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Scatters your force



「現在就いている任務とは別に、新たな任務を君に任せたい──マーリン、説明を」
「ジェイムズ・プリドー、英国情報部員。この男に接近し、サーカスが定期的にする秘密会合の日程を探って欲しい」
一つの液晶に収まるよう省略された人間の経歴が表示されると、サラは痛みの歴史と心の内で呟いた。チェコとノルマンの混血、濃いスラヴの血。少年時代より政治活動に携わり、名門大学を卒業後、運動能力の高さからMI6にスカウトされる。従軍と教師の経験あり。サーカス就職後、暴力や暗殺などの危険な任務の為に、無鉄砲で気性の激しいエージェントからなる首狩人の責任者に任命される。プリドーの軍人としての素養、厳格な態度、洗練された能力が発揮され、組織は彼の指揮下で次々と功績を上げる。MI6の近接戦闘の指導官曰く、十分な用心が必要──このターゲットを短期間で落とさなければならない。謂わば同業者、これまで経験した人種とは大きく異なる。隙を見せれば此方側を覗かれ兼ねない。マーリンは言葉を続けた。秘密会合とは一分間程度のものであるという。国内外問わず、顔写真或いは視線や符牒といった外見のみを頼りに相手との接触を図る。それには頻繁にプリドーが使われている為、彼の大まかな行動日程を把握出来る人間、可能であれば彼の家に出入り出来る人間が必要。職業柄、彼には監視の目があり、玄関や窓に細工をしている可能性が極めて高い。ハッキングの恐れがある為、ガジェット類は推奨しない。また、プリドーも電子機器不所持の為、ハッキング不可能。
「やってくれるかね?ヘレネー」
「勿論です」
毎回思う事だが、此処で断ったらどうなるのだろうか。もしかすると馘首より酷いかも知れない。機械的に抑揚なく、決まり切った返事をしたサラは、退出するアーサーからマーリンへと瞳を転じた。途端、彼の顔に浮かんでいる表情を看取して些か驚いた。その顔には所々に疲労の影が深く現れており、濁った二つの大きな目は、恐る恐るといった様子で彼女を見据えていたからである。そのようなぎこちない表情を浮かべるのは、この任務に対し、彼が何かしらの悪い予感を持っている為であった。また、それと同時に、その予感がどのような形であれ決まって的中するのであった。それは凡ゆる任務を外から眺めて来た人間にのみ培われる能力であり、任務を現場で完了させる人間には知る由もない。例え同様の予感が念頭を過ぎても、サラやハートには任務を拒む事は出来ず、その予感が自身に降り掛かって初めてそれと知るのである。彼女はその事を頭から追い払うと、マーリンから手渡されたファイルを開いた。管理者、サーカス幹部、プリドーの指揮下にある工作員といった、彼の人生に関わりを持つ数少ない人物の顔写真と経歴が、其処には記されてあった。それらに素早く眼を通すと、サラは再びプリドーの頁へと戻った。風采は長身で猫背気味、顔は痩せた面長で無髯、顰めた眉の下にある凡ゆるものを射抜く大きな目、長い鼻、一文字に結んだ薄い唇などがスラヴを彷彿とさせ、氷宛らの冷静と剃刀宛らの叡智を示していた。しかし、影に潜む事を得意としている為に存在感がなく、男性的魅力といったものとは程遠い。薄幸からか、実際の年齢よりもやや老けて見えた。上機嫌というよりも不機嫌の時が多そうであり、無駄な事を嫌い、短く正確な文章で話すだろう。だが、そのような人間には珍しい事に、期間は短いながらも教師の経験がある。何故教師をしようと思ったのか、恐らくこの道を進んでいなければ教師が夢であったのだろう。であれば根っからの厳格者ではなく、基本的には親切で、特に子供には親しみを感じる性格であるかも知れない。未だ接触していない為に確信は出来ないが、プリドーが持っているであろう深い寡黙さは、彼の温情的性格に薄情な仕打ちをする世の中で、心ならずも職業的制服の如く身に付けているものなのではないだろうか。思い遣りのある人間、いや、もしかすると善人でさえあるかも知れない。