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Sleepless with cold commemorative eyes



『任務中止、撤退せよ』──との符牒が示された。フラットへ帰宅すると、部屋に続く仄暗い階段に一人の子供が座っていた。見知らぬ子供が読んでいるものは昨日の新聞であり、サラの接近を感知すると、その子供は彼女の存在を真面に捉えた。電子機器類不所持の場合、符牒は、現場工作員に昔ながらの方法で知らせる事がある。それは一見何の変哲もないものだが、架空世界での日常では些か違和感を覚えるものであり、現場工作員にたった一つの事を知らせる。子供は新聞を閉じると、黙ったまま階段を降りて出て行った。彼女はその後ろ姿を二つの眼で追いたかったが、追う事なしに歩き続け、自分の部屋へは入らずに、フラットのもう一つの出口から外へと出た。歩く速さと尾行を気にしながら、中止となった任務の事を考えた。丁度プリドーが秘密会合へ行く週末の後、任務の一時停止の知らせがあり、再開となるまでいつも通りに過ごし、待機をしていた。しかし、任務について何の知らせもなく、当然彼の姿も見当たらない。すると、二ヶ月後の今になって突然の任務中止の連絡。サラは何が起こっているのか、また、自分が何を感じているのかも皆目分からなかった。自分自身に認めたくない程に気が動転し、酷く気分が悪かった。半日以上、何も咽喉を通していなかった為、先程まで空腹を感じていたが、その連絡が届いてからはそんな欲求も消え去り、微熱が出たかとも思われた。本部へ向かう道中では珍しい事に手汗が滲み出て、今から知り得る凡ゆる事を想像した。しかし、それにまでプリドーの姿が出て来た。何としても留まらせたかった。不安を拭い切れぬ頭で、出来る事なら無事で此処に戻って来させてあげたいと真摯に思った。彼を自由にしてあげたい、彼が身を置く世界から抜け出させてあげたい。何が何でもこの世に、自分がいる世界に彼を留まらせたい。サラはそのまま歩き続けた。しかし、彼女は仕立て屋の中へ、明るい窓々が優しく招くように彼女を見詰めている、この平和な、居心地良い巣の中へ入って行く気にはなれなかった。彼女は仄暗さと川のせせらぎ、顔を包む爽やかな空気の感触、そしてこの悲愁、この不安とも別れる事をしたくなかった。今やそれだけが、自分とプリドーを繋ぐものであったからである。何れ彼女が知るであろう事実は、到底彼女の力の及ばぬ事である。その思い掛けない発見は、彼女の魂を押し潰してしまうであろう。一切は終わりを告げてしまった。彼女の心の花々は、一時に残らずもぎ取られ、彼女の周囲に散り敷く事となろう──投げ散らされ、踏み躙られて。
「任務が中止になったのは何故?」
「ターゲットが海外任務で失敗し、続行が不可能となった為だ」
「失敗?エリスの任務はどういうものだったの?」
「言えない、機密事項だ」
「貴方はそれを事前に知っていたの?任務中止まで、何故二ヶ月も空いたの」
「サラ、終わった任務の事を詮索するのは止せ。もしや君は、ターゲットに同情しているのか?」
「知っていたんだ、もっと前から。私は何も知らずに……馬鹿みたい、彼も私も」
いつも通り、管理人から秘密会合の任務を受けたプリドーだったが、その内容は有り触れたものではなかった。管理人の口から出たのは、サーカスの幹部である五人の内、誰かが裏切り者であるという事であった。命令に背く事なく海外へ飛んだプリドーだったが、背中に銃弾を撃ち込まれた上、チェコの拷問チームによる不寝の責め苦を受けた。チェコの不首尾に終わった任務で管理人とその側近は辞職、新しい管理人となるや否や、何故かプリドーは英国へ帰還する事が出来た。この一連の出来事はたった二ヶ月の間に起こり、既に彼はサーカスより与えられた新しい人生を歩み始めていた。
サラは、現場工作員を任務遂行の為に背後から操り、その工作員の感情を一切考慮する事なく、決して危険が降り掛からない本部より命を下すマーリンを厳かに一瞥した。彼は一度だって私という人間を理解した事があるだろうか?いや、私だけではない。彼……そう、ジェイムズ・プリドーといった行き場のない人間達の事を。私はこれまで凡ゆる事を教えられずに、凡ゆる仕事をさせられて来た。また、マーリンには見えている先の事も、任務の本当の意味も、私がやり遂げた事の影響も、自分には何一つ伝わる事はない。私がプリドーに対して持っている感情を察しては咎め、私に様々なものを与えてくれた彼を同じ国の人間と思わない。あの週末を過ぎて、私は毎朝川沿いを歩き、ベンチに座って彼を待った。早朝の濃霧の中から彼が、頑健な身体を持て余している彼が、私を捉えては険しい顔から溌剌とした顔へと変わる彼が現れるのではないかと、ただ只管に待っていたのだ。私は何も知らぬまま、愚かにも時間を浪費していたという訳だ。サラは痛みの余り、やっとの事で言葉を口にした。
