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Fresh from the dewy hill



凡俗の登場は人生に益する事が多い。それは余りにも強く張り詰めた弦を緩め、自己過信や夢見心地を正気に引き戻してくれる。どう自惚れたところで、自分も凡俗と大した違いのない事を人々に思い出させてくれるのである。サラが現れると、全てが何んとなく丸く、平凡になった。ある晩、プリドーは自分の部屋に一人だけになり、ベッドに身を横たえ、明かりを消してからも長い間、寝付くことが出来なかった。サーカスの事や、何をするにも単独行動を取らなければならぬ首狩人の事や、ガラスの破片の上を素足で歩くような秘密任務の事などを思い浮かべた時、突然、それらの問題に対する解答の如く、「また貴方の、"会えるかも知れない日"にね」と言った時の、彼女の顔と、その吐息と、眼差しと、更に微笑が心に浮かんで来た。それはまるで、眼前に見るようにまざまざと浮かんで来た為、彼は思わず自分でもその時の彼女同様、僅かに微笑した程であった。会えるかも知れない日、俺の命があったら会える。俺の命がその日までに無くなれば会えない。ただそれだけの事だ。俺に会いたいのなら、会えるように祈っていてくれよ。神でも悪魔でも、君が信じているものなら何でも。
ある日、サラはプリドーを夕食に誘った。別れ際、彼が彼女の部屋を辞する時に、急に思い付いたような振りで切り出した。今日ではなく次の日、次に自分と会えるかも知れない日を待つ、という事を彼女はもう出来なかったのだ。一分でも多くの時間を自分と過ごしたい、自分の傍から離れたくないといった様子の中、この誘い文句を幾度も頭の中で誦じたであろう事が彼には分かった。断る理由は多々あった。しかし、どれも彼女には言えぬ事であり、それを一つでも曝け出すと偽りの自分が崩れてしまう。彼女が自分の一部である事の事実を、突然人前に曝け出され、脅迫の種とされ、笑いものにされる自分が再び姿を現した。ジェイムズ・エリスとして、プリドーはその誘いを承諾し、その滑稽な姿に自分が一歩近付いた音を聞いた。「良かった」と言ったサラは彼の、何の表情も浮かんでいない顔を見上げ、幸福そうな、慎ましくも満ち足りた微笑を浮かべた。明るい世界の表面しか見ていない家庭教師は、自分には複雑な事情があるとは微塵も思っていないだろう。複雑な事情というのも、何を指すのか想像すら出来ないだろう。いつか、彼女には察しようのない理由で突然、言葉もなく、自分は姿を消す。そして、二度と再び彼女の前に現れる事はない。自分がいる世界では、そういった事は何ら不思議ではないという事を、満ち足りた表情を浮かべて見せた彼女に言ってやりたかった。新聞やインターネットには決して載る事のないやり取りをし、秘密会合を成功させ、他人の人生を覗き、名と身分を偽り……人をも殺すという世界の裏側を。そして、その秘密を聞いたサラが自分の眼前から姿を消す。そういう事をプリドーは望んでいたかも知れなかった。それなりに安全と言える家の中でも、如何にも身に危険が迫るような場所でも、自分を周囲から遮断し、孤独が最良の伴侶であると自分を騙す事が出来ていた。しかし、こうした時間、自分ではない誰かに料理を拵えて貰い、自分ではない誰かに皿に装って貰うという時間は、ああやって孤独を崇拝していた自分を不完全な存在から完全なものへと変えるものと感じた。他人に見える位置に明瞭に記されてあった未完の印が消え、完全となる。その夜、彼女は彼を泊まらせて、二人は恋人となった。彼女にとって彼は完全なる恋人、彼にとって彼女は二分の一程度の完全なる恋人に。
サラは肌に触れられる事に慣れていない、或いは殆ど不快を感じていたと言って良かった。彼女はプリドーの肌に自ら触れる事をせず、身体から力を抜く方法さえ知らないようであった。今まではこういった事に関して、早く終わらせようと努めていた彼であったが、彼女のゆったりとした吐息一つにしても脳梁が震えた。女の魅力、彼女の鼓動。怜悧で子供に優しい女が持つには熱過ぎる体内。あの衣服や靴のように使い古していない性器。偽りの自分をこよなく愛する女。灰色の虹彩の翳り。シーツに滴り落ちた小さな染みは徐々に大きくなっていき、二つの身体が触れ合っている凡ゆる部分には汗が滲んだ。初めて、女の身体相手に疲労している自身に些か驚き、また、女の白皙に何かしらの軌跡を残したいという願望に些か恐怖した。サラは俺を軽蔑しただろうか。経験はあっても女を悦ばせる方法を知らない自分。一方で、経験が少なくとも男を悦ばせる方法を知っている彼女。そんな馬鹿な考えすらも、彼は初めて抱いた。
