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The sun one day will leave us all behind



ハロー、とサラは頭の中で呼び掛けた。ジェイムズ・プリドー、ジム・ボーイ、下賤の身と陰で言われている首狩人さん。貴方の火打ち石並みに硬い心に食い込む予定の女よ。今から貴方のその炯眼に映るから、仲良くしてやってね──実際に眼で捉えたプリドーは、正にアスリートという言葉に相応しい人間であり、毎朝川沿いをランニングするという習慣を持っていた。一月の上旬の間、寒気が例年にない頑強さで居座り、町の上空に宛ら結晶したかと思われた。しかも、嘗てこの時ほど空が晴れ渡っていた事はなかった。来る日も来る日も一日中、冷え冷えと晴れ渡った微動もせぬ空の輝きが、絶え間もない光線を町に注ぎ掛けた。そんな景観の中で、二つの魂は出会った。プリドーはエリスと名乗った。それは彼が持つ数ある偽名の一つであり、その事を既に知っていたサラは、プリドーという美しい名を念頭から消し去る為に、故意に「エリス」と鸚鵡返しに口から出した。それからというもの、彼女はジムという名よりも、偽りのエリスという名を好んで使った。その名は正にプリドーという人間、嘘で塗り固められた人間そのものを表していたからである。
フラット住みの家庭教師兼子守りという身分を与えられたサラは、出勤時間をプリドーのランニングの時間と合わせた。会釈だけの挨拶や、立ち止まって取るに足らない会話をする日もあれば、彼の視界にちらと、さも急いでいるといった様子で映る日もあった。彼女の服装や鞄の大きさ、時折腕に抱えている本の種類で、彼は彼女の仕事を容易に知る事が出来ただろう。案の定、彼は自分の信用に値するか否か、また、腕が鈍らない為の暇潰しとして、彼女を尾行した事が何度かあった。そんな彼の自己防衛行為に、彼女は幾らか安堵を覚えた。興味というものは少しでも生まれると、中々心から立ち去ってくれないものである。しかし、その僅かな興味を萎えさせる事は決してしてはならない。微風でも遠くへ吹き飛ばして行ってしまい、二度と戻って来ない為である。サラは背後から熱い視線を感じながら、帰り際、生徒の自宅玄関にて少し立ち話をした。幸い、マーリンが用意した子供は早々に彼女に懐いた。授業中、問題が一つ解き終わると、巻き込み型の雑談に走るという質を生徒が持っていたお陰で、この通り仲良くなれたのだった。プリドーには彼女と生徒の声は聞こえなかったが、口の動きから二人の話ぶりを傾聴した。彼女は如何にも控えめに、しかも立派な朗らかな態度で終始、会話を楽しんでいるように感じられた。また、彼女に絡んでくる生徒に対し、分け隔てなく対等に、まるで友人のように話す事が、取り分け彼が気に入ったところであった。子供の懐へ最短で入る方法を知っている家庭教師。フランス語のみならず凡ゆる分野に精通した知識を持ち、良い成績で大学を卒業したにも関わらず、金の稼ぎ方を知らぬしがない知識者。彼が持ったその有り触れた印象は、思わぬ具合で彼の中で特別な位置を占め始めた。現在、プリドーが身を置く世界では、現実世界で言うところの有り触れたもの、横道に逸れた形跡のないものといったものは何一つない。潔白過ぎても却って怪しまれる世界では、サラのような存在は非常に危険である。しかし、この現実世界ではその限りではない。このように退屈な人生しか、此処には存在しないのである。彼はそんな人生を歩み、満足している彼女を少し蔑みながらも憧憬を抱いた。他人の人生を覗き、弱味を握る彼のような人間と、他人の人生を覗く術を知らぬ彼女のような人間。彼はすっかり朝の象徴となった彼女を避ける事はしなかった。寧ろ彼女に会えるだろうか、と思い、彼女の急ぎ具合によっては話は出来るだろうか、とも思った。

