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Only the wasteful virtues earn the sun



次の休日、プリドーは他人を乗せた事が一度もない車でサラを迎えに行った。彼女は殆ど遠くへ行った事がないように見えた為、何処かへ連れて行ってやろうと思っての事だった。一応、彼女は車を運転出来るらしいが、彼の目には運転とは無縁の人間に思われた。車を持たない人間であればそうなる事は必定であるが、助手席や後部座席に大人しく収まる女性、という印象を最後まで拭えなかった。いつも友人や恋人に運転して貰っている為かも知れない──ああ、そうか、恋人はいないんだったな。プリドーは田舎を目指して中古車を走らせた。田舎道にのみ許されたこのスピードを顧みない走行は、人間の世というもの、いい加減で、がさつで、茶番で、喧嘩好きである事を思い出させてくれるものであり、また、勢い良く背後へと流れる景色は幻覚そのものであり、自分の気を確実に狂わせに掛かるあの暗澹な世界の存在を忘れさせてくれるものであり、彼は大いに楽しんだ。それに加え、今はサラが隣にいた。あの世界と自分とを切り離し、退屈だが若々しい生命力に溢れ漲っている現実世界と自分を繋ぎ止めてくれる唯一の存在。彼女も自分と同様の気持ちであるらしく、髪が乱れる事に構わず窓を開け、腕を出したり、何かを叫んだりしていた。そして、何もない田舎道をこの世の何よりも美しいものと見ており、彼女は引っ切りなしに「綺麗」、「素敵」という言葉を使った。それがプリドーには有り得ない事であった。彼女のような一般人、現実世界に生きる人間は、このような景色を見て心を揺るがすのだが、彼が生きている世界ではそういった事をしても良いと心に許しを与えないのである。そんな彼女を心乱れる程に、魅力的だと感じた。アクセルを踏む右足、クラッチとギアを操る左手足、ハンドルを握る右手。エンジンの振動が伝わるシート。サラの笑い声。彼女の煌めく明眸、馥郁たる香り、血の通った言葉。君は何かを真摯に愛した事はあるか。君はこの世に何を求める。また、君の無上の恐怖、戦慄とは何だ。
プリドーの脳裡には常に、死体となった諜報員の無の表情と、死の淵にて生ける諜報員の蒼褪めた顔が入り混じっており、彼に本当の現実とは何かを示していた。しかし、死というものは今のところ、いや、もう随分と前から、彼にとっては衝撃を与えるものではなく、彼自身の命も徐々に細まりつつある事の確かめでしかなかった。今こうして呼吸し生きているのは、謂わば賭けのようなものだ。危機というものは決まって何かしらの前兆がある訳ではない。車を運転している時、人々の流れを眺めている時、何の予想も期待もなく立っている時、或いは座っている時に訪れる。我々諜報員は核心のない、詰まらぬ会話ばかりをする。一人は盗聴を注意しながら電話で話し、一人は死に瀕したも同然、一人は引っ切りなしに歩き回っている。落ち着きのない鼓動、無為な情報、暗号化された他国の餌。プリドーはふと思った。英国の敵、或いは自分の敵に囲まれ、幾つかの写真を見せられる。順番に見て行き、最後のある写真で竦み、身動ぎ一つ出来ない自分。惨めの極みの表情を浮かべ、敵が持つ非情な心が嘲笑する声を聞く。その最後の写真というのはサラである。彼女が自分の一部である事の証明、愚かにも心を許し、弱味を作ったという紛れもない事実。今し方まで大事な秘密にしておいた正に愛の夢が、突然人前に曝け出され、脅迫の種とされ、笑いものにされる自分──そんな自分がいても良いのか?今なら、そんな自分を作らなくて済む。彼女の面影は眼前にちらつき、動悸は落ち着いていたが、咽喉は痙攣したように締め付けられる思いだった。
