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Clasp we to our hearts, for deathless dower



「そういうところだアーチー、お前は全く思い上がった野郎だ。彼奴のような女が、何処の馬の骨とも分からんお前と一緒になるだと?そんなクソみたいな、無益な事があってたまるか。若造の夢を潰やすには四年では足りんかったか」
シドニー・ショーが鼻から一条の血を流しながらも尚、言葉を続けた。アーチボルドは宣誓証書を片手に、もう一度ショーを打とうかとも思ったが、ある大きな一つの問題が燦然と、晴朗宛らの輝きを持ってアーチボルドの胸の内に湧き上がって来た。此処最近、彼は非常に沢山の夢を見続けていた。しかもそれは不安定なものばかりで、彼はベッドに横になって休んでいるにも関わらず、頭だけは何ものかに圧せられているような疲労が全く拭えなかった。そうしている内、軈て夢の中で、必ず一人の女性が傍へ寄って来るのであった。彼はその女性を知っていた、悩ましいまでによく知っていた。彼は立ち所にその名を呼び、その人であると断言する事が出来た。ところが、不思議な事に夢のサラの顔は、いつも見慣れているものとは丸切り異なって見えた。そして、それをあの人の顔であると認める事は、アーチボルドには無上の苦衷であり、寧ろ死の方が自分の胸に安堵を齎してくれるとさえ思えた。その美しい顔には悔悟と恐怖の色が溢れており、たった今恐ろしい罪を犯して来たと思われる程であった。涙がその蒼褪めた頬に震えていた。彼女は彼を片手で招き、後から私に付いて来てと知らせるように、指を唇に当てて見せた。彼の心臓は凍て付いたようになってしまった。彼は例えどんな事があろうとも、もうこの人を自分の恋人として扱う事はしてはならなかった。しかし、彼は今直ぐに、何かしら恐ろしい、自分の生涯を左右するような事件が起こりそうな気がしてならなかった。どうやらサラはその予兆として自分の夢に現れたのだ、とアーチボルドはふと思った。古いものは朽ち果て、新しいものが立ち上がるべき時代が来たのだ。夢の中の彼女は、自分に何かを見せたいような素振りをしていた。俺は一度だって、彼女の後を追うという事をしなかった……。アーチボルドが何故サラを愛したのか、彼は自分でも分からなかった。あの頃の彼の暗澹な心中に、彼女という存在は夢の如く浮かび上がったのである。いや、新しい曙がふと閃いたのかも知れない。何故自分が彼女の事を一番初めに考えたのか。何故自分が、他人のものになるであろう彼女の事を未だに考えているのか。自分のものになって欲しいと思いながらも、何故夢の中で彼女を追う事をしなかったのか。しかし、ショーの裏切りを知った今、真っ先に彼女の眼前に姿を現すべき、彼女を追うべきなのではないか?何もかも、あの頃の恐ろしさから生まれた空想に過ぎなかったという訳なのだ──一刻の猶予もありはしない。全きの自由、全きの幸福がこの先に存在するのだ。サラ・バラデュール、俺は今から君の元へ行く。俺は許しを請いに、君の魂の前に跪き、君の名を貰う許しを請いに、ただ君の元へ……。すると、急にアーチボルドは、この数十年間過ごして来た神秘的な、末恐ろしいこの世ならぬ世界から、忽ち元の住み慣れた世界へ、しかし、今や新しい耐え難い程の幸福の光に輝いている世界へ、舞い戻って来たような気がした。張り詰めていた弦はすっかり断ち切られた。まるで思いも掛けなかった歓喜の轟きが、強靭な力で彼の身内に沸き起こり、その全身を震わせた為に、彼は長い間口を利く事も出来なかった。

