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Cry together



*THE GOLDEN CIRCLE

恋の機会に恵まれなかった女性がそうであるように、ジンジャーも、それが何であるか自分でも分からないままに何ものかを望んでいた。しかし、実は彼女は自分では何ものかを望んでいるように思っていたが、本当は何も望んでいなかった。彼女は一度外国で、きりっと引き締まった顔立ちで、青い目の綺麗に澄んだ美しい英国人に出会った事があった。その男性は彼女の胸に強い印象を与えたが、しかしそれも彼女が米国へ帰る事を引き止める力はなかった。それ以来、ジンジャーの胸には何の存在も住む事を許されなかったが、全きの突然の、不幸な、或いは傍迷惑とも言える形で、彼女は恋に落ちたのだった。彼女の中で"変な人"という、異性としては不名誉な位置を占めたのはマーリンであった。その変な人をふと思い出した時、彼女は彼と話した内容をもすっかり思い出し、クスッと小さな笑いを溢して、毎晩眠りに落ちるのだった。
米国人と比べて自己主張をしない人。誰よりも優秀で、現場工作員に感情的になるなと言う癖に、本人は無上の優しさを持ち、子犬も人間も、理由なしには殺せない人。マーリンが目を輝かせて興味を持つものと言えば、武器開発や科学技術といった専門分野だけで、他の事にはとんと興味を示さない。宛てがわれたオフィスに引き篭もりがちで、休憩とは言えない休憩を挟みながら、四六時中仕事に没頭している。ジンジャーは、彼とは私的な会話をした事が殆どなく、彼の方からやって来たと思えば、ステイツマンにしか持ち得ない技術に関する質問をし、難しい顔をして、それをどうにかキングスマンの方でも適用出来ないかと物思いに耽る。関心があるのは彼女自身ではなく、彼女の知識であった。凡ゆる工夫を凝らしてプライベートな時間を作り出そうとする米国人の扱いに手慣れている彼女にとっては、そんな態度が何となく、異性に対するマナーに反するような気がした。一言、何か言ってくれても良いんじゃない?『お礼に一杯奢るよ。今夜、空いてるかな?』くらい、言えない?私がその誘いに乗るか乗らないかは別として、それがマナーなんじゃない?私は放って置いても役に立つようなガジェットではないのよ。そんな気も知らずに、世界を救う事のみを考え、画面に映るキングスマン二人の情報にのみ意識を向けているマーリンは、正に尊敬に値する人物であった。ただ、異性という面で考えると、些か気に触る。彼に恋人なんてものはいない、とジンジャーは確信する事が出来た。しかし、それと同時に、米国人から見れば、彼のこの生真面目で面白味に欠ける性格、誰の目が見ても、揺るがぬ正義感を持つ聡明な心が、現段階では誰のものにもなっていない事が何とも嬉しかった。この彼を幸せにしたいと思った。彼女は今まで誰かに幸せにして貰う事が殆どであったが、彼を見ていると、自分が彼を幸せにしてあげたいと思えてならなかった。彼は此処で働く人間と同様、才能を惜しまず発揮している割には凡ゆる面で報われておらず、また、本人はそれを特に気にしていないと言った風であった。
ジンジャーはその怜悧な横顔を、大胆にもじっと見詰めた。ステイツマンの技術に感嘆した子供のような顔、現場工作員のサポートに徹する誠意のある顔、時には英国風のブラックジョークを言ってニヒルに笑って見せる顔。どれも大好きだった。マーリンだから、どんな表情にも心臓が昂ったし、もっと凄い物を見せてあげよう、もっと有益な情報を与えてあげようと思った。でも何故、彼は独りなんだろう?こんなにも努力家で、仕事熱心で、慈悲深くて、紳士道を貫いている彼には何故恋人がいないのだろう?