暫くサラが顔を上げない事に乗じて、プリドーは彼女をまじまじと眺め始めたが、それも初めは盗み見だったものが、軈て段々と大胆になっていった。彼女の顔は、以前より一層魅力が増して見えた。目鼻立ちが何から何まで、実にほっそりと磨かれており、実に聡明で可愛らしかった。彼女は白い巻き上げカーテンを下ろした窓に、背を向けて座っていた。日差しはそのカーテンを通して射し入り、柔らかな光が彼女の髪や、その清らかな首筋や、流れ下る肩の曲線や、優しい安らかな胸の辺りに降り注いでいた。プリドーはじっとサラを眺めている内に、彼女が何とも言えず大切で、親愛なものに思えて来たのだった。彼は、もう随分と前から彼女を知っており、彼女と知り合いになるまでは何一つ知りもせず、生きた甲斐もなかったような気がした。彼女は着古した地味な色合いの服を着ており、彼女の靴先がその服の下から覗いていた。階段でよく打つのか革が剥げ掛かっており、踵も擦り減っていそうな代物であった。彼女は此処から出た事がないのだろうか。週末には遠出に出たり、外国を気の向くままに放浪したりしないのだろうか。俺が熟知している世界の嘘の表面でも、見た事はないのだろうか。そう思うと、彼は今直ぐにでも彼女を此処から連れ出したい気持ちに駆られた。凡ゆる世界の姿、美しいものもあれば醜いものもある姿の一部分を、彼女には美しいと思える世界のみを見せてあげたいと思った。そして、遂に自分はこうして堂々と彼女の前に座っているのだ、とも彼は思った。俺は彼女と出会ったのだ……何という幸福、或いは恐怖だろうか。
「──どうしたの?エリス」
「いや……この前はすまなかった、君に酷い事を言った」
「良いの。私の方こそごめんなさい、貴方の車に八つ当たりしてしまって」
「案外、君は力が強いんだな」
「川までレコードは投げられないけど。弁償するから修理に出してね」
こう言ったサラの声は、優しいと共に寂しげであった。しかし、彼女の顔を輝かせていた微笑は、そのまま如何にも澄み切った美しさを見せていた為、プリドーは、彼女に対する猜疑や自分が過度にしている自己防衛の数々を恥じた。彼には、彼女の声の奥に潜んでいるように思われる寂しげな余韻も、要するに自分のそうした態度によるもののように考えられた。日の光に燦めかせながら、自分を真っ直ぐに見詰める宝石宛らの瞳。灰色というのは、厚い雨雲や細波すら立たぬ冬の湖を連想させ、虚空を思わせる色である。しかし、サラの魂の色であるそれは正に情熱の色、法悦の色であった。彼女の言葉は、真面目で底意のないものであるように思えた為、プリドーの筐底に残っていた猜疑の最後の残滓を吹き飛ばしてしまった。彼は彼女と細やかな口論となった時の事を想起した。彼女と距離を置こうと自己防衛が齎した言葉が、思いの外彼女の心を傷付けてしまい、感情をそのまま口に出来ない彼女は、利き手で車のボンネットを叩いたのである。それ程に音はしなかった為、単なる怒りの訴えかと思った彼であったが、太陽の下で見た際には二ポンドの硬貨程度、しっかりと凹んでいた。彼は何故か車を修理に出さなかった。面倒という心情が大部分を占めていたが、その傷をふと見た時、いつも彼は目を細めて小さく微笑してしまうのだった。その心理を、彼は自ら分析しようとはしなかった。以前、彼女によって抓られた手の皮膚は、小さな痛みこそ記憶しているが跡形もない。しかし、鉄は凹むと修理しない限り残ってくれる。こういった下らぬ心理の自覚を、彼は恐れていたのであった。

