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The less I know the better



この年の夏は素晴らしいものであった。凡ゆるものに無限の空の青さが染み込んでいるように思われ、人間に備わっている生命力は不幸や死などといったものを征服してしまっていた。暗い影は人々の眼前から退き、朝が訪れる毎に人々は喜びによって目を覚ました──任務を遂行する架空世界から、サラが身を置く現実世界へと向かう中間の世界。この世界に短い間ながらも留まる事は、幾多もの不安や恐怖を抱えた煩わしさの中で、今も尚残っている楽しみの一つであった。それは凡ゆる交通機関の中で運転手に命を預ける数分、数時間。その間だけは全てをすっかり忘れる事が出来、彼女は幸福であった。その時ばかりは、一種の後光や残照といった輝きが人生に差して来るのだ。苦労も、その他現実の事柄も、実体のない形而上学的様相を帯び、ただ静かに考えるのに相応しい心的現象に過ぎないものとなり、もはや身心を苛立たせる、差し迫った具象的なものではなくなる。際限のない任務やキングスマンの面々も、眼前にさえなければ、寧ろ明るく望ましい付属物であるように思われ、日常生活の出来事も、此処では可笑しさと陽気さを伴わないものでもなかった。しかし、仕立て屋の遥か地下から、本部へと通じる乗物に腰を下ろすと、先程までサラを虜としていた心地良い酔いは一挙に醒めて行った。この短いようで途方もなく長い一本の道は、自分の境界そのものへと通じるものであり、自分と架空世界とを結び付けるものであり、また、後悔への道でもあった。この席に初めて座った時の心情が、未だ色褪せずに残っているのだ。一体自分は、この世に何の目的があって生きているのかという疑問を常に抱いていた。勉強にしろ遊びにしろ自分には向いておらず、他人に優しく親しく接したり、他人を配慮し気遣うといった基本的行為さえも手に余っていた。自分という人間を育ててくれた一人の乳母の事は好きであったが、乳母が信じていた神は何となく気に食わず、敬神の念に欠けていた。誕生日に貰った聖書も彼女の前では嘸かし大切に扱って見せたが、彼女の目がなくなるとそれに肘を掛けたり、枕の位置を高くする為に使用したりした。これが自分の欠点と意識し、自責の念を覚えたが、その事以上にそれを明瞭に感じたのは両親についてであった。自分のそのような取るに足らない欠点が、両親が自分の前から姿を消す理由にはならない。死んだと聞いたが、どうやって死んだのか分からない。乳母は嘘を吐いていると思ったが、問い詰める気にはならなかった。因は彼女ではない、自分にあるのだ。それも欠点や短所ではなく、自分の存在自体にあるのではないか。そして、自分を訪ねて来たある一人の人間は事務的な、何度も他人に繰り返し告げて来たような、抑揚のない口調で両親の事実を告げると、忽然と姿を眩ませた。サラはその事実の真贋を確かめようと毎回思うのだが、この乗物が本部へ辿り着くと、そんな過去の遺産は念頭から退いてしまうのであった。ジェイムズ・プリドー、自分が尽くす階級制度から出生時より阻害された男。彼女の境界も彼と類似したものであったが、この男は本当の魂を持っており、また神の摂理を深く理解しているとさえ思えた。彼の目には、悲哀が克服出来るか、克服する甲斐があるかという限りでは、悲哀を克服し得た者の光があるように彼女には思われた。彼女はそんな彼を誰よりも尊敬した。彼がサーカスの拵えた謀略に加担する事を思うと、その身の安全が心配でならなかった。貴方は私の欺瞞の部分しか見ていないけれど、私の懐奥深くには、今までの生活では灯らなかった明かりがある。貴方は、そういったものを信じる?