頁の下、控えめに設けられた備考欄には、サーカス内での人間関係が簡単に纏めてあり、その中に一つ、サラの頭に妙に残るものがあった。ジム・ボーイという渾名である。ジム・ボーイ、ジム・ボーイ……下っ端に使う渾名の響き、哀れな響き、期限付きの身分、虚偽や欺瞞に溢れた仕事。彼は何を恐怖としているのだろうか。また、彼はどんなものに心を惹かれるのだろうか。彼は実名を口にしないだろうから、これから先はプリドーと発音する事は一度だってない。しかし、プリドーといった、普段口にする事のない異国の美しい響きを、実際に音にする事がないと思うと残念でならない。
「『非武装推奨』って?」
「現場慣れした情報員は厄介で、型通りの事をしない。彼等は後方支援が皆無な為に、近付いて来る人間を自分で徹底的に調べ上げる癖を持っている」
「そう。じゃあ時計も駄目ね」
「残念だが。しかし指輪は見落とすだろう。他人の指輪まで熱心に調べる人間はいない」
「だと良いけれど」
「改良した物を君に渡す。位置情報と電流は今まで通りだが、心拍数を測定出来る機能を加えた。不規則な心拍が続いた場合には、救援要請が自動的に発信される」
マーリンの目には、サラは何とも形容出来ない気持ちであるように映った。ターゲットに好意を向けるという事を演じるのが得意なハートや彼女であっても、こういった類の任務については余り気乗りをしないようであった。キングスマンとて人類の一人に過ぎない為、人間的な感情からは逃れる事は出来ない。大抵の場合、最終的にターゲットを酷く毛嫌いするか、酷く気に入るかの何方かであり、演じているとその内、本当に恋に落ちる事もある。しかし、今回の任務期間は然程長くはない。一時の辛抱、何方かの感情に傾く前に任務完了となるのは明瞭であった。特にハートやサラといった、恋愛を無意識の内に遠ざけている人間は、ターゲットの心情には敏感だが、自身の心情には鈍感である。ターゲットの関心を唆り、ターゲットが恋へと落ちて行く正にその瞬間を、非情な目で俯瞰しているのだ。そういった有様を、媒体を通して散々見て来たマーリンだが、二人の手際の良さ、思わせ振りな言葉や微笑には思わずぞっと悪寒が走る程であった。ハートのように、演技するまでもなく他人を魅了するものを持ち合わせていたならば、自分はサラの愛を勝ち取る事が出来ただろうか、と何度マーリンは思った事であろう。また、彼女は彼女で、彼が一度も触れた事のない部分を昨日今日知り合ったターゲットに触れさせ、その手や唇にあのしなやかな手が触れるや否や、次の色仕掛けの際には別のターゲットを落としに掛かるのだ。『ねえ、マーリン。本当は私、ずっと貴方に触れられたかったの』と、彼女が言ってくれるのを夢見て、そしてそれを自ら潰やすという作業を繰り返した。彼女を愛して間もない男は彼女と夜を共に出来る。その一方で、ずっと彼女だけを愛し、大切にして来た自分は一度たりとも彼女と夜を明かす事が出来ない。そろそろあの肌に触れたって良い筈ではないか。しかし、マーリンにはそのような勇気もなければ、そもそもサラの恋人でもない。君は私のものだから、容易く他人に触れさせるな。そう思いながらも、彼女のブローチが拾う情事の音を聞く。自分以外の男の名を呼び、生命賛歌に励む。心臓が破れる音を聞きながらも、直接聞いた事のない彼女の悦びの声を記憶に留め、簡単に股を開く事を成功させる彼女を憎みながらも、殆ど使用した事がない身体の中心部分に意識を飛ばす。彼女をまた、そのような任務へと送り出さなければならない。この男、ジェイムズ・プリドーの元へ。
相手が存在しない、自分のみの単独行動を常としている者は、常に精神上の危機に晒されている事は言うまでもない。他人を欺く行動それ自体は、必ずしも痛みを伴うものとは言えない。これが自分の仕事であると認識し、経験を積むと、大抵の人間に獲得出来る能力であるのだ。秘密情報部員にとって相手を欺く事は、何よりも先に自分を守る為に必要な事である。敵というものは外部にのみ存在するのではなく、まず自分の心が天敵なのであり、これと闘わなければならない。いつ何時襲うかも知れぬ衝動から自分を守る事が大事なのだ。思い立った事をそのまま口にしたり、本来の自分の姿を曝け出したり、どれ程に愛情を注ぎ信じている相手でも、遠退いたところに自身を置かなければならない。その事を、眼前にいるサラは異常なまでに心得ている。本来の彼女の人格は無いのではないかと思える程、それは微かに揺蕩っている程度であった。故に、こういった類の任務は適任であったのだ。
