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Road to perdition



輝やかしい西の沈んだ星、夜の影。陰鬱な、涙を流させる夜。姿を消した大きな星、その星を隠す黒い暗闇。二つの人間を捉えては無力にする残酷な手、彼等の寄る辺ない魂。彼等の魂を自由に成らせない無慈悲な取り囲む雲──珍しい事に、サラとプリドーは外へ出る気になれなかった。殆ど気の付かぬ間に時間というものが、全く外界から縁を切ったままで滑るように過ぎ去り、人間の姿も声も、差し当たり彼等の平和を乱す事はなかった。彼らにとって、唯一の出来事は天候の変化であり、唯一の味方は川の上を流れて来る心地良い空気であった。暗黙の同意により、彼等は前回の逢瀬から後の、過去の出来事については一度も触れなかった。互いに嘘を吐く事には慣れていたが、それをわざわざ相手の口から言わせるような事はしなかった。その時から今までの間の暗澹たる時間は、深淵に沈んでしまったように思われ、まるでそれが一度も存在しなかったのように、その上を現在の時と、それ以外の時とが封じ込めているのだった。
「発音が上手だ。完璧に近いと思う」
「そうかな」
「君にはフランスの血が?」
窓辺の椅子に腰掛けてロシア煙草を嗜んでいたプリドーは、聞き取る事が出来ない程に小さな声で独り言を言いながら、ベッドの上で試験の採点をしているサラに、君のフランス語で何か言ってみてくれ、と提案をした。すると、彼女はその言葉の何処に可笑しさを感じたのか、又は面白味を感じたのか分からないが、嬉しげに笑いながら解答を誦じて見せた。また、彼女が気に入っているフランスの諺や詩なども口にした為、彼は些か驚いた。しかし、その驚きを顔に出してはならなかった。ジェイムズ・エリスは無知な男で、他人に勉学を教える彼女を尊敬する男なのだ。プリドーは白い煙をゆっくりと吐き出した。何処かとろりとした響きを持つ発音、天籟の如く自分の脳梁を震わせるその重味。それは完全なものに近い。長い間、文明の愉楽を味わった人間の平静とゆとりさえ備えているように彼には思われた。フランスとは、君の何だ?生活の為の単なる手段か?君は生徒に教えているが、それを通して何を見ている?サラは苦笑と言えるものを浮かべて、首を横に振った。勿論、それは嘘であった。
「貴方は話せる?英語以外に」
「いや、使い物にならない」
二人は今や相手に対し、嘗て経験した事のない感情を抱くようになっていた。その感情は、恋愛に良くある最初の詩的な思慕でもなければ、その後に彼等が経験したあの肉感的な愛の疼きとも、また彼等が逢瀬の後に相手の完全なる恋人になろうと怯えながら決心した時のような、自己陶酔と結び付いた、義務遂行の意識とさえも全く共通点がなかった。それは最も単純な憐れみと感動であり、自分を見る相手から自分というものを知り、自分という取るに足らない孤独な存在をも慰める事が出来たのだった。それは彼等にとって、全く新しい力だった。その新しい力でもって経験した恋というものは、当然過去のものとは異なる。恋は幾ら経験を積み重ねたところで殆ど同様の感情である。ただこの恋の異なるところは、今までは一時的なものであったが、今ではそれが恒久的なものになったという点であった。例えば、サラが何を考えても、何をしても、彼女の気分の基調を成すものは憐れみと感動であり、しかもそれはプリドーだけに対する感情ではなく、全ての人々に対するものであった。この感情は彼女の心中に、これまで出口を見出す事が出来なかった愛の流れに水門を開けた事になり、今やその愛情は彼女の出会う人々に注がれる事となっていた。世界を正しい方向へ導いて来たあの同僚達は、このような愛情を誰かに抱いた事はあるのだろうか?ただ漠然と、世の為人の為と働いている彼等。彼女には何故か、彼等にはそんな愛情を持ち得ない気がした。しかし、一体何方が幸福だろうか。サラは解答用紙から顔を上げ、自分と同様に嘘を吐いたプリドーに瞳を転じた。彼は少なくとも魂を三つは持っている筈である。彼が知り尽くしている古い土地、その国の言語を口に出そうかと思ったが、敢えて其処は避けた。何故か無上に悪い予感が、彼女の念頭を過ぎったからである。大国に挟まれ、ひっそりと佇んでいる国。凡ゆる国のスパイが入り乱れては、密会や符牒が飛び交う国。彼女は厳粛な明るい眼差しでじっと彼を見詰めた。そして、長い物思いの後、微かな微笑を見せて呟いた。