外界と網膜を隔てる二枚のガラス上に喚起を促すものが表示され、マーリンは直様踵を返した。『ヘレネー帰着』──その知らせはたった三回だけ点滅する。ロンドンの仕立て屋から本部までは一分と掛からず、彼は緩徐に高鳴り始めた心臓と共に、地下の出入口まで走った。途中、施設内を当てもなく徘徊していた候補生が、怪訝な眼差しを隠す事なく投げ掛けたが、彼はそれを取り上げる事はしなかった。此の所、サラとの直接的な接触は皆無であり、指輪から送られて来る何の異常のない心拍数、また、一度も使用されていない五万ボルトの電流以外、彼女についての情報を得るものはなかった。例え一目だけでも、直接見れば凡ゆる事が分かるものである。丁度、乗物が到着した頃にマーリンもまた辿り着いた。息は上がっていないが、自覚していた些か落ち着きのない態度を改めると、二重扉が開き、彼女のその姿を捉える事が出来た。「サラ」と呟くように呼び掛けると、彼の穏やかな目付きの中にきらりと光が走った。彼女は、常に凡ゆる事に忙殺されている彼が自分を出迎えてくれた事に驚き、サラの喜しげな視線は、彼にその美を浴びせ掛けた。彼女は内ポケットから一枚の用紙を取り出すと彼に渡した。其処には数字の羅列が記されており、彼は脳裡に浮遊していた解読表を即座に引っ張り出すと、それは秘密会合の詳細な情報となった。何せ今回の任務は連絡手段が限られている為、わざわざ此処まで手渡しに来たという訳である。そうだ、確か……あの油断ならない男の名はジェイムズ・プリドー。語学堪能者であり、静かに巧妙にチームを引っ張る人間。所属が英国情報部ではなく此方側であれば、嘸かし役に立ったであろう逸材。マーリンは情報をバインダーに挟みながらふと思った。サラはどうやってあの男の心に食い込んだのだろう?今まで経験して来た通りにやってのけたのであろうか、それとも、全く異なった方法で落としたのであろうか。後方支援が望めない中で、彼女は一体何をしたのであろうか。どのようにしてターゲットから大切にされるよう仕向け、また、彼女はどのようにしてターゲットを大切にする振りをしたのか。こうした疑問の解答ばかりは、その世界を構築している二人、彼女とターゲットにしか知り得ぬ事である。任務に関して蚊帳の外である事が殆ど無に等しかったマーリンにとっては、それを何としてでも突き止めなければならないような気がしてならなかった。彼女が見るものや考えるものは、全て自分に通じるものでなくてはならないと彼は無意識の内に考えていたのだった。
「情報部の任務は後どれくらい?」
「一ヶ月程度を目処としている。彼方側が勘付くのも時間の問題だろうから」
今のところサラは、ターゲットに勘付かれる事なしに任務を全うしていた。ランニングで出会さなかった朝より他の諜報員と交代で尾行をし、空港のデータベースより撹乱の為に彼が数枚購入した航空券の真贋を見極め、偽装パスポートの使用歴を確認し、現地エージェントに引き継ぐ。失敗はなかった。また彼女同様ターゲットも失敗をせず、表面上は秘密会合を次々と成功させていた。しかし、今この時だけは、彼女の傍にいるのはマーリンである。ターゲットや偽りの身分で練り歩く架空世界ではなく、彼女の皮膚に触れているのはこの現実世界に構える彼ただ一人であり、彼女の眼差しを受けているのも彼ただ一人であった。その事を自覚すると、彼はサラと話す幸福感に満ち溢れ、その灰色の眼を、美しい顔を、気品ある利口そうな顔全体を繁々と見守りながら、何かを話し出そうとした。話したい事は幾らでもあった。彼女が此処を離れている間に起こった出来事、候補生の訓練や新しく開発した武器について、また、彼女の事を変わらず愛しているもう一人の男についても。しかし、それらを示す何かしらの言葉は、マーリンの口から出る事はなかった。彼が捉えた彼女の顔は妙に蒼白く、それがスーツではなく鮮やかな色の私服を身に纏っていた為に一層強調され、浮かんだ笑みには、いつ点いたり消えたりするか分からぬ壊れた電球のようなちらつきがあった。先程の表情、此処で自分にその美を浴びせ掛けた、嬉しげな視線とは異なるものが生じていた。一体何を思ったのか。元来、サラは自分自身の感情を顕にしないが、凡ゆる事柄に対する知識がその言葉の端々に窺われる。表情もまた同様であり、その微妙な変化は彼女の傍で生きて来た人間にのみ、感知をする事が出来る。その微妙な変化から、マーリンはこの娘が既に多くの事を悩み抜き、考え抜いて来た事を知った。彼はそれが何であるかを考えたくはなかったが、洞察に長けた魔術師の目は即座に因を叩き出してしまった。何処かに平和と幸福を潜ませている彼女。寄る辺ない魂、それは一つのみならず二つのものであり、架空世界で蔓延る情愛、無情との葛藤。
「任務は二つとも順調だな。今夜は此処で休むのか?」
