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Love my way



*THE GOLDEN CIRCLE

「こんにちは、ハリー」
「ああ、こんにちは、ヘレネー。来てくれて嬉しいよ」
「退屈していませんか?」
「少しね。でもさっき、マーリンが色々と持って来てくれたんだ。新しい色鉛筆とかノートとか」
「実は私も持って来たんです。ハリーにプレゼントしようと思って」
「本当に?私に?」
「ええ。専門書が良いと思ったんですが、どんなものが良いのか分からなくて。だから写真集を」
年齢が近いマーリンはこの時代のハート、夢の為に生きる知悉で人思いな青年を知っていたかも知れないが、サラはこのようなハートとは初めて出会った。脳に大打撃を受けた人間としては、記憶喪失如きで収まって大万歳ではないか、と彼女はステイツマンに感謝さえしていた。しかし、いざ死亡したと思っていた彼と一年振りに対面すると、独房のような部屋に入れられていたのは彼女の知る彼ではなかった。記憶が喪失されているのであれば、当然ガラハッドではないが、其処にいたのは唯の人間、我々が日常的に見たり経験したりしているものの一切を取り上げたような、凡夫な人間と成り果てた彼であった。記憶がないハートではない、最早別人格である。負傷した片目を覆っている眼帯も、誰が着せたのか分からないスウェットも、呼吸する毎に浮かべる相手の心情を窺うような微笑も、自然と出て来る温和な言葉遣いも、全てが彼女にとって情けなく見え、辟易さえ感じてしまった。其処で初めてサラは、記憶喪失という事の意味を考えたのであった。それは死と同様とさえ思えたが、教会での出来事でハートは既に死んでいるものと思っていた彼女にとっては、彼が生きているという事それだけで喜ばなければならないと心に言い聞かせ、態度に出すよう努めていた。記憶だけではなく人格までもが喪失されたとなると、彼を再び戦場へと復帰させる事は出来ないのではないか。しかし、彼女は殆ど無意識の内に、彼の生存を誰よりも喜んでいたのだが。
『そのスーツ……もしかして君もキングスマン?』
部屋に入った時、ハートはヘレネーの頭から足先までをまじまじと確認した。今や彼にとってスーツというものは一種の恐怖となっており、歳の若い異性が身に纏っていても、それは明瞭に感じてしまうのであった。スーツを着ているという事はキングスマン、キングスマンという事は自分と何かしらの関わりがあった人間だ、という風に彼は頭で理解をし、警戒をした。この人は自分に何を期待しているんだろう?考え付く凡ゆる酷い事を自分に行い、何としてでも彼等のいう記憶というものを蘇らせようと企んでいるのかも知れない。しかし、ヘレネーは一瞥でハートがあのハートではないと分かると、握手もせず、簡単な自己紹介をして部屋を出て行った。顔には驚きの表情と些か落胆したような、マーリンとエグジーが浮かべた表情と同様のものを浮かべていたが、彼等のようにあれこれと質問をしなかった。キングスマンといっても皆が皆、自分の事を知っているとは限らないし、増してや仲が良かったという訳ではあるまい。何故か来客ではない自分の方が、あの若者に見捨てられたような状態になった彼であったが、心中でそう結論付けると、深く考える事なしに眠ってしまった。しかし、ヘレネーと名乗った彼女は翌日もハートを訪れた。其処に滞在し話をするのは短い時間だったが、何故か話は弾んだ。それはハートの精神年齢が若返っている為であり、異性が異性に対して向けるあの優しさが、彼の警戒を徐々に解いたのである。元々内気な性格であった彼は、異性に対する扱い方というものを殆ど知らなかったが、ヘレネーはその点を忘れさせる程、気さくに接したのであった。しかし、その恥ずかしいような、だが無上に心地良い幸福な感覚は、彼の姿を映す鏡が全て奪い去って行った。其処には見知らぬ老いた人間がいた。長い時間の経過を示す皺、薄くなった唇、生え際には白髪があり、輪郭や首の形が明瞭ではなくなっている。途端、彼は再び深い孤独感に襲われた。この年齢だと、恐らく母は生きてはいない。母がいないとすれば、自分の人生は何で持って表す事が出来るのか。そう思う度、キングスマンという奇怪な集団が頭に浮かぶのであった。マーリン、エギー、ヘレネーという可笑しな名を言い合う集団。何の繋がりで持ってその関係を維持しているのか知れない集団。下したてのスーツばかりを着て、動き易いスウェットを蔑んだ目で見る集団。
『君は私に、ガラハッドに戻って欲しいとは言わないね』
