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Happiness



アーチボルドは腕時計から、遠退いて行く雨雲と再び顔を出した月へと瞳を転じた。二十二を針が指すまでに、耐える事が出来なくなれば逃げれば良いと構えていたが、一度ベンチに腰を下ろすと、その目論見は依然として心の内にあったが、行動に移す事は出来なかった。少し前に彼の心に生じた予感、それは消えて行くどころか、却ってその存在を強めている事が彼には分かった。今こそこの重い腰を上げ、自室へ戻るべきだ。でなければ、でなければ俺は──こうしてアーチボルドが躊躇しているところへ、庭の門が開く音が聞こえ、軈て草木や花々の影からサラの姿が現れた。二つの心臓が、同時に大きな動悸を打った。彼女が彼の隣に座ると二人は今まで通り親しげに、だが距離を保ったまま、上辺だけの話を始めた。少なくとも、そんな下らない話よりももっと真面目な事について、話し合わなければならないと二人は感じていた。しかし、そんな事は念頭から消え掛けており、ただ眼前にはあの人が座っているのだ、そして自分はその人を見詰めているのだ、という事しか考える事が出来ない。相手が何を話そうとも、その時の自分にとっては全く同様の事であった。暫くそうしていたが、アーチボルドが姿勢を正した際に腰にあった物がベンチの背凭れに当たり、僅かな力で持って彼の身体を圧した。拳銃の存在が、あの予感が彼を夢想から現実へと連れ戻した。何だって俺は拳銃なんぞ持って来たのだろう──サラが見た彼の顔は、何とも言えず痛ましい悲哀と深い疲労の色が、目鼻立ちの隅々にまで刻まれていた。彼女は咽喉が締め付けられるような気がし、「何かあったのですか」と思わず口走った。彼女自身、このまま時間を浪費する訳にもいかず、切っ掛けとしてその言葉を選んだのだ。それを察したアーチボルドであったが、彼女の言葉を拾うのに少し時間を要した。心臓が再び苦痛の鼓動を始めた。気も漫ろで、何一つ見向きもしなくない程に物悲しかった時の事が沸き立ったのである。
「君の眼には……俺がどう映っているのか分からないが、憂鬱だった。頭にあるのはただ不幸な君の事ばかりだった」
「不幸ですって?」
「好きでもない男と一緒になるのは幸福ではない」
「私が彼の事を好きだったら?」
「いや、好きじゃないな。君は未だに他人を見る目付きをしているし、何たって奴は見るからに詰まらない男だ」
庭にさっと吹いた夜風のような、僅かばかりの笑顔が二人の顔に浮かんでは消えた。アーチボルドは夜遅くに帰宅すると、床に就いて明かりを消す前にもう一度、サラの情熱溢れる明眸を思い起こしていた。彼女の近くにいながら、こんなにも彼女から遠く離れている。彼は目蓋を開き、星が現れている空、時々雲に翳ろいながら輝く月を眺めた。どの窓か影の背後に、彼女は今休んでいるのだろうかと何度思った事だろう。そして、この心は一体誰が知り得るだろう。胸の中は冷え冷えとし、心は暗い。
「じゃあ何故、貴方は憂鬱なんです」
アーチボルドは応えなかった。サラはただ彼を少し揶揄おうと思っただけの事だろうが、その一言一句は猛烈な毒となり、彼の血脈という血脈を走り回った。血がどっとばかり頭へ押し寄せた。この人は余程、俺にあの言葉を言わせたいらしい。この人は自ら言おうとせず、俺にそれを言わせるのだ。彼は胸の中で狂気が膨れ上がり、長距離を走り続けたように咽喉が渇き、舌が木の如く強張ったのを感じた。また、それと同時に、感情が分別の息の根を止めてしまった。アーチボルドはサラの顔から燃えるような目を離さずに言葉を続けた。
「此処に拳銃がある」
庭の枯れかけた楡の林の中で、夜鳥が俄な沈黙の一時を選び、詩人風の不吉の前兆宜しく叫んだ。アーチボルドの顔は相変わらず蒼白く、その顔にぴたりと注がれているサラの眼は、鋭い輝きを放っており微動だにしない。二つの魂が向き合った──俺と君と、今、此処から逃げ出すのだ。嬉しいとは思わないか、つまり……つまり心中をするのだ。彼は上の空で自分の抒情を聞いていた。無論、意味など分からなかった。ただ、何とも言えぬ本能的な恐怖が真底から込み上げて来るのを感じた。しかし、一度考えてみるとそういった心情へ辿り着く事は何ら不思議なものでも、不可解なものでもないように思われた。あの予感が的中したのである。彼女を自分のものと出来ぬのであれば、今此処で何らかの行動、自分のものと出来る行動を起こさなければならない。その方法はたった一つ、それしか眼前には開かれていない。何故君が俺の面影を追い求めるのか、それは君が心の奥で俺を愛しているからだ。君の心が密かに俺を愛しているからだ。君の上辺の心は奴に抱かれる事を許し、愛を囁いたかも知れない。だが本当の心は、それ故に却って強く俺に惹かれているのだ。君は奴の腕の中にいながら、実際は俺のものであるという訳なのだ。此処で俺と君が心中を企てる事は少しも不合理ではない。アーチボルドは左手でサラに触れた。米神から指の関節を顎まで流した途端、彼女の瞳が拳銃へと転じた。彼が右手でそれを構えたからである。死、これこそ一切を解決するただ一つの考えであったのだ。彼は彼女の首に手を添えると、彼女の頬に自分の頬を当てた。銃口、四つの米神、聖なる光と闇、それらが今は一直線上にある。
