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Come to dust



*THE GOLDEN CIRCLE

「最後に、サラにもう一度会えないかな。彼女に伝えて欲しい」
静かな悲しい願いというところで、昨日の正午のあの満ち溢れた様子は微塵も見られなかった。それと共に、自分の願いが叶えられないものと思い込んでいる気配がマーリンには感じられた。そんな言葉に快く承諾して見せた彼であったが、すっかり絶望したハートは黙って目を閉じ、マーリンの言葉など聞こえもしなければ姿も見えないというように、最早一言も口を利こうとはしなかった。昨夜、ベッドの上で重苦しい眠りに落ちた時、またもや例のサラがハートの元を訪れた。夢の中の彼女は、決まって長い睫毛に涙の滴を煌めかせながら、彼の顔を見詰めて、後から付いてくるようにと彼をさし招いた。彼が息を吹き返すように目を覚ますと、悩ましい気持ちで彼女の顔を心に思い浮かべた。彼は今でも、あの彼女の表情を忘れる事が出来なかった。夢の中でも、また現実でも見た、あのつと悲しみの影が差した表情。彼は直ぐにも彼女の元へ行きたかったが、それは出来なかった。遂には殆ど無我夢中の状態で写真集を開いたり、何かを書き写したりしていた。エギーはノックをせずに勝手に入って来るが、サラは必ずノックをして返事を待つ。あの躊躇のない明るい音をハートはずっと待ち侘びていた。あの音がする度に心臓は悲鳴を上げ、どうしようといった不安が胸を襲う。だが入室の許可を下さないといった選択はしない為、彼は毎回嵐に巻き込まれたかのような情動に駆られるのだった。しかし、依然として扉は全きの静謐の中にあり、彼女の来訪を告げずにいる。エギーは自分に、貴方が必要だと言ってくれたが、彼女は言ってくれなかった。彼等から必要とされる事が嫌になっていた筈なのに、彼女から必要とされていないと分かると酷く落胆した。彼女には、記憶を取り戻す為に、もっと凡ゆる方法を試して欲しかったとさえ思う。ガラハッドにそんな価値はなかったという事なのだろうか?ガラハッドは君をこの上なく愛していたんだよ。あと数時間後には、私が此処を出て行くという事を、彼女は知らないのだろうか?私は行ってしまうよ、君の手の届かないところまで行ってしまうかも知れない。君の事を大切に思っている男が、君から離れて行ってしまうんだ。君を救おうとしている男が、君とは違った道を歩み始めようとしているんだ。それでも良いの?嫌ならもう一度君の顔を見せに、此処に来て欲しい。私は未だ君に言っていない事がある。とても重要な事だ。君にとっても重要であると私は思う。他のどんな事よりも、君の仕事よりも、この世界を救う事よりも重要な事であると思うんだ。ねえ、サラ、君は未だ其処にいるのだろう。君はガラハッドを愛していたから、私には会ってくれないのかな。ガラハッドでなくては駄目なのかな、でもガラハッドは……でもガラハッドは君を……。ハートはふと大きな鏡を見上げた。彼はまるで途方に暮れた者が、何か神聖なものに向かって叫ぶように、またそれと同時に、最早失うべき何ものをも持たぬ死刑囚のような大胆さで、この問いを心中にて発したのであった。彼は死に絶える程の憂愁に駆られながら、その答えを待ち構えた。しかし、依然として鏡は全きの静謐の中にあり、彼女の来訪を映さずにいる。
マーリンは、元戦友に今生の別れの挨拶を済ませて独房を出た。その呆気なさの程度に、彼の疲労した心はもう動じなかった。こんな別離は死よりも更に酷いものだ、と熟思いながら隣の部屋へ入ると、案の定、ハートが会いたいと心底願っているサラは其処にいた。彼女はマーリンが部屋に入って来た事にも、彼が自分を見詰めている事にも気が付かなかった。頭も顔も驚く程にじっとして身動ぎ一つしなかった。夢現の境を彷徨っている様子で、眼を見開いてはいるが、何も見ていないようでもあった。この一幅の絵の中で動いているのは、彼女の淡い薔薇色に染まった手だけであった。その手は鼓動している心臓のように、まるで反射運動を起こさせる刺激に従い、ただ一定の調子を取る脈動となったように思える程、静かに動いていた。ハートの最後の姿を、隅々まで記憶しようとしているのだとマーリンは思った。サラは恐れているのだ。それは彼を再び失うという事への恐怖ではなく、新しい人生を歩み始める彼の口から出るであろう、自分への告白に対する恐怖である。自分は彼を嬉々として見送らなければならない。彼の人生が全きの幸福である為には、自分という要素は不要である、と彼女は考えているのだ。それは善意である。今こうして彼を無上に苦しませてはいるが、結果的にはそれが幸福へと繋がる。鱗翅類学者に殺し友達は不要、過去に於ける暗澹も不要である。そうした彼女の慈悲ある心情を察しても尚、マーリンは尋ねた。
