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Empty your heart of its mortal dream



*THE GOLDEN CIRCLE

女神ヘレネーは美しく、泡のように瑞々しい。淡い薔薇色に染まった細い指で、その暖かい額や胸元から、深々とした髪を艶やかな咽喉や肩の辺りに引き寄せた。丸みを帯びた体躯の上には、彼女の動きに連れて輝く光が漂っていた。その日は玲瓏たる晴れ渡った天気であり、ハートは喜ばしい気持ちで春の空気を胸一杯に吸い込んだ。二人はステイツマンの施設の周りを歩きながら話をした。それは専ら彼の専門知識の薀蓄であったが、何かを話さずにはいられなかった。ヘレネーは施設内で見た時よりも、こうして外へ出た時の方が、更に一段と美しい女性である事が分かったからであった。「ねえ、ヘレネー」と、彼は何度も彼女の意識を自分に向けさせたかった。時々立ち止まって、自分の顔を彼女の顔の方へ傾けたかった。彼の頬は微風に燃え立ち、胸は迫って、彼女の灰色から銀色に輝く眼をじっと見詰めたかった。ねえ、ヘレネー、それを君が許してくれたら記憶がすっかり戻るかも知れないよ。君が死んだと思っているガラハッドに戻るかも知れないよ。そう思ってハートは、自分がこの立場を少し不当に利用している事に気付いて、変な気を起こさないように差し控えた。はっきりとした言葉は未だ彼の唇から出してはおらず、今のところは此処で止めて置く事が望ましいとさえ思えた。それ程に彼は幸福であった。独房から外へ出られたからではない。自分の隣にはヘレネーがいる事、また、そのヘレネーに対して自分が思っている事がたった今、明白になったからであった。独房までの残りの距離を出来るだけ長くしようとして、彼はゆっくり歩いた。話をしている間、彼女の横顔を何度も盗み見たが、これといった心情を汲み取る事は彼には出来ず、歯痒さを感じた。ねえ、ヘレネー、君に好きな人はいる?家族はいる?私には家族が一人いる、母だ。一緒に住んでいるんだ。その家には沢山の蝶もいるんだ。私が集めたんだよ、時間はとても掛かったけど、どれも美しい。人間も、彼等のように美しいものだと思いたい。そう思っていたんだ、今までは。蝶よりも美しいものなんてこの世にはないとね。だけど……多分、私の事を好きな人なんていないんだと思う。だって、私を訪ねて来てくれた人は皆キングスマンだったから。同僚で、恋人じゃない。ガラハッドも私と同じように、人と関わる事が苦手だったんだね。ハートは空間の大気を大きく何度も吸い込んだ。自然の中に微かに漂うヘレネーの香りが分かった。その途端、東も西も自分のものであり、北も南も自分のものだ、と思う事が出来た。これらが自分のものであれば、当然彼女のものでもあるのだ。自分と彼女はこの空の下で出会った。此処はなんて美しい田舎の風景だろう。この思い出はこれから先、絶対に忘れる事はない。彼は自分が考えていたよりも一層大きく、一層善良である事を知った。彼は知らなかったのだ、自分がこんなにも善良さを一杯持っていたとは。もう直ぐ此処を出られる。此処を出たら、あの家に帰れる。夢であった鱗翅の研究が出来る。そして……君ともっと過ごせるんだ。今よりも更に多くの時間を、君と一緒に過ごせるんだ。これ以上の幸福なんてものがこの世にあろうか?ガラハッド、何故君は学者ではなく軍人になったの。何故母を一人残したの。何故ヘレネーを恋人としなかったの。
「新種を見付けられたら、マーリンの名と君の名を付けようと思っているんだ。君の名前は何て言うんだい?」
「?ヘレネーですよ」
「それはキングスマンでいうところのコードネームだよね?君の名前はヘレネーじゃない」
「是非ヘレネーと名付けて下さい。私、本当の名前よりも気に入っているんです」
「私の記憶が戻らないから?」
「え?」
「私が一般人に戻ったから、名前すらも極秘なのか?」