「Ich mag deine Stimme, aber du bist gerne still」
私は貴方の声が好きだけど、貴方は黙るのが好き。貴方の軍隊調の男らしい、憂いを孕んだ声が好き。貴方が好き。深く押し隠した物腰の柔らかさ、そして何事にも心を動かさない私を夢中にさせた貴方が好き、貴方が好き……。プリドーは癖になっている、右側の上唇をひん曲げて特徴的な形をした歯を見せ、彼自身に対する嘲笑と言えるものを浮かべて、首を横に振った。勿論、それも嘘であった。勝ち誇った気持ちとなったのだろう、満足気にニコニコと笑っているサラを、今度は彼がじっと見詰めた。ただ俺達には、俺達の物思いがあるばかりだ。白い月光を浴びるあの川、この界隈には何が見える?優しくも救いのない夢があるばかりだ。面影、次から次へと現れる死者の面影ばかり。その月光の中に盛り上がり、地平線の向こうまで高まり、風の手そのままに川に様々な形の細波を作っている、川を成す水滴の全ての数より多い死者。其処に何が見える?幹部共が椅子に座って頭と口を働かせている間、我々下っ端は外国に渡り情報を集め、我々下っ端は英国の墓に入る事すら望めない中、太陽の下に頭蓋骨を残してまで得ようとするものの他に……一体何が見える?どうせ俺は、消耗品に過ぎん男だ。別れの言葉さえ口にする事なく、サラを此処に残して行くべきだ。異国へ、我が古株の地へ行ってしまうのだ。
「来週は会えないが、寂しいか?」
「ううん、全く、全然」
「いつかこの口を利けなくしてやる」
サラ、この仕事は週末の内に全部終わる。土曜に始めて日曜には済む。管理者からの馬鹿げた仕事だが、直ぐに終わる。なあ、サラ……君は、何かから逃げたいと思った事はないか。俺はこの仕事や親友に出会す随分と前から、既に何ものかに苦しめられていたのだ。というのはつまり、俺も世間の人間と同様だという事だ。しかし、世間には、そういう事を知らぬ連中もいれば、そういう状態の中で心地良く感じている連中もいるし、また、そういう事を知り、出来れば其処から抜け出したいと思っている連中もいる。俺は、呼吸する毎に抜け出したいと思っていたのだ。砂漠を越えてカインを追った神の目で、彼等が俺を追跡する事も覚悟しなければならない。だがサラ、君が望むのであれば、俺はその追跡から逃れる為に何だってする。全てに訣別をするのだ。何もかも、鋳掛け屋、仕立て屋、兵隊、貧者、乞食、二重スパイ、凡ゆる事を君の為に忘れる。俺をあの現実世界に繋ぎ止めていたものから訣別する。俺に死よりも酷いものを齎し、生きとし生ける俺に惨い仕打ちをするものから逃れて見せる。俺は忘却者となる。プリドーはあの時のように、レコードを取り上げようとした自分の手を抓った時のように、彼女の白皙の頬を日焼けした手が抓った。触れたくて堪らないといった人懐っこい手ではなく、他人に触れる事に慣れていない愛情不足の手。それは彼女のみならず、彼もまた同様であった。しかし、自分のこの大きな手の平には今や、慈愛に満ちたものが含まれている事を悟った。俺には人を愛するという事が出来る人間だ。そういう人間なのだ。あの旋律を美しいと感じる事が出来、またあの旋律によりサラを思い出す事が出来、彼女の名を大切にする事が出来る一つの人間なのだ。
「君が持っているもので、欲しいものがある」
「欲しいもの?」
「……お金じゃないぞ、とんでもない」
「エリスはそんな簡単な人じゃないでしょ。欲しいものって何?」
「何だと思う」
「私は当てるのが下手で」
「じゃ、仕方なく言うが……俺が欲しいのはそのレコードだ」
サラはまたクスクスと笑い出して、両手までピタと打ち合わせた。プリドーの望みが堪らなく滑稽に思われた為である。殺人、誘拐、急な脅迫といった手段を駆使し、優れた情報活動を漸進的に進めて来た組織。その筆頭に立っている男、どんな苦悩にも負けぬ高貴な男。彼女は笑いながら、同時に女心を優しく擽られた嬉しさを感じた。あの旋律が私を思い出させるのね?未来の暗い家庭教師、貴方と同様に三つの魂を持つ知識人、貴方が見ている世界を見た事がない潔白者。貴方はそんな私を愛しているのね?相変わらずプリドーはじっとサラを見詰めていた。辺りにはこの上なく快い、爽やかな静けさが立ち込めていた。聞こえるものとは、ただ川沿いの木の葉がさらさらと触れ合う響きだけで、その為に却って辺りが一層しんと静まり返り、物寂しくなって行くように思われた。