ヘレネーは変わらず、毎日決まった時刻に顔を見に来てくれた。その認識は次第にハートの中で変わり、彼女は顔を自分に見せに来てくれた、と思うようになった。彼の目に映る彼女は、彼に対し何も質問をせず、彼に対し何も期待をしていないようであり、彼女はガラハッドではなく、ハリー・ハートという自分と話をしているのだと彼は思う事が出来た。口から出す言葉を選ぶ品格、視野の広さが齎す優しさ、そして無辜に笑った時にすうっと細まる灰色の虹彩。何故この人はキングスマンなんだろう?何故キングスマンになったんだろう?この人の心を捉える程の魅力が、キングスマンにあるだろうか──この人は一体、誰なんだろう?ガラハッドはこの人の事をどんな風に思っていたんだろう、また、この人はガラハッドの事をどんな風に見ていたんだろう。鏡に映るこの大人の自分は、果たしてどんな人間となったのか。何故、片目がないのか。
『君は何の為に戦っているの?君の正義とは、どんなものなの?』
ハートは眠りに就くまでの間にふと考え付いた事柄が、朝になっても念頭から振り払う事は出来なくなっていた。このヘレネーという人は自分の人生に於いて、軈て来たる未知な人生に於いて、何か大きな切っ掛けとなった人に違いない。歳は離れているが、それ程の血気と才気を持った人だから。ガラハッドと戦友であったと言ったマーリン、彼もこの人に対しては普段とは違った態度を取る。我々三人の関係は一体何だろう。何故マーリンは、彼女に対して気後れを感じているのだろう。しかし、記憶を失った自分にそれは分かる筈がないと諦めたハートは、そんな不確かなマーリンの事よりも、他のどんな事柄よりも確かな、彼女に対する自分の心情に耳を傾け始めた。彼はヘレネーと出会った時から、彼女が自分の目を見るとどぎまぎし、そんな自分を彼女に悟られまいと、彼女の眼を真面に見ないように努めている自分に気が付いていた。その滑稽な態度は、誰の目にも酷く面白く見えただろうが、当事者である彼にはちっとも笑える事ではなかった。慇懃な彼女は終始、まじまじと彼の視線を待ち、捉えようとしていた。執拗に注がれる眼差しに、遂に堪え切れなくなったハートが時折、抗し切れぬ力に負けて心ならずも自分から彼女の明眸へ眺めやる。そうすると彼女は、そんな彼の心情を全て汲み取ったような表情、慎ましい微笑を浮かべ、話を続けるのであった。それが何故か、彼にとっては些か腹立たしい思いであった。自分は彼女の事を何も知らない。だが彼女は自分の事を知っているようである。それは自分でさえも知り得ぬ部分、表には出ない深い部分を彼女は熟知しているようであるのだ。それにも関わらず、彼はじりじりとヘレネーの方へ身も心も引き摺られていった。彼女が微笑すると彼も微笑し、彼女が思い出そうとすると彼も思い出そうと努める。私はもうガラハッドにはなれないよ。そう言っても、恐らく彼女は怒ったり、取り乱したりしないだろう。彼女は彼女で、自分を再びキングスマンにする事に反対なのかも知れない。ハートがそう感じたのは何故か。それは、彼女は自分の前で、ガラハッドはどういった人間であったか、ガラハッドは皆に何を齎したか、などといった事を一切口にしなかった為である。ヘレネーが部屋から出て行く際には、決まって彼は何かしら健康な、無意識な、爽やかな快い印象に包まれながら、彼女と別れた。彼女は一日に一度しか顔を見せに来てはくれない。そして、彼は次の事を眠る時にふと思い浮かべるのだった。明日、感謝の気持ちを込めて、彼女の手を握るというのはどうだろう。今日も来てくれてありがとう。私には限られた知識しかないのに、いつも楽しげに話を聞いてくれてありがとう。本当は気が沈んでいたんだ。ずっと此処に閉じ込められているし、毎朝鏡に映るのは自分ではないし。でも君が現れてから変わったんだ。私はガラハッドではない、ガラハッド以前にハリー・ハートという人間である事が分かったんだ。それらを伝えて、ヘレネーの手を握る。彼女の小さい手に触れる。彼女はどういった反応をするだろうか。喜んでくれるだろうか。また、例の抗し難い力に引き摺られて、部屋の外へと通じる扉へ向かう彼女が、最後に自分をもう一度振り返らないかを見る。彼女はいつだって振り返らない。だが明日はどうだろう?そうしてくれたら嬉しい。ハートは彼女が振り向いてくれるのを、一心に待ち受ける自分の姿を心中で見出した。明日の別れ際、自分を振り返り、視線が合わさり、あの微笑を浮かべてくれる彼女を見出した。
「本当に貰っても?」
「どうぞ」
「ありがとう、大切にするよ」