まるで救いの手を差し伸べるように、戦友の存在がマーリンの念頭を掠めた。此処にハリーも居たならば……久々に君の顔を見る事が出来て嬉しいと思っただろう。しかし、それはマーリンの懸念を、あの悪い予感を明瞭とするものであった。『ヘレネーは今、何の任務に就いている』と、サラ本人にではなく、自分に尋ねたハートが思い出された。本来、他エージェントの任務内容については極秘として扱う。しかし、マーリンはハートと旧知の間柄であり、恋敵であり、戦慄を取り分けた戦友であり、ハートに対しては殆どの事を打ち明けていた。マーリンにはその質問に答えない理由はなく、また、彼は彼女が就いている任務に対して感じた悪い予感というものを、ハートに相談しようかとも思った。『英国情報部の任務、それと別件である地下組織の偵察任務に当たっています。前者は翌月に完了予定です』と言うと、少しの間も置かずにハートは再び質問をした。『前者はどういった内容のものだ』今思えば、返答の内容が分かっているにも関わらず、敢えて自分に尋ねたのではないか。『部員に対する色仕掛けです』彼もサラに恋をしている男だから、何かしらの表情の変化があるとマーリンは思っていた。しかし、ハートは微塵もそれを崩す事なく、その場を辞したのだった。やはり現場に立つ人間にとっては、愛する人の色仕掛けなど取るに足らぬ事であるのだろうか。では何故、彼は敢えて尋ねるような真似をしたのか。彼もまた自分と同様、彼女から何かを感じ取ったのではないか──彼女が何処へでも自由に、ターゲットの前或いは隣に立ち、気侭に進んで行ってしまう、彼女の心は殆どターゲット次第で、その方向を定めているようにマーリンには感じられたのだった。彼の穏やかだった目付きの中に走った光、その微笑はもはや本当に続いているのではなく、まるで顔の上に凍て付いたまま残っているようになった。君とターゲットの間に何があったのだ。色仕掛け如き、それで命を絶やさないようにと嘲ったのは君だ。計画通りに自分に恋に落ちるターゲットを非情な眼で見下ろし、事実と偽装の区別を付ける事を何より得意としていた君だった筈だ。
「いえ、此処へはこれを届けに来ただけ。今からターゲットのところに」
マーリンがサラに対し最も強く願っていた、たった一つの事。それは、神が黙している天上の世界に眼を向けたりせずに、ただ彼女自身が幸福に、平和に、その明眸が呻吟の内に閉じられる事なく、生きて欲しいという事であった。平和は、本当は彼女だけのものだ。自分はただ彼女の眼が永遠に閉じない事を願い、毎日少しずつ死んで行くのは自分だけで良いと思っていた。君には自身の名を何よりも大切にし、死から遠去かる凡ゆる努力をして欲しいのだ。その為に、胸の内に刻む名を必要としているのならば、自分ではない男の名を大切にしたいと思うのであれば、それを邪魔する事はしない。寧ろ、寧ろそれで死が彼女から遠去かるのであれば、全く喜ばしい事だ。マーリンはずっとその思いを胸に抱き、聡明な双眸にサラの姿を映して来たのだった。しかし、いざ彼女が生に喜びを見出すと、いざ彼女が自分ではない男の名を大切そうに抱え出すと、それを素直に喜ぶ事が出来ないのだった。つまり、待っている時間が長かったのだ。いつか彼女は自分の心を分かってくれる、そして自分の元へやって来てくれるといった夢想の虜となり、真摯に待っていた時間が長かったのだ。その為に、ふと額を撫でる新しい風には我慢がならないのである。一人の女性を注視するマーリンとハートの間には、一種の情誼が通っており、彼等はその新しい風を何としてでも部屋の中に入れまいと、四つの手で窓を閉めようと努めるのだ。
「そうか。気を付けて」
サラの幸福よりも自分のそれを優先しようとし、また、その事に何の呵責をも感じていない自分をマーリンは恐れた。今までにも彼女を愛した男がいたが、彼等のようにはなるまい、浅はかな愛だけは捧げまいと狂ったように誓った時の事が思い出された。しかし、それで自分は何を得た?ターゲットは、ジェイムズ・プリドーはこの数ヶ月で全てを手に入れたと言うのに。彼女の身体のみならず、あの気高い心にも触れる事を許され、あの耳に愛を囁く事をも許されたのだ。一方で、自分には何が許されたのだ?彼女は一体自分に何を許した、何も許した事などない、この人はたった一度だって許した事などない!今、サラがあの男の元へ行く事が出来るのも、あの男と夜を明かす事が出来るのも、全ては死が遠去かっている為だ。その死を、今まで、一体誰が遠去けたと思う?この私だ!だが君は何も与えてくれはしない、君が与えてくれるものと言えばこの無上の苦しみだけだ!輝きはマーリンの目から完全に消え去った。しかし、また直ぐに別の微笑が、何か相手には分からないものを自覚し、それと同時に、静かな悲しみを覚えて生まれた微笑がそれに取って代わった。彼が完全なる敗北の後に無性に込み上げて来るような、胸の張り裂けそうな苦い憤りを覚えた事は、一度や二度ではなかった。私はこの上何が欲しいというのだ、と彼は自問したが、心は疼くばかりだった。それはまるで熱病にでも罹ったような異様な疼痛で、得体の知れぬ混沌を成しており、この上もなく矛盾した感情や想念、疑惑や希望、喜びや悩みが、旋風宛らに渦巻いていた。マーリンはそれらを自分の記憶の最奥の冷暗所に入るよう、一心に苦痛の克服に努めた。ジェイムズ・プリドーが持つものと同様の虹彩の色。今や其処には何も無かった。何一つ無い。考える事も無い。存在するものはただ激しい苦痛のみ。

Tame Impala - The Less I Know the Better