「失敗した彼は、新しい名前と身分を与えられてお払い箱よね」
「ああ」
ターゲットには追放の資格がある。仕事は出来、忠誠心はあり、秘密は守れる──その為に追放されたのだ。そう口にしたマーリンの想い人は、今や唖然とする程に明瞭な、人間の顔貌を帯びていた。ターゲットの恋人となり任務をやり遂げたサラは、よもや暗殺者ではなく、飛び切りの非情者では更になく、自分の自動人形ではなかった。それは一人の人間であった。そのある種の破滅を実現させたのは、ガラハッドでもなければ自分でもない、プリドーであったのだ。彼に対する愛情、過剰な愛情、愛するが故の愚かな感情が因なのだ。マーリン自身、自分の乱れ縺れた人生から余りにも知り尽くしている、それは人間の弱味であった。それを弱味として彼女に持たせる事が出来たプリドー、彼女の恋人、彼女の痛み。
サラはただ心よりプリドーを慕い、彼を強く、強く、心を込めて愛しているだけであった。しかし、彼女の運命も辛いものであった。彼女は人間を愛する術を知っており、愛する事も出来るのだが、ただそれだけの事で、何か善い事をしてあげる事も、彼の恩に報いる事も出来ないのだった。彼女はマーリンの返事を無言で聞き、不気味な程に身動ぎ一つせず、床をひたと見詰めていたが、彼女がもう全てを理解し、一切の事実の意味を明らかにさせた事が、彼には分かった。しかし、沈黙が先へ進むに連れ、サラの顔は益々、陰気にというのではなく、何か凄味を帯びて来た。眉を険しく寄せ、歯を食い縛り、じっと据わった眼差しは更に凝然とした、執拗な、恐ろしいものとなって来たのだ。するとその時、彼女の背後、此処から離れた所にある廊下を一つの影が横切った。威風堂々と歩く、正しく張られた姿勢、片手には傘、ガラスを隔てた奥に構えている琥珀色の双眸。その人物の大きな影が、部屋の入口を完全には横切らなかったのをマーリンは感知した。
「真逆とは思うが、規則を無視し、接触を試みようと考えているのではないだろうな」
「私は、あの幹部達のようにそんな冷酷には……彼を見捨てる事なんて出来ない──貴方は人を愛した事がないのよ」
「……何?」
咽喉に渦巻き始めた熱の波が、マーリンが口に出そうとした幾らかの言葉を掠れさせてしまった。初めは怒りであったが、その内、寂寥がそれに取って代わった。彼はサラのそんな声、痛みを孕んだ声色を聞いた事がなかった。彼女はどんな窮地に陥ろうとも泣き言は言わなかったし、自身を卑下する事も言わなかった。ただ静かに耐え、痛みや苦しみが軈て心中から去るのをじっと待つ、それが彼女であった。彼の身に感じた熱は彼女にもあるらしく、僅かに息が震えていた。彼はそんな彼女に手を差し出し、その燃えるような両手を包み込み、いつまでも握っていたかった。元気付けるように、一時の危うい気を鎮めるように。マーリンの脳裡には二つの映像が代わる代わる浮んで来た。それは冷たい床の上で死に瀕したサラの憤怒に燃えた顔と、暖かい地の上をプリドーと共に歩いて行く彼女の姿であった。一つの印象、死の覚悟をし、死を迎えようとしている彼女の姿は重苦しく悲痛なものがあった。一方でもう一つの印象、プリドーのような男に対する愛を見出し、今やしっかりとした正しい善の道を歩き出す彼女の躍動した姿があった。後者は、マーリンにとって無上の救い、喜ばしいものでなければならなかった筈である。愛する人の幸福より勝るものは何もない。その為ならば、自分は何だってするべきであり、何だって出来る筈だと思い続けて来た。しかし、彼にはやはり重苦しく、彼はその苦痛に打ち勝つ事が出来なかった。また、彼は彼女に手を差し出す事も、その両手を包み込む事も出来ず、ただ彼女の眼前に立ち竦む事しか出来なかった。すると、あの影──先程彼の目が捉えた、恋敵であり英雄である人物が、部屋を辞そうとしたサラの前に姿を見せた。彼女が恋焦がれる架空世界への道。その道を閉ざす一人の戦士、愛する彼女の手を離す事をしない一人の男。
「任務は終わったのだ、ヘレネー。あの界隈に用はない、だろう?あの男も、あの家も全て忘却の淵に追いやれ。それが君のすべき事だ」