ハートが本当にその言葉通り、一種の慈しみを持ったように、その写真集の表紙を撫でた。それが無意識の内に出た自然な動作である事は分かったが、サラには咽喉が引き攣られ、脳梁を大きく揺さ振られる程の衝撃であった。……こんな写真集如きで、あのガラハッドが?彼女は数秒の間、そんな彼を穴が空く程に見詰めていたが、眼前にいるのはガラハッドではない事を認識するや否や、凍て付いた表情を改めた。あの鏡の向こうにはマーリンがおり、此方をじっと見ているに違いなく、彼女は本当の感情を出さないようにしなければならなかった。そうでなければ、やっと此処まで築き上げたハートとの関係が無に帰してしまう。「気に入って貰えて良かった」といった微笑を浮かべると、彼は写真集を片手にニコニコと歩み寄って来た。裏があると思えてならない、その無垢の程度が過ぎる笑顔。マーリン、そんな安全地帯で見物していないで、今直ぐ、今直ぐこっちに来て。すると、サラの想像通り、ハートはエグジーの常套手段であるハグをやってのけた。忽ち彼女は全身が硬直して行くを感じ、実際、骨の髄まで硬直した。両手には何も持っていないにも関わらず、しっかりと力を込めて握り締め、肩は張り、脊髄は彼から少しでも離れようと不自然な形となり、重心も背後へと移動した。上流階級の生まれはハグなんてものをせず、握手で全て片付ける。キングスマンという組織もそのような生まれが殆どであった為、ハグをしようものなら怪訝な、些か具合が悪いといった様子で後ずさる。あのハートが人並み、いやそれ以上の愛情を持っていたとは思いも寄らぬ事であった。本来の彼はエグジーに通じるものがあるのかも知れない。あの明らかに俗物といった風采は、そのような社会で身に付けざるを得なかった鎧であっただけなのかも知れない。しかし、そうは思っても、変に力が込められたサラの両手は、彼の背に回る事はなかった。ただ手を回しさえすれば良いのだが、彼女にはそれが出来なかった。軈て身体が離れた際に、彼女は恐る恐る彼の顔を見上げた。あの先程の太陽宛らの笑顔が消え、全きの無表情に、あのガラハッドに戻っているのではないかと思った為である。だが彼は微塵も元には戻ってはおらず、身を翻したかと思えば、机の上からあるものを持って来た。その何の重荷も感じられない軽快な足取りは、ガラハッドにはない。
「これを、お礼にあげる」
「貴方のイラスト?」
「うん、君の目と同じ色。実物はもっと綺麗なんだけどね。君の目も光が差すと色が変わるように、この蝶も色が変わるんだ。幻想的だよ。楽園かと思われるくらいに」
サラはイラストを手に戸惑った。勿論、一人前の大人が照れ臭そうに持って来たそれに対してもだが、何より自分に対してであった。どういった反応をすれば良いのか分からないのだ。これが任務であれば、相手の機嫌を損なう言葉は避け、自信を持たせる言葉を幾らでも掛ける事が出来る。だが先程の思わぬハグですっかり調子を乱された彼女は、どんな言葉も思い付かなかった。確かに綺麗だ。繊細さがあるし、色付けも他の要素を殺してはいない。だが何故彼は、私の目の色と同じものを描こうと思ったのか。今日、私が写真集を持って来なくとも、ハリーはこれを渡しただろうか。何故こんな事をするのだろう、記憶もないのに。しかも彼はキングスマンに対して良い印象を持っていない。彼をこんな所に閉じ込めているのは私達だというのに。サラは彼の目を見た。彼は自分が喜んでいるかどうか、其処にのみ只管に心を向けている表情をしていた──やはり、ガラハッドはひとり寂しく死んだのだ。彼の死を悼んだのは、彼を知る私達だけ。この世に存在しない彼の墓の上には、花々が咲いて風に揺れている事だろう。花々と風、死者の墓の上に揺れる花々、紅い花弁、黄色い弁、白い条、撓み垂れる紫の塊。その下には、犠牲者である彼が横たわっている。貴方みたいに私も彼を忘れたい。貴方のそういう素晴らしい忘れ方を、私にも教えて欲しい。サラはこの場にいないガラハッドを思い浮かべながら、何処となく危ぶむような調子で、静かに言葉を投げ掛けた。地上の楽園なんて、そう簡単に得られるものではありません。何も知らない貴方は、多少なりとも楽園というものを当てにしているようですが、楽園というものは中々に厄介なものです。貴方のこの上なく美しい心で考えるよりも、遥かに厄介なものなのです。彼女の心の一部を陥没させたものが、再び蘇ったかのように思えた。しかし、それは全きの幻想であった。
「今から少し散歩をしないかい?天気が良かったら、蝶を捕まえられるかも知れない」

The Psychedelic Furs - Love My Way