「君は実に立派な事をしたな。悪意に取り巻かれている男に、美しい感情を呼び覚ましてお遣りになったんだから」
マンブルズが普段の言葉遣いに高価な肉を無理に足したような台詞を、普段通りの嘲った表情を浮かべて言い放った。話し相手であるサラは無論、腹を立てなければならないところである。いや、実際に腹を立てようとしたのだが、不意に何かしら、彼女自身にも思い掛けない感情が、一瞬にして彼女の心を掴んでしまった。その美しい感情を呼び覚ました所為で、アーチボルドはあの夜に拳銃を持って来たのだ。沈んだ、殆ど悲しそうに見える様子で。それを彼の魂に齎したのは他でもない自分自身であるという事、また、自分を遠ざけようと努めていた彼に、殆ど無慈悲といってもいい程の仕打ちをしてしまったという事を、彼女はまざまざと思い出したのであった。
「貴方の言っている事が、私には分かりません」
「おいおい、そんな訳あるかよ──いや、ひょっとすると、君は本当に分かっていないかも知れないな?」
「マンブルズ」
「まあ聞けよ、世間知らずのお嬢ちゃん。俺の口から言うのは何とも癪だが、奴が惚れてるのは君だ、分かったか?」
「それは……知っていますよ」
「君と出会った時から、奴は君に惚れ込んじまったのさ。ただ、君のところに婿入りする訳にはいかないと思っている。だってそうだろ、そんな事になれば、君の顔に泥を塗って、君の一生を滅茶苦茶にしちまう訳だからな。この世には珍しい、奴は自分の立場を弁えた野郎だよ。君に言わなかったか?俺は卑劣な男だって。全くはっきりした男だよな。この事は自分で念を押しているのさ。だがあの若造、タマなし婚約者の事だが、あの若造ならば君と結婚しても大丈夫だと思っているんだ。君の顔に泥を塗る事もなければ、君の一生を滅茶苦茶にする事もない。前科持ちの男に、君という存在は勿体無いからな──こういった事も、その賢い頭に入れておけよ」
葉巻が齎す白い煙の中で、眼を伏せて考え込んでいるサラをマンブルズは眺めた。これは嫉妬だぞ。いや、嫉妬以上のものだ。奴は……君が若造のところへ嫁に行くところを、本当に見届けるとでも?奴は君らが式を挙げたら最後、その日の内にすっかり姿を消すに決まっている。何を仕出かすか自分で分かったものじゃないからな。奴が恋焦がれているのは君だって事が、本当に分からないのか。君は奴の事なら何もかも知っていると思っていたが、これだけは気付かなかったのか?奴の凡ゆる言葉や仕草にはどんな意味を持っているのか、君は一度だって考えた事があるか?「あ、そうだ」と、席を立ったマンブルズは急に振り返って付け加えた。
「君はあの若造といて幸せか?」
「いいえ、ちっとも……ちっとも」
「そりゃそうだろうな、『ええ』なんて言う筈がないよな!」
サラの限りない悲哀が籠った返事に、思わずマンブルズは声を出して笑った。すると忽ち、明るい光が彼女の顔に燃え上がり、その悲しみと喜びを同時に照らし出した。彼女はアーチボルドと共に過ごした自分の生活を思い起こし、彼の一言一行にも自分に対する愛を見出したからであった。それが喜びであり、また悲しみとは、そんな彼が自分以上にもがき苦しんでいたという事実に対するものであった──あの人はこんな私を愛しているのだ。『君の結婚式には出席する、俺の意思でな』、という言葉はやはり嘘であったのだ、やはり彼は、やはり彼は私が幸福になるところなんて見たくないのだ!だって彼が愛しているのは、こんな馬鹿な私だから!そう思うと、サラの心にはただ愛の声だけしか聞こえなかった。彼女の胸は全て彼にのみ開け放たれ、彼の名を永遠の贈り物として胸に抱き締めた。

アーチボルドはすっかり考え込んでしまっていた為、天気が変わった事にも気が付かなかった。太陽は先の低い千切れた雲に隠れていた。西の地平線から、切れ目なく繋がった薄い灰色の雨雲が沸き起こって来ては、もう何処か遠方で早くも雨となり、ロンドンへ斜めに降り注いでいた。その雨雲からは湿った空気が流れて来た。時折稲妻がその雨雲を引き裂き、人間の営みの音にその雷の音が次第に激しく混じるようになった。雨雲は益々近くまで迫って来て、風に煽られた横殴りの雨は建物の窓と、彼のコートにも点々と掛かり始めた。彼は湿り気を帯びた爽やかな空気と、長い間雨を待ち焦がれていた大地から発する自然の香りを吸いながら、傍を過ぎる公園の草木、黄色くなったものや未だ青々したもの、花の咲いている深い緑色の葉などを眺めていた。サラ、サラ。何もかもまるで漆でも掛けられたように、その緑も、黄色も、灰色も、一入色鮮やかに冴えて見えた。終わりだ、全て終わった。恵みの雨に生き返っている自然に、アーチボルドはこう呟いた。激しい雨は長くは続かなかった。雨雲の一部は散ってしまい、一部は頭上を通り過ぎ、今や濡れた地面の上へ真っ直ぐに降り注いでいるのは、細かい最後の雫であった。再び太陽が顔を覗かせると、何もかも赫赫と輝き始め、東の地平線の上に高くはないが鮮やかな虹が掛かった。それは紫色のくっきり際立っている、片端の千切れた虹だった──私はあの人の前でも、いえ、誰の前でも視線を合わせて話すのは嫌なんです。私は貴方が良いんです。貴方になら、私は何でもすっかり話してしまいたいんです。貴方が望むのであれば、私は何でも話します。心に秘めているものでさえ。私は貴方に恋して、貴方を待ち焦がれていました。アーチボルドは地面を蹴って前へと進む二本の脚に力を与えた。サラ、君がそう言ってくれさえすれば良いのだ。彼はこの魂を押し包むような幸福の波に逆らう事は出来なかった。彼の愛の象徴である彼女の元へと急ぎながら、彼の胸にはある一つの光景が浮かんでいた。彼女の指に飾られた指輪を引き抜き、何処か遠くへ、二度と彼女の元へ戻って来る事が出来ない場所へ放り投げる。そして、彼女の足元に跪く。アーチボルドはただサラの澄み切った、真心の籠った瞳を見詰める。その深緑色の瞳には、彼の心を満たしている同じ愛の喜びに、怯えたような輝きを見せている。その二つの瞳は、和えるような愛の光で彼の目を眩ませながら、いよいよ間近に輝く。彼女は直ぐ傍へ、彼の身体に触れぬばかりのところへ来て立ち止まる。彼女の片手が上がったかと思うと、彼の大きな手の中に下ろされる。異常な幸福は実現されるだろう。しかも平凡に、何の騒ぎもなく、華々しい輝きも前兆もなく、突然に実現されるであろう。サラ、はっきりと言ってくれ、俺以外の誰のものにもならないと──そうだ、彼女の口から言わせるのだ。罪深い男が今から君を奪いに行くぞ。願わくば、永き悲痛と苦衷の果て、我が愛しの君のかいなに、再び掻き抱かれん事を……再び掻き抱かれん事を!

Flash and the Pan - Waiting for a Train