何故この世界が創造されたか、という問題がジェイムズ・プリドーの興味を惹く事がなかったのは、その世界でより良く生きるにはどうすれば良いかという問題が、常に彼の念頭にあったからである。来世についても、これまで一度も考えた事がなかった。というのは、祖先から受け継いだ、確固たる揺るがぬ信念を、心の底に秘めていたからであった。つまり、動物や植物の世界には終わりというものがなく、肥料が穀物になり、穀物が鶏になり、毛虫が蝶になり、団栗が樫の木になるように、常に一つの形から他の形に変化していくが、人間もそれと同様で決して滅びる事がなく、ただ形を変えるだけに過ぎないという確信を持っていた。プリドーはそれを信じていた為、いつも勇敢に死を直視し、死に至らせるような苦痛を毅然として耐え忍んでいたが、その事を他人に話すのは好まず、また至って話下手であった。彼には働く事しかなかった為、いつも実践的な仕事に従事しては、そうした実践的な仕事に同志達を引き入れていた。全く彼の手に掛かると、全てがいつでも造作のない事になるのであった。しかし、サラの眼には、彼は重病人のように見えた。神経が昂り疲れ切っており、その様子を見るだけで心が痛んだ。どのような事情が彼の肩に乗っているかは詳しく知らないが──彼はいつも黙り込んでいる為、彼の言葉からは推察する事も出来ない──彼の仕事は他の人間と全く異なり、何かに心を悩ませている事だけは分かった。彼はいつもただじっと考えていた。
『ハロー、ジェイムズ・エリス、ジム・ボーイ』とプリドーの顔を見る度に呼び掛けていた、サラのあの軽快さは今では全く失われていた。彼と小さな逢瀬を重ねる内、そうして呟く事に心の隙間を作っていた彼女はもう何処にもいなかった。言葉が浮かんで来ないのだ。彼の姿を遠くから一目見るだけで、彼に対して何の感情も抱かないように自分の心に掛ける、ありと凡ゆる言葉はすっかり影を潜めてしまうのである。ただ脳裡に浮かぶのは、彼の声色やあの物憂げな深い緑色の眼差し、火打ち石並みに硬い心の奥にある無上の懊悩であった。サラはそんなプリドーの面影を念頭から追い払いたかった。そして、その面影は彼の姿を見ていないところでも浮かび始めた。心臓の鼓動が余りにも激しくなった為、得体の知れぬ、自分に迫り来る危険が抜き足差し足でフラットの階段を上がって来たとしても、聞き逃すのではないかと心配になった。しかし、事実そのものは分からないながらも、彼女は普段の数倍、色仕掛け任務には不要な程度に、敏感に全てを感じ取っていた。彼女は彼から真っ当な苦情を受けたマーラーのレコードを流すと、椅子に腰掛けた。彼との別離は必定だ。けれど、彼が私の声や容姿を忘れても音楽なら忘れない。彼がいつかこの旋律を聴いた時には、私の事を思い出すだろう。それが彼にとって幸福な思い出なのか、それとも不幸なものなのかは分からないけれど、そうなってくれたら嬉しい。サラは窓の方を振り返った。川の遠くには海が、視界を限る線の一際濃い暗さによってそれと判じられた。彼女はただ疲労のみを感じながら、しかも同時に、あの風変わりな、しかしまるで兄弟のような気のする人物に、もう少し心を打ち明けてみたいという突然の不条理な欲望と戦っていた。彼女もプリドーと同様、自分の心の中を覗いて見るのが怖かった。あの人は御世辞は言わないし、時折思い切った意見を吐く。彼女はこれまで出会った事のない、何か新鮮なものを彼に見た。また次の休日に会えたら、私はどんなに気が晴れる事だろう。私はどんなに貴方の事が、貴方の事が好きだろう。サラはすっかり喜びに包まれた。この薄汚いフラット、川の生臭い匂いの通り道である、息が詰まりそうに狭い部屋、今までの自分の人生に何の安らぎをも与えて来なかった筈の安価なベッドの上で、彼女は幸福というものを知った。此処が自分の生まれた家で、懐かしいベッドの上で、親切な手が拵えてくれた夜具を被って眠っているように思われ、何とも言えぬ良い気持ちであった。もしかするとあの優しい、善良な、疲れを知らぬ乳母の手が、この夜具を拵えてくれたのかも知れない。きっとそうだ、そうに違いない。彼女は私と彼を見守ってくれているのだ。サラは乳母とプリドーの声を思い出してほっと息を吐き、彼女には冥福を、彼には僥倖を祈った……自分の事は祈らなかった。

Teddy Pendergrass - Close the Door