「──こうすれば一発であの世に行ける。痛みさえない。だがあの世でも、君と俺は一緒になれないかも知れないがな」
「そんな事を、貴方は考えていたんですか?」
「単なる自惚れだ。君が少しでも俺を……今の俺には、生死は同じ事だ」
アーチボルドは真っ蒼になって言った。両手が凍て付き始めると、自制心が轟音を立てて崩れ始める。人間を殺める時でさえ、そのような感覚には陥る事はない。彼はそれを恐怖と捉える事はせず、寧ろ無上の幸福と認識をして震える脳梁をそのままにした。このまま、無慈悲な星の光芒を見続ける事に耐える必要はない。生き永らえたとしても、地平線に低く架かる青白い星の光は、我々の心に消えぬ悲痛を掻き立てる。露に濡れた百合や薔薇のように、世に溢れ返る美を見ていると君が思い出され、疲労を覚える。天では時間さえ存在せず、悲痛が我々を捉える事もない。頭は軍鼓宛らに鳴り響いていた。アーチボルドの右手にはきらりと閃く拳銃、米神に隙間なく押し当てられた恩恵。サラが息を呑み、果たしてどのような心情からか、彼のシャツを強く握り締めた。その瞬間、彼は引金を引いた。すると、鋭い乾いたような激鉄のかちりという音が響いたが、発射の音は起こらなかった。緊張の糸が切れた彼女を抱き止めた時、まるで意識を失ったかの如く、もしかすると、もう死んでしまったと本当に思ったのかも知れないが、彼の腕にすっかり身を任せた。俺はこの人の顔に、気高い魂の輝きが現れるのを愛したのだ。崇高な輝き、何ものも取って代わる事は出来ないあの煌煌とした光……だが今はそれが失われている。アーチボルドは引金を引いた指でサラの髪の間を通り、何度も繰り返し子供をあやすようにして撫でた。
「冗談だ」
アーチボルド、貴方は実に悲愴で実に純情な人です、とても可哀想になる程に。私は貴方を眺めていると、胸が遣る瀬無さで一杯になって来るのです。天の凡ゆる祝福が貴方に与えられますように、私との別離から生まれる新しい人生に、愛の中に花が咲くように。私の人生の終焉は近い、私が貴方を愛した故に──装填をしていなかったという事実はサラの心に留まらず、その代わりにアーチボルドによって隠されたもう一つの事実が心に留まった。半ば本気であったのだ。彼はこのような冗談を演じたが、上着のポケットには弾倉が入っている筈であると彼女は思った。それを取り付けたまま演出をすると、彼の胸の内に飼い続けていた狂気が実際に引金を引かせるかも知れない。彼にも恐怖があるのだ、それは他人から授かるものではなく、他でもない彼自身に向けて授けるものであった。彼は間違いなく撃ったであろう。自分が彼を心の底から愛していると分かった時には……。
「アーチボルド、」
「君の結婚式には出席する、俺の意思でな」
君が幸福になるところをこの目で見る。その中には空想の焔を消し、その心から幻をすっかり追い払う一人の男の言葉があった。一瞬、ほんの一瞬、灰色の雲に覆われた事によって月の光が翳った。二人は世間から切り離され、周りから見る事の出来ない、背丈の高い草木と針葉樹との間にいた。サラはアーチボルドの方へ顔を寄せ、正に──だが、いけない。異常な幸福というものは成してはならない。君が幸福になるところを俺はこの目で見たい。彼は呟いた。そして、例えこの場で直ぐ永遠の地獄へ落とされようとも、自分はその嘘を言っただろうと思った。彼は彼女から顔を背けると、傍に置いていた拳銃を腰へと戻した。
「いいえ、いいえ、だって貴方は……」
アーチボルドは幸福に背を向けた。サラのその声は乱れており、体力の完全な虚脱を示している事は容易に分かった。しかし、彼は構わずに歩き始めた。今直ぐ、俺は今直ぐに消えるから、どうか黙っていて欲しい。何も言うな、ただ其処でじっと立っていて欲しいのだ、俺が完全に消えるまで。俺は本当の人間と別れを告げるのだから。軈て彼は、伏し眼になった彼女の睫毛が柔らかな頬に、波の如く垂れ掛かっていたのを思い起こした。君は何度、泣くのだろうな。去り兼ねる思いを最後の蕾として剥いていると、次第に、夢想から我に返る事が出来た。自分の愚かしさに我と我が身に酷く嫌気が差し、また一方、心の奥に火の如く燃え立つものを感じながら、途中で毟り取った花を胸に刻んだ高貴な名と共に、一切の幸福な思い出と共に、苛立たしげに地面へ投げ捨てた。その途端、夜も昼も彼が何処にいようとも、彼には地空は一体となり、一つの燃え盛る劫火に思われたのだった。