プリドーが今思い返してみても、女の姿や女の愛の面影といったようなものは、殆ど一度も、明瞭な形を取って心に浮かんだ事はなかった。しかも、彼の考える事の全て、彼の感じる事の全てには何かしら新しいもの、言うに言われぬ甘美なもの、謂わば女性的なものに対する半ば無意識的な、恥じらいがちの予感が潜んでいたのだった。この予感、この期待は彼の骨の髄まで染み渡り、彼はそれを呼吸し、またそれは血の一滴一滴に宿り、彼の血管を走り巡るのだった。自分という人間には永遠に無縁の事と踏んでいたものは、実は間もなく現実される運命にあったという訳である。プリドーは凡ゆる苦行、凡ゆる悲痛を超え、遥かに純で、神秘な聖い喜びを、彼自身の心が既に渇望し始めていた一つの新しい喜びを、想像し予感していた。彼はこの喜びを、不安定なようで不可解な愛の悶えを呼び覚ますあのマーラーの音のように、またはあのサラの心と彼の心とが、その中で燃え尽きてしまう静謐な炎のように想像していた。我々二人は、黙示録に記されたような外見で、互いに手と手を取り合いながら、同様の目的を指して進んで行く事は出来ない。こうした空想は、例え周囲の微笑を持って迎えられるようなものであろうとなかろうと、そんな事はどうでもいい。こうした心を一体誰が知り得る?この心は墓場も同然、身も心も満たされぬままに墓場へ入るのだ、誰がこの心を知り得る?

プリドーは音もなしに姿を消す。それはいつだって太陽が昇らぬ内に、忽然と、まるで最初から其処に存在しなかったように。毎回サラは、彼が部屋を出て行くところを密かに見送ろうと努めるのだが、ぴったりと自分の背中に寄り添い、片時も外さない指輪が嵌めてある手をしっかり握られていると、彼の高い体温といつ止まるか知れない程に静かな寝息がそれを容易に妨げた。幸福とは一時のものである。しかし、その一時であろうとも此処ぞとばかりに浸る事を恐れずに、一度でも彼の広い腕の中で魂を無防備にすると、訪れるのは心地良い睡魔だけである。そして、その全きの幸福である睡魔から逃れた際、視界に入るのは彼のいないベッドと、肌寒さと、濃藍の黎明であった。その度に、サラの胸の中でも、やはりきらりと煌めく稲妻は消えてしまうのである。彼女は非常な疲労と静けさを感じながらも、プリドーの面影は相変わらず飛び巡り、彼女の魂の上に凱歌を奏していた。ただしその面影も、次第に一人でに安らいで来るように見えた。宛ら白鳥が沼の草むらから飛び立ったように、その面影もまた、それを取り巻いている様々な醜い物陰から、離れ去ったもののようだった。彼女は再びうとうと寝入りながら、これを名残りにもう一度、信頼を込めた崇拝の念を持って、その面影にひしとばかり取り縋るのであった──目覚めさせられた魂の慎ましい情感、その優しい響き、その祝福と静まり。恋の初めての感動の蕩けるばかりの喜び。そういったものは何も、サラの胸の内にのみ存在していた訳ではない。
サラの情熱は、その日から始まったと言える。彼女はこの先忘れもしないだろう、その時彼女は初めて何かが成就した人間が感じる筈の、あの一種の気持ちと同様のものを味わった。つまり彼女は、もはや唯の大人でも女性でもなく、恋する人になったのだ。今、その日から彼女の情熱が始まったと言ったが、もう一つその上に、彼女の苦悩もその日から始まったと言い添えても良いだろう。プリドーはその内、天が目覚める時刻まで留まるようになった。いなくなったと思えば、ランニングを済ませた彼が戻って来たり、窓辺で匂いの酷いロシア煙草を吸いながら空を眺めていたり、フランス語教材に目を通していたり、と様々であった。もしサラが日記を付ける人間であれば、彼はそれにも全て目を通した事だろう。この朝も、彼は上着を脱いだだけの身軽な服装でランニングへと出掛けた。目が覚めた彼女は、ベッドの傍で主に置いて行かれた上着を見た途端、堪らない程に浮き浮きと誇らかな気持ちになった。今日の内に、再び彼は此処へ戻って来てくれるのだ。再び彼の深緑色の目を見る事が出来るのだ。