前の闇の中を静かに漂っていた。漂ってはいたが、漂い去りはしなかった。その唇は相変わらず謎めいた微笑を浮かべ、眼は少し横合いから物問いたげに、考え深そうに、優しげに彼を見守っていた……別れたあの瞬間とそっくりそのままの眼差しだった。君は何処にいる。君が望んだ通り、俺は此処へ帰って来たというのに。軈てプリドーは、一刻も早くこの場所から逃れたいという気持ちになり、痛む右肩を摩りながら、曲がった背中を前へ前へと移動させた。激しい動作によって、身の内に満ち始めたものを驚かせ、刺激しないよう配慮する事に精一杯であり、彼はそれが心配でならなかった。涙が其処まで来ていた。痛みを消し去る為の行動は、却って痛みを助長させる事となり、悔しさで心が劈かれた。君はいない。何処にも。こんな物を置いて、俺を置いて何処かへ行きやがった。滲み出た汗が米神から垂れ、顎まで伝わって虚空へ落ちた。嘗てベッドがあった場所、嘗ての幸福の場所を激痛の中横切りながら、疲労の為に半ば閉じた目で一瞥をした。其処には昔の彼等がいた。サラの少し汗を含んだ髪に指を通しているプリドーと、海の色をした彼の目を見詰めている彼女。耳にはっきりとした愛を囁く事をせず、代わりに相手の胸に自分の名を深く刻んだ二人。秘めた事実、固めた嘘、それらを凌いで一切の輝きに満ちた薔薇色の歩み。同時に脈打った二つの心臓。君の白い肩を俺は覚えている。君の肩を竦めて笑う声も。低い笑い声がゆっくりと込み上がる君の白い肩。彼はそれらを振り切り、しかし訣別は出来ずに、階段を走って降りた。俺があれ程に羨んだ現実世界なんてものは何処にもなかった、最初から何処にも存在しなかったのだ!太陽は変わらずプリドーの頭上にはあり、生きとし生けるものを平等に照らしていた。しかし、そんな中を悲愴と苦衷と共に歩くと、その光は無言の内に彼に向かって、自分は分別のある人間を照らすように出来ているから、馬鹿者や敗残者の顔を照らす事は出来ない、と言っているように思われた。直ちにサースグッドへ戻るべきだ、もうサラの事は思い出してはならない。彼女との恋についてはもう二度と、思い起こしてはならない。それは余りにも辛い、自分にとっては余りにも酷い仕打ちであるからだ。これらの思い出は自分の懐奥深くに、二度と触れる事のないよう仕舞う必要がある。それは例え夢の中でさえも……大いなる愛の対象を持てど報われる事はない。事実、俺は報われた事など一度としてなかったではないか。
中央の大通りも、いつもの雑踏は見られなかった。幾らかの通行人が遠い住居へ急いでいるだけであり、神が罰を下してか、誰一人、笑い顔を見せている者はなかった。プリドーが宛ら最後の審判への道のりを順調に進んでいたところ、傍らに一度のみならず、何度か見たある家が現れた。それは過剰な自己防衛が彼にさせた尾行のある一つの地点であり、家庭教師だったサラの収入源の一つであった。唐突に湧き出た小さな希望を追い払う事は出来ず、殆ど無我夢中でその家へと足を早めた。その中から見知らぬ女性、家庭教師と思しき女性が出て来るや否や、彼は軍隊調の大声で呼び止めた。勢い良く振り返った女性はサラと同じ年頃に見えた。無上に懐かしく、また彼女が無上に恋しくなった。しかし、そんな名前の人は知らないと、その女性は嘘偽りない表情で言った。
「恐らく名字が違います。引き継ぎの際、前任者の名前をちらっと見たのですが、そんな名字ではなかったように思います」
「『そんな名字ではない』とは?」
「聞いた事もない珍しい名で、どう発音するのかも分かりません」
「スペルなんかも思い出せないか?」
「すみませんが、何も」
「いや、ありがとう。ところで君は何を教えている?フランス語か?」
「いいえ、フランス語はとんと駄目で」
つまりこの瞬間に、次の生徒の家へと向かう女性の後ろ姿を見届ける中で、プリドーは自分の抱える秘密、自分とサラを隔てる壁に何処か出口を見付けようと全力を傾けていた為に、終始その間、彼女の抱える秘密、ある意味で本当の彼女というものを見ていなかった、という事に気が付いたのであった。しかし、同時にまたこの瞬間に、全ての道が再び塞がれてしまうと、またしても自分の願望の中心に彼女の姿が見出され、しかもそれが実に突如たる苦痛の激発を伴ってやって来た。以前の頑健な彼であったならば、凡ゆる方法を採ってこの無惨な痛みから逃れる事が出来たかも知れない。しかし、今の彼には、チェコ産の銃弾を数発受け、曲がってしまった背中ではそれは出来ない。だが何れにしろ、その痛みは何処までもプリドーに付いて来て、彼の米神を締め付けた。やはりサラの元へ行くという自分の考えは尤もだ、そうでなければ、自分には何か残るものがあるか。この激しい苦悶の中にあり、今これ程に君と共にありたいと祈り訴えた事はない。彼は当ても無しに川沿いを、嘗て彼女を見付ける為に走った場所を歩いた。これ程の猜疑心と不信感、これら全てが不幸な彼の心にある、これまで考えてもみなかったような、やり場のない悲しみと絶望との深淵を突然、他でもない彼女が彼の前に開いて見せたのだった。しかし、何故かそんな彼女に対する同情、深い限りない同情が、不意に一瞬彼を捉え、苦しめた。彼女を想う、刺し貫かれた心が嘆いた。『君は消えろ』『君は幸運な男だ、ジム』『君は忘却者になれ』──『そんな名字ではなかったように思います』『いいえ、フランス語はとんと駄目で』──『私は貴方の声が好きだけど、貴方は黙るのが好き』『今すぐ帰ってきて』──自分と同様に偽名で生き、フランスの血が流れている人間。ジェイムズ・エリスという無知な男をわざわざ演じたにも関わらず、フランス語教師として生きる事を予言していたかのような手紙。プリドーは手紙を握り締めた。一つの強靭な手の中で悲鳴も上げずに、それは愛の成れの果て宛ら、眇眇たるものとなった。女の愛を忘れよ。かの幸を、かの毒を忘れよ。

Bobby Brown - Roni