のみならず、高身長だからスーツは似合うし、髪がない分清潔感があるし、高価な衣服の下には現場工作員に劣らない程の頑健な身体もある。男性としてとても魅力的だ。なのに独り?孤独を伴侶とするエージェントはいるが、心の何処かでそれを克服したいと思っている。条件さえ揃えば、そういった人達の方が我先にと孤独を捨てるものなのだ。ジンジャーは、そうした心理を孕む自分の視線に、一向に気が付かないマーリンに痺れを切らし、ほんの遊び、いや、殆ど本気のつもりで彼の痩せた右側の頬にキスをした。ねえ、貴方は女性を決して傷付けないといった風だけど、無意識の内に傷付けてない?そう言われた事はない?もしかして、貴方は女性から告白される事を故意に避けているの?好きな人がいるから?彼女の大きな二つの眼に映った彼──彼はまるで彼女がそういった行為を仕出かすのを、さも予想していたように、その唇が離れるまで微動だにせず其処にいた。てっきり彼女は、彼が目を見開いて驚き、大きく背後へ身体を引く事を想像していたのだが、彼はそうしなかった。しかし、そんな彼に対する洞察力は、今の彼女、恋に身を焦がす彼女には残念ながら持ち得なかった。
「ごめんなさい、仕事中よね」
「いや……君がこんな事をするとは意外だった」
「もっと怒っても良いのよ」
「君みたいな女性にキスをされて、怒る男は居ない」
「その中に貴方は含まれてるの?」
「こう見えても私は寛大だ」
間違いなくマーリンは、ジンジャーの人生に大きな打撃を与えた。彼は彼女の心を捉え、彼女は絶えず彼の事を考えた。彼がいなくとも彼女は特別に退屈したり、特別に待ち焦がれたりはしなかったが、彼が現れると、途端に生き生きとなった。彼女は好んで彼と二人切りになったし、好んで彼と話をした。どのような会話になっても、やはり話を打ち切る気にはなれず、益々話し込んでしまうのだった。彼女は彼を試して彼を知ろうとし、また、そんな自分を知ろうとした。マーリンと出会った事が、特にジンジャーには幸福な前兆のように思われた。頭を撃たれた所属不明のスパイを救出し、スパイとは疑わしい程に丸切り善良な一般人に衣食住を与え、その壁に落書き……いや、知識を沢山記され困っていたところに、彼が現れた。彼は難なく施設入口のセキュリティをハッキングし、中へ侵入しては樽を斧で叩くといった悍ましい天然行為に走り、テキーラを激怒させた。しかも、勝手にノコノコと法を犯して侵入して来た割には、口悪く米国を侮辱し、結果としてテキーラに酒を掛けられた。だけど……椅子に縛られ、助けを求めるように自分を見た深緑色の目、同僚と思しき記憶喪失者に礼儀を弁えた挨拶をした彼、後方勤務である自分の仕事振りを此処の誰よりも褒めてくれた彼。ステイツマンには君のような優秀なエージェントが沢山いるんだな。キングスマンも負けてはいられない。実は此処へ来るまでに仲間を大勢失い、残った自分はどうすれば良いのか全く分からなかった。彼等を……助けられなかった、全て自分の所為だと思った。しかし、此処へ来て少し気分が落ち着いた。仲間が居るというのは、やはり良いものだな。マーリンはジンジャーに胸の内を打ち明け、彼女はその言葉に虚偽はないように思われた。しかし、彼が考えている事はもっと他にある気がした。その静かな筐底にあるものは他人に見せない秘密主義。彼は笑ってはぐらかしながらも、今も尚、彼女と視線を真面に合わせずにいる。
「ねえマーリン、聞いて欲しい事があるんだけど」
「何だ?」
「私は幸運にも、貴方と一緒に此処で仕事をするようになってから、色んな事を貴方と話したわよね?だけど一つだけ、未だ私が触れていない大切な……問題があるの」