「会いに行かないのか」
「うん……どうすべきなのか分からない」
「ハリーと同じ事を言っているな、君は」
「ハリー?何方の?」
「バタフライガイ」
「ああ、其方ね──今の彼は幸せそう」
『君達は変わった集団だ。私がそんなところに属していたなんて、増してや人殺しの』と、ハートが言った言葉をサラはふと思い出した。我々は一緒に働いているんです、冒涜や祈祷を越えて我々を結び付ける何ものかの為に。それだけが重要な点なんです。殺しを正当化するつもりはないが、不覚にも無知となってしまった彼に言ってやりたかった。しかし、彼女は口を噤んだ。それは何故か。その言葉、彼女には全く珍しい魂の叫びであるその言葉は、彼をこの世界に引き留めるものである事に瞬時に気が付いたからであった。今の彼は冒涜や祈祷といった意味を理解出来ない人間であり、死に対する印象も幼稚で純粋なものだ。我々は何も言ってはならない、また、我々は何もしてはならない。この思いは、ガラハッドという人間を知っているからこそのものであった。彼には鋼の信念があった為に却って、注意深く、恐ろしく辛い思いをしながら生きていた筈である。昨日自分を殺そうとした世の中へ、今日も再び歩み出なければならない人生。しかし今や、そうではなくなったのだ。彼を殺そうとする世の中へ、再び歩み出なくても良いのだ。
サラの隣に立ったマーリンは、その思い詰めた横顔を見た。この灰色の眼、冬の湖の如く静まり返った眼に、突然優しさが宿るなどという事は有り得ない事であった。しかし、その眼は今や掻き曇り、いつもの金属のような清澄さを失っていた。それを、マーリンは自分の方へと向けたかった。一度だってそのような眼差しを彼女から注がれた事はなかった。ハートではなく自分が、頭を撃たれていたら良かったのにとさえ思い、マーリンは負傷する事でしか彼女の意識を向けられない事に、自分の尊厳を傷付けたのだった。ハートは彼女に様々な期待をしただろうが、自分は彼女に何も求める事をしなかった。しかし、こうして実際に与えられているのは一体何方か。君には私がいる。この意味を、君は十分に分かってはいないのだ。
「サラ、眠った方が良い。横になるだけでも」
マーリンを優しさの擬人と思い込んでいるサラであったが、変わらずにハートを見詰めたまま、半端な返事をした。彼と再会してからというもの、彼女は眼が冴えて殆ど眠れなかった。頭の芯では轟音が鳴り響き、旋風が渦を巻いているような感じがしていた。例え横になったとしても、その轟音は更に助長される。その事をマーリンに言える筈はない。ハートは今から幸福へ向かうというのに、彼女は憔悴し、自分の無力を自覚し、世界全体から疎外されたような何か異様な気分を味わいながら、その場所に佇んでいた。船酔いにも似た精神的な嘔吐感が、彼女の心をすっかり捉えており、自分の人生に大いに関わった彼との別れを、この程度のものとさせた自分自身に失望さえ感じた。残された我々のこの手の中に、守ろうと決意した手の中に、所用する気はなく、ただ守ろうと決意した手の中にあるものを再び握り締め、歩み出さなければならない。残された我々は恐怖に怯えながら、周囲にも世界の全てにも関わりなく、溢れ返る程の死に対し途方に暮れる日々へと歩み出さなければならない。救おうとする瞬間にも、死は必ず存在する。どれ程に頼りになる手の中にも、やはり死は有り余る程にある……。