休日であってもプリドーはランニングに出掛けた。言うまでもなく、起床時から彼の念頭にあったのはサラであった。しかし、些か体調が優れなかった。連日の激務で殆ど眠っておらず、後頭部を棍棒で殴られたような頭痛もしていた。そんな男を不憫に思ってか、天は恵みを齎した。彼が望んでいた彼女は、川沿いのベンチに座って本を読んでいたのだ。彼女も休日か、と思い、橋を渡って対岸へと移動した。その間、彼の目は彼女にのみ注いでいた。彼女のようにゆったりとした動作をする人間、サーカスには存在しない、時間を浪費する鈍い人間は、唐突に追跡者の目から逃れたり出来る筈はないと分かっていながらも尚、視線を離さなかった。長年の癖より、彼女が成し得る符牒というものを見付けようと探ったが、そういったものは全く見られなかった。それにしてもこんな寒い中で本を読むとは分かり易い。プリドーは、サラが自分に話し掛けられるのを待っているのだと分かった。照れからか、本から顔を上げて自分を探す事をしない。早く声を掛けてやらねば、彼女の身体は冷え切ってしまう。傍で立ち止まった彼の姿を捉えた途端、彼女は眼を輝かせ優しく微笑みながら、じっと彼を見詰めた。彼女は自分でその微笑を隠そうと努めているようだったが、全く報われてはいなかった。彼は、彼女の瞳の色が灰色である事は知っていたが、日の光が差すと宝石宛らの銀色に輝く事は知らなかった。待っていたのだ、と彼は思った。此処で俺を待っていたのだ。恐らく本の内容は微塵も頭に入ってはいないだろう。
「おはよう、エリス」
「おはよう。今日は休みか」
「ええ、貴方は?」
「俺もだ」
「顔色が悪いようだけど、大丈夫?」
立ち上がったサラはプリドーの顔を覗き込んだ。凡ゆる角度で自分の顔を見ようとするその行為が、何とも不可解で可笑しかった。幾ら真面に見ても体調は良くならない。しかし、そういった行為をするのは、相手の事を気遣う気持ちがある為だと彼は理解をしていた。人間の温もりというものが、惨たらしい程に明瞭に彼の頭に浮かんだ。
「大丈夫だ」
「朝食は取った?」
「いや」
「良かったら私の家でどう?エリスの体調次第だけど」
「風呂を借りても良いなら」
サラのフラットは川沿いから近い。彼女はあれこれ言葉を添えながら案内して見せたが、プリドーの来訪は今回が初めてではなかった。既にその地形、フラットの構造、住人の個人情報は既に頭に入っており、此処で暮らし、真面目に家賃を払っている彼女よりも熟知していた。ただ、彼が厄介と思う事が一つだけあった。自分の顔を住人に覚えられる事である。しかし、そのフラットには出口が二つあり、数が少ない住人は互いに顔を合わせる事が殆どない。大抵入口に鎮座している管理人も、怠惰な性格の外国人の為に静かに座っている事がない。仄暗い階段には遊びに夢中になっている他所の子供がおり、訪問者には全くといって良い程に関心がない。時代に似合わず監視カメラが存在せず、セキュリティ的に大問題なフラットであったが、職業を公に出来ないプリドーにとっては好都合であった。彼は自分に訝しげな視線を投げ掛ける住人に出会す事なく、サラの部屋へと入る事が出来た。鍵付きの扉の向こうは流石に初見であったが、間取りから想像したものに反駁を加えるものは其処にはなかった。スパイにとって家は唯一の心の拠り所である。こうやって簡単に見せるものではない、と彼は心中で彼女に教えながら、想像通りの部屋を密かに隅々まで観察した。写真や植物、絵画といった所謂情緒的なものが一切見当たらない。金が掛かっていない家具、美的感覚とは皆無の、拘りのない適当な配置。掃除がし易いようにか、小物が視界に入らず、全て何処かに収納しているようであった。部屋の匂いは柔軟剤と微かな香水のみの為、煙草とは無縁。頻繁に開けて歪んだ扉がない為、飲酒を殆どしないか、或いは下戸。こんな監獄のような部屋で一体何をするのか──読書と空想か。それと誰かからの贈り物であろう、埃が被っていない高価なレコードプレイヤー。バスルームへと案内されたプリドーの思考は其処で終わったが、それ以上の観察は無意味に思えた。平凡な一般市民、という認識が更に強まっただけであった。

プリドーは、以前行った観察に何一つ間違いはない事が分かった。サラの部屋で過ごす内、それらを覆す出来事は何一つ起こらなかったからである。彼女にはどうやら空想癖があるようで、表情を変える無限の空や、自然の流れを見ている事が多い。彼女の娯楽とは一体何であろうか。音楽や本だけではこの世は退屈過ぎる。運動も嫌いなようだ。恋人が数人いても不思議ではない。この家に男の影はないが、彼女が自ら出向いているのかも知れない。人間誰しも秘密を持っているものだが、それが彼女の隠しているものだろうか。凡ゆる男と分け隔てなく、躊躇いもなく愛し合ったりするのだろうか。しかし、こればかりは実際に彼女の身体に触れてみない事には、確かな事は何も分からない。
「君はマーラーばかり聴いているが、他のは聴かないのか?ほら、傍にいるシューベルトやバッハが虚しい目で君の事を見ているぞ」
「彼が一番だから、他の人には眼もくれないの」
「浮気しないのも考えものだな。聴き過ぎて、この音調が頭から離れないんだ」
「良かったじゃない」
「貸せ、川に放り投げる」
「真逆、此処から?」
「余裕だ、風向きも完璧。君には無理だろうがな」
マーラーの齎す旋律がサラの全てであるならば、当然プリドーにとってもそうなった。この音楽が鳴っていない時には彼女の笑顔が思い出され、この音楽が鳴り始めると彼女の少し疲れた表情を思い出した。レストランやバーで他の音楽が流れていると、お前等はマーラーを知らないのか、といった風につい考えてしまうのだった。カートリッジを引き上げ、レコードを取り上げようとすると、彼女の白皙の手が無礼者の日焼けした手に触れた。それは触れたくて堪らないといった人懐っこい手ではなく、他人に触れる事に慣れていない愛情不足の手であった。やはり彼女にはそういった恋人はいない。彼の中で高潔という言葉が新たに加わり、彼女は高潔だが平凡な一般市民、という認識となった。サラはプリドーの痩せた手に張っている薄い皮膚をくいっと摘んだ。痛くも痒くもない。だが、その一瞬だけ小さな衝撃を受けたその皮膚が再び元に戻ると、驚くべき痛みで持って主に知らせたのであった。じんわりと内側に響き渡る疼痛。他人に殴られた時のあの鈍い激痛よりも、その小さな痛みは何故か、この旋律と共に記憶に残るものだった。

Mahler - Adagietto