ジンジャーは未だに自分に注がれておらず、意識だけを自分に向け、マーリンが言った問う言葉に心を痛めながら、そう付け加えた。彼に告白すべきだろうか?自分に心底、興味のない彼に。思ってもいなかった考えがふと彼女の胸に浮かんだ。この瞬間、どのようにしてかは分からないが、突然、自分が憂鬱な訳が分かった。この一種独特な、変わった憂鬱な気分は此処数日ずっと、というよりかは、最近になってずっと彼女を悩ませていた。いつからかこの憂鬱に取り憑かれ、それがどういう訳か、一向に離れてくれなかったのだ。ところが今、全てを察し、一切が明瞭となった。ジンジャーはまるで自分の心臓が負った怪我を癒すように、毒の孕んだ血を吐き出す気持ちで言葉を続けた。誰かを幸せにしたいと思う事はこんなにも辛い事なのだろうか?いや、そうではない。マーリンが幸せにしたいと思う人は他に居て、その人と幸せになりたいと思っているから、自分はこんなにも辛いのだ。私が捧げるものは何一つ、彼は要らないのだ。
「私は随分と変わったわ。これは貴方には分からないかも知れないけど、私は本心から、この変化は貴方の御蔭と思っているのよ」
マーリンはその切ない声を真摯に聞いた。ジンジャーの澄み渡った眼を見る事が出来ないのは、彼女の言葉が放たれる度に、彼の固く閉ざした心の扉を強く叩く為であった。彼女の気持ちには当然気が付いていた。彼女自身が自覚するよりも早く、その愛情の存在を、節々に見られる眼差しや気遣いなどで分かった。仕事の話ばかりをし、至って常軌から逸する事のない質問をし、話が終われば颯爽と辞する自分にある種の不満を抱いている事も知っていた。しかし、嫌われるどころか、彼女は自分を愛し始めたのだ。その事実には些か驚いたが、落ちてしまったものはどうしようもない。此方が下手に動けば動く程、相手は深みに嵌まってしまう。それが恋というものだ……自分が良く知る、何よりも熟知し、今も尚、無限の苦しみを味合わされているものだ。この女性となら、直ぐに自分は幸福になる事が出来るだろう。彼女は自分を愛していると言う。本当にそうかも知れない。彼女は私を愛している。確かにそうだ、私を愛している。しかし、私はどうだろうか。マーリンは自分の心臓を締め付ける非情な存在、美しい響きの名を持ち、息を呑む程に完璧で、それと同時に脆い存在を、さも眼前に居るかのように見据えた。言ってはならない。一言も、あの人に関する事は口にしてはならない。もし言ってしまえば、自分はどうなるか、自分はどうなってしまうのか分からない。
「ジンジャー、私は……ある一人の為ならば死んでも構わないと思っているんだ」
「それは、」
「その人が完全に救われるまで、傍にいたいと思っている」
「それは、誰?」
私があの魂を闇の中から救い出したのは、神への讃美と愛との為に他ならなかったのだ。この仕事を託し給える主は讃むべきかな。ジンジャーはふと思った。マーリンはそんな風に考えているのだ、彼女の事をそんな風に見ているのだ。彼女……というのは、もう誰か知っている。思えば、自分は随分と前から知っていたように思える。それなのに何故、自分はそんな事をわざわざ彼に聞くのだろう?自分の告白に、首を縦に振ってくれない彼を苦しめたいのだろうか?彼が片想いなのは一目瞭然。振り向いてくれない彼女を大切にしている彼が気に食わないから、彼の口から、彼を苦しめているその名を言わせたいのだろうか?私も彼と同じように苦しんでいるから、それを彼に分からせたい。けれど、彼は自分よりも遥かに深い苦しみを知っている。彼が私のこの胸の内を知る事があれば、彼は笑うだろうか。そんなもの、苦しみの内に入らないよ、と。
「マーリン、その人って誰なの」
「君の知らない人だ」