サラは何も言わない事でそれと示した。当然だ、うっかりフルネームを漏らして、それをハートが何処かで漏らすと、結果は全て自分に降り掛かって来る。ガラハッドではない彼は誰かに、此処で自分が受けた災難を言うかも知れない。または告訴するかも知れない。その前にマーリンが揉み消すだろうが、容易に信頼してはならない。もしあの厳格なアーサーが生きていたら、きっと彼にもう一度記憶を喪失させろとの命令を下すだろう。ガラハッドに戻って欲しいとの一心で、あれこれとキングスマンの事を話してしまったから。でも、あの寛容なマーリンはそんな事を望んではいないし、私だってそうだ。表向きは仕立て屋の独立諜報機関。自由となったハートは探すだろうか。我々をもう一度探し出すだろうか。いや、嫌っているのならばそれはない。告訴する勇気もないようだし。だが彼がもう一度会いたいと願っているのならば、マーリンかエグジーに会いたいと思っているのならば、凡ゆる手段を駆使して探すだろう。何方にしろ、やはり我々は彼と関係を築き過ぎたのかも知れない。ガラハッドは未だに死んでおり、蘇生の望みは殆ど潰えている。その辺りを心得ているマーリンも本名を言わなかったらしいが、何故ハートはそれ程までに本名に拘るのか。貴方はこのまま、何も知らずに生きて行かなければならない。本当の人生を取り戻したいのであれば、知るという事を止めた方が良いものだってある。貴方は非常に寛大な処置の中で、この組織から抜けられるのだ。このように奇怪な形を取り、貴方の心を散々に傷付けた人生に、貴方はもう留まらなくて良いのだ。過去の亡霊が貴方を責め立てる事もなければ、生きている人間が貴方の命を狙う事もなくなる。サラは立ち止まった。ハートが急に立ち止まったからである。先程の嬉しそうな表情は消えて無くなっており、憂悶がそれに取って代わっていた。そろそろだと彼女は思った。気晴らしの散歩は終わり、彼がキングスマンではなくなる。鱗翅の事ばかりを考える凡夫となる。
「君達は変わった集団だ。私がそんなところに属していたなんて、増してや人殺しの」
今此処に一緒にいて、自分を見上げているヘレネーが恐るベき殺人者であるという、彼女の信じ難い事実がハートの心に蘇って来た。人殺しという言葉を言い慣れていない為に、彼の舌が上手く回らず、籠った発音となって外へ出た。だが、こんなに美しく静かで明るい太陽の降り注ぐ正午には、何故かそれは有り得ない事としか思われなかった。何故、君はそんな穢れた仕事をしているの?確かに人殺し、なのだと思う。だが彼女がやっている事は少しばかり違うという事も分かる。そして、それを必要な事と思いながら、仕事として割り切ってやっているという事も分かる。出来れば人間を殺したくないという気持ちが胸底にある事は、今周囲に飛んでいる蝶や自然の風景を見る感じで何となく分かる。何故、君はキングスマンになったの?ねえ、ヘレネー、私は君に我が身を擦り減らすような事はさせない。ガラハッドが君にどんな事をさせたのかは分からないけど、私は君にそんな自殺的な考えは実行させない。君は自分で気が付いていないかも知れないが、とても善良だ。正義の為に、英国の為に、君はキングスマンになったのだろう。であれば、君はとても善い人間だ。でも、そうして命を無駄にしないで欲しい。誰かがやらなければならない仕事と君は思っているんだろうけど、そんなものはやらなくて良いんだ。天使のような人、君は、やらなくて良いんだよ──しかし、それと殆ど同時に、ヘレネーの顔は俄に真面目な、気掛かりげな表情になった。つと悲しみの影が差したようにも見え、それがハートを驚かせた。彼は今まで彼女のそんな顔を見た事はなかったし、想像した事もなかった。忽ち一挙に、彼は自分の脳に血が上るのを感じた。他人を傷付け慣れていない人間にとっては、他人の表情が自分の言葉によって翳る事に耐えられる筈がない。増してや、自分の事を気に掛けてくれていた彼女に対しては尚の事である。自分はそんな事を言いたかったんじゃない、君にはもっと別の事を言いたかったんだと弁解しようとした時、複数の足音が聞こえた。マーリンとジンジャーであった。結局、何の言葉を掛ける事が出来ずにただ立ち竦んでいたハートは、一つの言葉を発しただけのジンジャーによってヘレネーを取られてしまった。彼女は一度も自分を振り返る事なく、ジンジャーと行ってしまった。何故か二度と会えない気がしてならなかった。
「私は彼女に、酷い事を言ってしまった……その、彼女に謝らないと」
「ハリー、一体どうしたんです?」
「私は、どうしたら良いのか分からない。ただ謝るだけでは……マーリン、彼女の名前は何て言うの?」