その時、ノックもなしに唐突に独房の扉が開き、三人の視線は弾かれたように其処に集中した。いたのは別れを済ませたエグジーで、子犬を一匹抱えていた。彼はキングスマンの最終試験でもって、ハートの記憶を呼び覚まそうとしたのである。あの試験、愛情を注ぎ躾をした自分の子犬を撃つという試験が、ハートの心に多大な衝撃を与えていた事が、マーリンとサラには意外な事であった。そもそもマーリンはキングスマンになる為の試験を受けておらず、また、異邦人であるサラは英国で訓練を受けていなかった為、その精神的打撃の程度を身を持って知らなかったのである。二人はガラス越しに、ハートが次第にガラハッドへと変わるのを見た。一言発する毎に、また周囲に一瞥を注ぐ毎に、過去に於ける彼の凡ゆる記憶が次々と彼の胸に迫っているようであった。エギーからエグジーと呼び方が変わり、ハートの一つの目には俗物らしい粛然さ、その中に横溢するあの力強さが顕となった。鱗翅類学者の目ではなく、忿懣と慄然に精通し、刻苦してこの世を生き抜いて来た男の目が其処にはあった。ああ、ガラハッドだ。サラは思わず息を呑んだ。彼の名が荘重たる響きでもって、彼女の心中を轟かせた。
「──サラは、」
神より与えられた色、鮮やかな蝶の翅。エグジーの抱擁、そして、マーリンが口にした自分のコードネーム。一発の銃弾により劈かれた自分と彼女の人生。サラは何処にいる。ヘレネーは、私の最後の願いを聞く事を拒んだ彼女は一体何処にいる。君が必要としなかった男は消え、その代わりに、君が必要としていた男が此処にいるのだ。すると、マーリンの背後から例の彼女が姿を現した。自分を見る目付きが、昔の自分を見るものとは既に異なっていた。数ヶ月、または数年か振りの再会であった。彼女にこれといった変化が見られない事が分かると、ハートは僅かばかりの安堵を感じた。あの大混乱、制御の利かぬ情動の中で、一瞬だが念頭を掠めた存在。彼はその名を久方振りに呼び掛けた。サラ、サラ・バラデュール、私のヘレネー、我が希望、我が命。君が無事で良かった。負傷したのが君ではなく、この私で良かった。私がいない間、君はマーリンとエグジーと共にいたのだね。この二人が傍にいたのならば、何も心配する事はなかっただろう。そして……私を見付けてくれた事に感謝する。君達が此処へ来てくれなかったら、私はこのまま鱗翅類学者になっていた。全く恐るべき事だ──しかし、これらの紛れもない事実は、ハートの口から出る事はなかった。咽喉に引っ掛かって出ないのだ。これがあの男、昔の自分であれば難なく言ってのけたであろう。そして、彼等一人ずつに感謝の抱擁をしたかも知れない。一体何が、自分をこのようにしたのか。ああ、それよりも、他に何かを言い忘れている気がする。それを思い出した途端、彼の表情は忽ち強張った──ねえ、ヘレネー、私は君に我が身を擦り減らすような事はさせない。ガラハッドが君にどんな事をさせたのかは分からないけど、私は君にそんな自殺的な考えは実行させない。君は自分で気が付いていないかも知れないが、とても善良だ。正義の為に、英国の為に、君はキングスマンになったのだろう。であれば、君はとても善い人間だ。でも、そうして命を無駄にしないで欲しい。誰かがやらなければならない仕事と君は思っているんだろうけど、そんなものはやらなくて良いんだ。天使のような人、君は、やらなくて良いんだよ──彼女を救う。キングスマンから、ステイツマンから、また、定めから彼女を救う。二度と彼女に人は殺させない。彼女の心が傷付くような事はさせない。彼女の手を取り、此処から連れ出し、彼女の幸福に笑う表情を見るのだ。彼女を凡ゆる不幸から守るのだ。これが本当のガラハッドではないのか──ハートは昔の自分と共にいた時のサラをも思い出した。柔和で、気さくな娘。明眸を細めて無辜に笑う美しい女性。今の自分では、彼女にあのような表情をもう一度浮かべさせる事は出来ないのではないか。私は此処で、彼女の事を思いながら過ごしていた。彼女が見出すかも知れぬ興味を主とし、自分の興味をそれに従わせながら、彼女に伝えたいと思う言葉を頭の中で用意していたのだった。しかし、それらは今や、ガラハッドという人間の口から出すような言葉ではなく、彼はそれを自覚するや否や、自分の中で先程死んでいったもう一つの人格が羨ましくなったのであった。彼は既に帰宅の支度を終えていたが、もう一度部屋を見渡すと、机の上には未だ物が残っていた。近付いて見ると、それはサラから貰った鱗翅の写真集と、見覚えのない一枚のメモ用紙──誰が彼女を傷付けたの?ガラハッド。

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