のみならず、プリドーのキスの感触も身体一面にありありと残っていた為、彼女は見知らぬ興奮に身震いしながら彼の言葉を一つ一つ思い浮かべたり、自分の思い掛けない幸福を、筐底で愛で慈しんだりした。サラはその上着に手を伸ばすと、額や頬にそれを押し当てた。今生の別れ際、これを貰えないだろうか。彼から離れたくはないが、離れなければならない、どうしても、必ず。現にそうした新しい感覚の源を成した当の彼に会う事が、寧ろ怖くなり、出来る事ならば会いたくない、と思った程であった。もうこの上、何一つ運命から求めてはいけない。今こそ思い切り、心行くまで最期の息を吐き、そのまま幸福に死んでしまえば良いのだ、とそんな気持ちに見舞われた。そろそろプリドーが戻って来る頃と分かると、彼女は上着を羽織り、窓を開けて通りを俯瞰した。一瞥の強い魅力、躍動するスラヴの血潮、恵み溢れる愛の象徴が其処にはいた。
朝が訪れる少し前にプリドーは起床すると、サラのフラットを出て行った。仕事の憂さ晴らしに少し走ろうと思ったのである。からりと晴れた日で、天は未だ眠っていた為に美しい日差しは見込めなかったが、幸い暑さはなかった。快い爽やかな風が地上を彷徨い、凡ゆるものを戦がせながら、しかも騒つかせる程ではなく、適度にさやさやと戯れていた。川沿いのみならず、街の方へも足を運んだ。彼は自分を、幸福だと思っていた訳ではない。現に彼処から出た時も、思うさま憂愁に浸りに行くつもりであったのである。ところが軈て、青春や朗らかな天気、爽やかな空気やさっさと歩く快さ、茂った草が揺れて周囲に運ぶ香り、そうしたものの方が勝ちを占めてしまった。あの忘れられぬ言葉の節々や、あのキスの雨の思い出が、サラの名が、またもやプリドーの胸に込み上げて来た。兎に角、この冷酷な世間は、彼の思い切った勇敢な振る舞いを正当に認めずにはいられないのだ。彼はそう思うと何とも愉快だった。これぞ愚かな男、一人の小さな存在を愛したが為に地獄を見る羽目となる男、それは正にこの俺だ。彼女のフラットへ身体を向けた時、彼の頑健な肉体は軽快と、また剽悍と力を揮った。この瞬間には全存在が、彼の女神の方へ、ただ彼女の方へのみ、逆らう事は出来ぬ力で引き寄せられた。いつか、自分が彼女と並び、一つの災難に見舞われた時、自分の秘密を彼女に打ち明けなければならないのだろうか──彼はこの危惧を一時も忘れる事は出来なかった。すると、彼の頭の中が突然もやもやした、半透明の匂やかな靄に包まれたかと思うと、その靄の中で、近々と柔らかにサラの眼が光り、豊かな唇が熱っぽく息付き、歯が徐々に見えて来て、ほつれ毛が焼け付くように彼の頬を擽った。プリドーは黙っていた。彼女は神秘めいた、狡そうな微笑を浮べていたが、軈て、「私をじっと見詰めて、どうしたの?」と囁いた。彼は僅かに微笑した後、顔を背け、息を殺していた。
「見てエリス、太陽が昇ったよ」
「君は昇らないとでも?」
「こんな綺麗な太陽は見た事がないから、新しいものよ」
「久々に神が尽力したか」
「きっとね。でも、これでまた一日中暑い」
「そうなる前に出掛けるぞ」
「今直ぐ?」
「今直ぐだ。朝食は外で取ろう」
サラはきらきらと輝く木立ちの頂に眼を留め、まるで奇跡ででもあるかのように、プリドーに指差して示しながら言った。そんな彼女に、彼はのびのびと欠伸をしながら、気のない、暑さに対して忌々しそうな調子で返事をした。彼は心の中では、彼女と同様、日の出が嬉しくて堪らなかったが、自分の感情を隠すのを義務と考えたのだった。しかし、我先にと手にした上着に腕を通す颯爽さ、その姿を密かに捉えた彼女は笑いを堪え、この同様の太陽の下で愛し合う世の恋人達の事を思った。見知らぬ人、出会う筈ではなかった人、恋に落ちる筈ではなかった人。しかし、この世の何処に、貴方が私に話しかけてはならない法があるというのか。また、私が貴方に話しかけてはならない法があるというのか。そんなものは何処にもない、この燦然たる輝きの下には存在しない。外へと出た二人は、互いに手を取り合った。プリドーが下界で触れるのを許すのは意外な事であった。彼がふとサラの方へ身を寄せた。すると、彼は自分でも何故そうなったのか分からぬまま、相手の方へ顔を近付けた。彼女は避ける様子もなかった為、彼は彼女の手を強く握り締め、その唇にキスをした。

Daniel Caesar - Freudian