「その秘密会合とやらには潜入しなくても良いの?」
「ああ。短時間からして恐らく物の受け渡しだろう。ターゲットが其処に何を持って行ったか、或いは何を持って帰って来たかまでは調べなくて良い。君まで出国すると怪しまれる為、此方で現地エージェントを配置させる」
「そう、分かった」
「サーカス側も秘密会合に関しては敏感になっているようだから気を付ける事だ。ターゲットは管理者から一目置かれてはいるが、監視されてもいる。何かあれば……と言っても連絡手段は限られているが、私は君の後方支援担当だ、ターゲットには持ち得ない……だから何であれ連絡を」
「ありがとう、マーリン。色仕掛け如きで命を絶やさないように頑張るわ」
人間の心に触れる事を極端に嫌う、殺しの経験が豊富な同業者。海外常駐工作員が行うには汚過ぎる、或いは危険過ぎる荒仕事を引き受ける首狩人。果たして上手に事を運べるだろうか。いや、自分の首を繋げる為にも、何としてでも有終の美を飾らなければなるまい。そのMI6指導官の言う通り、"用心"をしつつ……。サラは独り言のように言ったが、顔は如何にも気のなさそうな冷たい表情となり、まるで雲の上へでも逃避してしまったかのようであった。『そんな事で君の命を絶やせるのであれば、プリドーに此処で教鞭を執って貰おう』と、マーリンは言おうかと思ったが止めた。その詰まらない言葉を押し退けると、再び彼の念頭に姿を現したのが、あの悪い予感であった。どう考えてみても、自分の心が沈んでならない色仕掛けというもの。それはこの任務が完了となるまで幾度も、サラがターゲットと身体を重ねる事を想像するからではない。彼女がターゲットの事を気に入ったり、それどころか更に悪い、恋に落ちたりする可能性の懸念があった為である。こういった類の任務はある意味で、偵察や暗殺よりも危険なものであり、人間の感情が大いに働くものである。随分と昔に、アーサーが自分に投げ掛けた言葉をマーリンは思い出した。女が男に惚れるとどうなるかは君もよく知っているだろう──ええ、知っていますよ。洗脳の如く巷で定着している恋人ごっこを全てし尽くした後、自分の肩にのし掛かっている定めをふと思い出す。これが架空の関係である事を再認識した途端、女からは笑みが消え、目の輝きが失われ、架空の悩みに心が破れ、再起不能に陥る。ええ、よく知っておりますとも。私はそんな彼女達をこの目で見て来ましたから。ですが、純白なること新雪の如しとは正に、サラ・バラデュールという女性の為にある言葉です。現実世界から遠く駆け離れたところにいる彼女は、人を好きになったり、人の心を自分のものとしようとはしないのです。私の知る彼女は、他人に心を容易に捧げたりしないのです。彼女は今回も、何事も成し得なかったような顔をして此処へ帰って来る事でしょう。右手には情報を、左手には無情を持って。しかし、人間の心というものは測り知れぬものである。それが例え自分のものであっても未知なるものであり、またそれが他人のものでも同様である。人生は理屈ではない。ほんの些細な出来事がその心というものに作用を働かせると、何かしらの結果を生ませるのだ。その点に於いて、魔術師と謳われているこの男は見縊っていた。孤独を伴侶とする人間を知っているようで、理解していなかったのである。そういった人々は長期に渡り、根気よく堕落の淵に沈湎しているが、貧窮や孤独といった凡ゆる苦しみの内に、本当の姿を覗かせるところがあるものである。人間の心の暖かさを求め、常に生命力を分散させているその胸に、今一つの魂を抱き締めたいと望む夜があるものなのである。

Anthony Hamilton - Charlene