初めて見た戦友の請う表情は、マーリンにある事実を明瞭にさせるものであった。ガラハッドであればそれをひた隠しにし、敢えてそんな分かり易い質問はしないだろう。だが眼前にいる男は戦友でもなければ、ガラハッドでもないのだ。消えて行くサラの後ろ姿をただただ見詰める事しか出来ない男、異性の扱い方を知らず、言ってはならぬ事をつい言ってしまう無垢な青年。そして、彼女の明眸に捉われた一人の人間。マーリンは彼女の名を答えてしまった。彼女の名は、彼女と二人切りの時だけ、口にしていたものだった。謂わば秘密の疼痛、彼の魂そのものである。それを息を吐くように容易に、だが心臓はもがき苦しみながら答えた。彼女の名を口にすると、決まってこのようになってしまう。恐らく貴方もそうなる事だろう。しかし、私は貴方よりも、この苦しみに長い間耐え忍んで来た。貴方にそれが分かるだろうか?一年もの間、貴方は彼女を忘れていたが、私はそうではない。私とサラは貴方を失い、悲嘆に暮れた。だが私は彼女を自分のものとする事が出来なかった。その無上の苦しみを、貴方に分かるだろうか?マーリンが口を開いた訳は、今のハートが自分と同じ人間である事に対して同情をした為である。しかし、そんな下らない同情も、彼女の名も、これから先の彼の人生に於いては、何の役にも立たぬ事をマーリンは知っていた。
「サラ、サラ……分かった、サラだね──多分私は、ガラハッドはサラを愛していたんだね」
マーリンが出会ったのは、サラが消えた方向にじっと注がれる、不安そうな、だが痛々しいまで照れ臭ったハートの眼差しだった。其処には愛があった。この空のように、許される限りの清らかさで澄み渡った愛。光輝たる愛、高尚たる愛。歓喜に溢れたハートはふと思った。ガラハッド、君は彼女を愛し続けていたんだね。彼女一人を密かに、真摯に愛し続けていたんだ。ガラハッド、君にとっての恋人というのは彼女だったんだね。そうに違いない、と彼は思った。これが恋なのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心も捧げ尽くすという事なのだ。其処で彼の念頭に思い出されたのは、あの部屋で考え事に耽っていた時にもう一人の自分が言った事であった。『自分を犠牲にする事を、快く感じる人もあるものだ』──正にそれが彼等だ、彼女だ。サラをこの地獄から連れ出さなければならない。ハートは自分を勇気付けるように何度も唱えた。自分が本当のガラハッドになったような気がした。彼女を救う。キングスマンから、ステイツマンから、また、定めから彼女を救う。二度と彼女に人は殺させない。彼女の心が傷付くような事はさせない。彼女の手を取り、此処から連れ出し、彼女の幸福に笑う表情を見るのだ。彼女を凡ゆる不幸から守るのだ。これが本当のガラハッドではないのか。
「……ええ、愛していたのだと思います」
隻眼のハートであるから見逃す事柄がある。彼は左目を覆っている為、マーリンの様子は闇の中で捉える事と全く同様であった。それに加え、今のハートは洞察力を持たず、他人の心に対して更に鈍感である。また、愛の恵みに溢れ返っている魂では、他人の不幸を看取する事は非常に難しい。マーリンはそんなハートの横顔を眺め続けた。キングスマンには貴方が必要だ、ガラハッドという存在が。しかし、サラを愛する唯の男を、キングスマンは必要としていない。彼女を道連れにせず、出て行くのならばこのまま無垢なハリー・ハートとして、何も知る事なく出て行って欲しい。彼女とガラハッドの過去を何一つ知る事なしに、何一つその胸に刻む事なしに、静かに姿を消して欲しい。そして、二度と我々の前に姿を現さないで欲しい。彼女を苦しめるだけ苦しませた挙句、彼女を愛しているだと?その愛が、彼女に良い作用を及ぼすとは限らない。我々はそのような世界で生きているのではない。それはガラハッド、他でもない貴方が一番よく理解していた事だ。しかし、今のハート自身の中でも明瞭となったその事実を、マーリンに消し去る事は出来ない。苦しみというものにはもう一切触れたくなかったのである。以前、彼の頭上に広がっていた、無限に遠く高い青空は、急に低い、頭を押さえるような丸天井へと変わってしまった。この数日で凡ゆる事が彼の頭の中で整理されたが、永久で神秘的なところは綺麗に隠れてしまった。