「どうぞ、どうぞ。代わりに私にはその上着を頂戴」
「駄目だ、これがなかったら困る」
「残念。だけど次に会う日までに新調してね」
「仕方ないな、君がそう言うなら」
愛という情熱を持った冷暗色の明眸。その眼は、サラの顔の上の部分に差している白い月光の反射の為に、一際黒く光って見えた。彼女が巫山戯ているのか、将又本気なのかプリドーには計り兼ねた。彼は彼女に対する自分の感情を、不覚にも彼の全存在を満たしている生の喜びの一つの表れと感じ、それをこの愛らしい明るい女性が共感してくれたのだと信じ込んでいた。この仕事で最後だ。何としてでもやり遂げる。結果は果たしてどうなるか……それは俺にも分からない。あの管理人でさえも──プリドーはいよいよ立ち去る事となった。サラは先程まで彼がいた窓辺から身を乗り出し、控え目に手を振って見送ってくれた。彼はもう二度と返らぬ、何か美しく尊いものを其処に置き忘れて行くような気がして、とても悲しかった。彼は微笑を作る事に努めたが、それは上下の顎骨を引き締め、両唇を接合させる以上のものには出来なかった。しかし、強張った顔の中で、目だけは未だ存在する限りの勇気の閃きに輝いていた。

此処チェコから、自由で、凡ゆる顔を持ったあの英国へ、今直ぐにでも帰りたいという激情を抑える事に苦労をした。時折、プリドーはサラの事を考えた。地下鉄の電車が不穏な音を立てて動き出した時、彼女の事で頭が一杯になっていた時の事が想起され、何とも愚かで懐かしかった。冷たくなった彼の唇には、未だ彼女の唇が感じられ、鼓動する彼の胸には、未だ彼女の体温が残っているように思われた。彼女と過ごした、決して長いとは言えぬ時間の中で感じた、飛び立つばかりの嬉しさと、今この仄暗い鉄の箱の中で感じている深い自責の念とが、複雑な織模様の如く交錯していた。視線をカチッと固定するように、心を彼女に向ける。ほんの一瞬、サラの身体の感触が思い出され、また、夢に生きる男宛らに、地下から見る事は叶わぬ空を脳裡に浮かべた。
『この界隈は不便だけど、その代わり、此処の空気は本当に素敵。何とも言えない良い匂いがしない?本当に、この川の傍ほど澄んだ空気は、世界中の何処にもないと思うわ。それに空も……』
プリドーに向けられたサラの眼差しには、隔てを置かぬ情愛が篭っていた。世界中って君、外国を旅行した事があるのか?そう思っていた彼であったが、こうして異国の地へ来てみると、あの古びたフラットから仰ぐ事の出来る空は確かに、丸切り別物である事に気が付いた。ケンブリッジ・サーカスから見えるものとも、唯一心を休める家から見えるものとも全く異なる。確か君に初めて出会った日も、空が晴れ渡っていた。冷え冷えと晴れ渡った微動もせぬ空の輝きが、絶え間もない光線を町に注ぎ掛けていた。そんな景観の中で、俺達は出会った。君はコートのポケットから長い薔薇色の爪の美しい手を出し、俺の方へ差し伸べた。その手は、大きなオパールのカフスボタンで留めた袖の折り返しが雪の如く真っ白な為に、際立って美しく見えた。そんな手が持つ物と言えば、ペンぐらいなものだ。凡ゆる知識を念頭に積み上げる為のペン、フランス語のスペルミスを指摘するペン、日用品で買い足すものを書き記すペン──君の元へ帰りたい。君が欲しいと言った上着でも何でもくれてやるから、俺を見捨てずに、俺を忘れずに、俺を君が生きている世界に繋ぎ止めて置いてくれよ。プリドーは自分を脆いものと思った事はないが、もしサラが自分の脆さを見たとしても、きっと彼女は自分を守ってくれるだろうという事が明瞭に感じられた。彼女の非力で、あの聡明な眼差しで一切の闇が払われると、彼は信じて疑わなかった。信じて、疑う事をしなかった……。

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