男の眉間に深い皺が寄るのをジンジャーは見た。重病人のようだった。『完全に』とはどういう事だろう?他の誰かに彼女を幸せにして貰おうという気でいるのだろうか。自分では無理だから、自分では彼女を幸せに出来ないから、彼女が他の誰かと幸せになるまで自分は独りで良いと?そんな救いのない選択、しなくても良いじゃない。振り向いてくれない人は、この先もずっと振り向いてくれないわよ。もしかして、貴方はその苦しみさえも愛だと思っているの?痛む心臓が何よりの証拠、自分が彼女を無上に愛しているという証拠としているの?彼女は貴方に何も与えてはくれないから、そうしているの?今、私の愚かな問いの数々が貴方の心を虐めているみたいだけど、彼女に比べたら私なんて可愛いものよね。だって、貴方は眉間に皺を寄せたけど、そうさせたのは私じゃなくて彼女なんだもの。彼女は現に此処に居なくても、何処に居ても、貴方の魂を繋ぎ止めているんだから。
「嘘吐き。それはサラでしょう?」
途端、マーリンの横顔をある影がさっと走り抜けた。この人は表情の変化を隠す事が苦手なばかりに、却って私を傷付ける。嘗ての恋人でさえ、私をこんなに傷付ける事に成功した人はいなかったのに。ヘレネー、サラ、如何にも俗物らしい上流階級英語を操り、重味があると思ったら、人懐っこい笑顔を浮かべて色んな人と仲良くなる。彼女がどんな事を押し隠しながら、どのように生きて来たのか、私には分からない。二人がどういった仲なのか、唯の同僚なのか、一時的な関係なのかも、私には分からない。だけど、彼の限られた時間を浪費させている存在、彼の感情を消耗させ、彼の深い愛情を共有している存在には変わりない。何故貴女は、彼を愛さないの。何故貴女は、彼を幸せにしたいと思わないの。何故貴女は、彼を傷付けるの。──《マーリン》愛する彼の意識が、彼の清らかな魂が其方へ向いた。それはまるで川の流れ、逆らえない万物の流れ、神の摂理のように。凡ゆる方向へ張り巡らされている彼の意識を、瞬く間に攫って行く声。彼が望んでいる唯一のもの、彼自身の命よりも救うべきもの、彼自身の名よりも守るべきものが現れた。
《ガラハッドの調子、未だ戻っていないみたい。本当に元に戻るの?》
《ヘレネー、一々報告しなくても良いだろう。その内に戻る。それまで君が、私の分まで尽力すれば済む話だ》
「……二人共、さっさと離脱しろ」
マーリンは通信を再び消音にすると、遂に身体と顔をジンジャーの方へと向け、彼女の視線を真っ直ぐに捉えた。二人は一つのキーボードを操作していた為、向きを変えた彼の両膝は彼女の太腿に当たり、また、高い位置にある、鋭いが親切で潔白な目が彼女を見下ろした。もう先程の険しい表情は其処にはなかった。彼は、次の言葉で一切を終えようと決めた。この口から、もう二度とあの人の事は他人には言うまい。ただ自分の魂に語る時のみ、あの人の前に立った時にのみ……。サラの姿、あの不可解な、しかし魅力ある面影が、余りにも深く彼の心の中に宿ってしまっていた。彼は結婚については勿論考えもしなかった。このようにして、花も咲かず、実りもなく、早く、恐ろしい程に早く、数年の歳月が過ぎた。恐らくこれからもそうなるであろう事は、彼には分かっていた。
「君にはこんな事、どうでも良い事だろうが、これだけは知っておいて欲しい。私は彼女を、この世の誰とも見替えようとは思わない」
サラの事を思い出すと、まるで自分は病める心に薬を塗ったようになってしまう。彼女の為に苦労をしても、彼女の為の苦労ならば、ちっとも苦しくはない。彼女の為ならば、どんな苦労も引き受ける。しかし、彼女の代わりにそうなりたいと思っていても、彼女は自分にそんな事を望んではいないのをマーリンは知っていた。その優しさが、自分を利用しようとしないその仲間思いの心が、却って彼を苦しめていたのだった。もはや彼には、恋の苦しみしか残っていない。彼は思わず口から出てしまった自分の言葉に怯えたらしく、ジンジャーの視線から逃れるように、画面へ視線を戻した。