二ヶ月前、プリドーに恋をした頃には想像すらしなかった全く末恐ろしい事、だがそれが実際に起こってしまった。露に湿った土の上、泥に塗れて身動ぎをしない、まるで細長い何かの荷物のように転がった身体。サラの脳裡に浮かんだその映像は、ジェイムズ・プリドーなどと高貴で美しい名で呼ぶには滑稽な程に惨めな有様であった。身体の何処かに黒い穴が開き、其処から噴き出す血糊が、土の表面まで無数の川を描き流れる。如何にも無残であった。激しい痛みに耐えず顔を顰め、低く呻いている彼。助けを求める彼、それが出来ない自分。追放され彷徨う彼、そんな彼に寄り添う事が出来ない自分。彼女は自分の見ていない内に、彼が死んでしまうのを恐れた。サラはプリドーの態度に生まれた小さな変化を思い出した。また、それに連れて自分の過去も思い出された。すっかり忘れなくてはいけない、何もかも抹殺してしまわなくてはいけない。彼女は何度もそう考え、慌てて彼に関する想いを何度も念頭から追い払おうと努めた。しかし、愛を知ってしまったもう一人の脆い彼女が、その努力を無に帰しては、彼に対する愛を何度も囁くのだった。
いつの日か、本部で出会した時にハートが見たサラの表情。彼女の意識が何処を彷徨っているのか分からぬ不明瞭なもの。しかし、過ぎ去った時間だけを彷徨っているのではないもの。その顔には思い詰めたような暗い表情が現れていたが、思い出に耽るのならば、そういう表情の存在は有り得ない。心中に焼き付いて離れなかったそんな彼女が抱えていた因が、色仕掛け対象の男であったなどという、そんな馬鹿げた事があろうか?君は用済みとなったスパイを気に掛けるのか?我々は未だ生きているというのに?ハートの正論に、サラは苦しそうな眼差しを向けたが、一言も答えなかった。しかし、彼女の灰色の瞳には未だ光が灯っていた。プリドーの元へ駆け寄り、彼を力一杯抱き締め、光ある内に光の中を彼と歩むという希望。この時点であれば、マーリンには通用しただろう。その希望こそが他ならぬ貴方の希望であったのだ、私を愛する貴方が求めていた希望なのだと訴える事が出来たであろう。相手が、犠牲を厭わぬ彼であったならば……。ガラハッドの全く澄み渡った頭脳、憂悶や悲痛、苦衷などといったものを、一時的に追い払った頭脳が凡ゆる器官に下した命は、即座に実行へと移った。サラが取られた先手に応じる事が出来なかったのは、彼とは異なり、様々な事が脳裡に浮かんでいた為である。琥珀色のスコッチウイスキーに光が反射したような眼光が、彼女の直ぐ傍、吐息が感じられる程に近いところまで来たと思うと、彼女の身体からは忽ち一切の力が抜け落ちてしまった。硬い地面へ膝から崩れる筈であったが、ハートが両手で抱えた為に、彼女の身体は痛みを感じる事はなかった。彼の左手首に鎮座している時計の文字盤は、表示が戦闘モードに切り替わっており、彼女の首筋に刺さった小さな針を抜いては床に投げ捨てた。サラが恋焦がれる男への道。その道を阻む一人の戦士、愛する彼女の魂を離す事をしない一人の男。例え彼女を傷付けても離す事をしない、一人の不器用な、不完全な男。
「彼女の為だ」
ハートは機械的にサラの身体を抱き上げながらも、僅かな震え声で言った。その眼差しの中には量り知れない憎悪が沸き立っていた。それが何に対する憎悪なのか、マーリンには分からなかった。規則に反した彼女に対する憎悪か、彼女を狂わせたプリドーに対する憎悪か、将又ハート自身、彼女を繋ぎ止める事が出来ない彼自身に対する憎悪か。蒼褪めた白皙、しかし安らかに眠りに就いたような表情。この有り様を見た時、マーリンの魂は竦み上がり、血管が凍る思いであった。これは一体何の為だ?彼女の為だと?英国の為、人類の為とでも言うのか。そんなものの為ではない筈だ、貴方は他でもない自分の為にした事だ。その行為を正当化する言葉を放ったハートの後ろ姿は、腕の中にある小さな存在に憐憫の情を向け、乱れた前髪にそっと唇を寄せていた。硬化した心臓を持つと陰で言われている彼もまた彼女と同様、一人の人間であったのだった──未だ限りある闇の中で、これら救われぬ魂の一つが見た景観。それはハートが感じた憎悪といったものではなく、ただ一人の人間を案じる高尚な愛憐であった。ジェイムズ・プリドーといった実に善良で、実に純情な人間。サラは沈んだ意識の中を蹌踉と歩きながらも、手探りでその存在を探し求めた。エリス、貴方は痛ましい程に善良だ。私は貴方を眺めていると胸が一杯になって来る。神と両親に祝福されなかった貴方の人生に今一度、歩み始めたその新しい人生の中に、愛と共に、沢山の花が咲くように。私のみならず、沢山の人々に愛され、大切にされるように。もう二度と、困難や苦悩が貴方の胸に落ちる事のないように。貴方の傍にいる事が出来ず、また、もう二度と貴方に寄り添う事が出来ない私を許して欲しい。異国の地で、或いはこの英国で貴方は私を探すかも知れないが、私はもう貴方を大切にする事が出来ない──見掛けは淑やかな愛の姿、だが本当は激し過ぎる程の愛の姿。隠れた路によってそれは彼等を微笑から涙へ、また、この上もなく無邪気な歓喜から、この厳しい掟の方へと導いて行ってしまったのだろうか?