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One hour to madness and joy



午後六時になろうという頃、アーチボルドは一人で車を飛ばしていた。レニーや部下といる事が耐え難くなった為である。外の空気を吸うと、新しい衝動が激しく彼の心を捉え、魂が閉じ込められ憂愁に悩んでいた暗闇が、一瞬にして輝かしい光明に照らし出された。出来る限りロンドンから離れたいとの思いで、一刻も早く此処ではない何処かへ行こうと急いだ。しかし、終始何ものかが彼に付き纏い、思い悩ませていた事は勿論であった。身体の死か、将又精神の死が訪れるその時まで消え去る事のない一つの面影。その何ものかは彼が考えたいと思っている幻想ではなく、他ならぬ現実の世界のものであった。ロンドンから離れれば離れる程、サラの微笑は深まり、彼女との距離は離れて行ってしまう。精神は常に彼女と共にあるが、繋がれる事のない身体は何処までも遠くへと行ってしまう。アーチボルドは当惑した物思いに沈んだ様子になったが、軈て不意に何事かを思い出した。長い間、彼を苦しめていたある不思議なものの正体を思い起こし、自分がある事柄に没頭している事を明瞭に意識したのである。それは今でも続いているにも関わらず、今の今まで少しも気が付かずにいたのだった。もう何時間も、未だ彼等と共にいた時分から、いや、もしかすると彼等の元へ行く前から、彼は自分の周りにその何ものかを探し始めたのであった。時には長い間、半時間も忘れる事があったが、軈て静かに辺りを見回し、ごく自然に身の周りを探すのであった。ところが、アーチボルドの心の中に随分と前から生れていながらも、しかも今まで全く自覚せずにいたこの病的な働きに気が付くと、突然、もう一つの彼の興味を引く事柄が彼の眼前に閃いたのである。彼は、ある小さな商店の飾り窓に近い路肩に車を停車させ、其処に並べられてある品を大きな好奇心を持って眺めていた。自分がたった今、僅か五分程前にこの店の窓際に立っていたのは、果たして現実の事であったのか。それともただそのように思われたのではないか。何かと混同してしまったのではないか。実際に、この店とこの品はこの世に存在しているのだろうか?アーチボルドには、直ぐ隣に立って一緒に品を見ているサラの姿が見えた。指には何の飾りもない、昔の彼女が其処にはいた。彼は今日、取り分け自分があの発作に近い状態である事を悟った。それは発作が起こる間際に経験したものと殆ど同様の気分であり、こうした発作の起こりそうな時は、恐ろしく朦朧としてしまい、物や人間の顔は注意して見なくとも混同せず、逆に凡ゆるものを記憶してしまう事さえあるのを彼は承知していた。しかし、彼がその店の前に立っていたかどうかを突き止めたいと焦った事には、特別な原因があったのである。店の飾り窓に並べてある商品の中には、一つの品物があった。アーチボルドはその品に目を留め、四千ポンドと値踏までしたのであった。彼の頭には霧が掛かり、心は乱れていたにも関わらず、彼はこういった品定めは出来た。従って、もしこの店が存在していて、この品物が実際に他の品物と一緒に並べられてあったとすれば、彼はただこの品物の為にのみ、其処へ足を止めた事になる。つまり、この品物は、彼がロンドンを出たばかりに重苦しい心の動揺を感じている時でさえ、彼の注意を引き付けた程に強い力を持っていたという訳である。俺は何だってこんな物を見ているんだ?こんなのは余計な物だ、俺、増してや彼女にも必要のない物だ。彼は憂愁に駆られながら立ち去ろうとしたが、心臓は擬かしくも不安げに高鳴っていた。こんな物は四千ポンド程度だ、それ以上の代物ではない。彼は心の中で笑おうと努めたが出来ず、すっかり重苦しい吐息となっただけであった。すると、急に我に返ったように彼は背後を振り返り、その例の何ものかがいない事を確認すると、車へと戻った。言うまでもないが、アーチボルドのこのような落ち着きのない全ての行動の中心にはサラがいた。彼女が連れ去られる、彼はそれを見届ける。彼女の名が変わる、彼はその名を聞く。彼女に関する知らせを、彼は他人の口から知る。それは現実に根差したものが、以前から彼を苦しめる不安の念と結び付いて起こったものであり、今や疑う余地のない程に明白となった。俺は他でもない彼女に苦しめられている、無上の苦衷を俺に齎しているのは、この世で一人の彼女なのだ。おい、役立たずの青年、早く彼女を何処かへ連れ去れ。俺の前から姿を消せ、そして俺の耳に何の知らせも寄越せない程に遠くへ消えろ、二人で消えろ、彼女と二人で……。ところが、心中の耐え難い憎悪の情が再び力を増して来て、彼は何一つ考える事をしたくなくなった。彼はその事を考えるのを止め、全く別の物思いに耽り始めた。車を運転しながら彼は外を眺めた。野外にいた若者達は軈て、飲み過ぎた酒の酔いも次第に醒めて来たのか、通りを歩き始めた。彼等が歩むに連れて、銘々の頭の影の周りに乳白色の光の輪が一緒に進んで行ったが、それは輝く露のシーツの上に注ぐ月の光が作ったものだった。どの歩行者にも自分自身の影の後光しか見えなかったが、これは頭の影がどれ程覚束ずに動いても、決してそれを見捨てずにくっ付いており、いつまでもそれを美化するのだった。そして、遂には突飛な動作までが、この光を発する要因の一部かと思われ、また、彼等の吐き出す吐息は、夜霧の一成分であるかのように思われた。そして、風景の精も、月光の精も、大自然の精も、酒の精とぴったり融け合っているように思われたのだった。

丁度それはフックか何かで物を引っ張るような絵面であった。ずっしりと重い物を運ぶ為にそれに取り付け引っ張る。アーチボルドの心臓もそれと同様の扱いをされたのだ。しかし、彼の心臓はフックが必要な程に重くはない。フックの鋭利な先端がぐっと肉の表面を刺し力が加わると、心臓だけではなく動静脈までもを一気に持って行った。何て残酷な事を、この人は俺にするのだろう──サラは何やら謎めいた表情を、彼にしか見えない角度で示しては、彼の傍から立ち去った。それはほんの数秒の間であった。彼女の接近を見ずとも感知した彼は、彼女が自分の傍を通り過ぎるのを待っていた。あの明眸と視線を合わせると、自分の中の何ものかが死に絶える事を知っていた彼は、ただ床を見詰めていた。しかし、その時、黒瑪瑙の指輪が悲鳴を上げた。黒瑪瑙が構えているその銀色の縁と指の皮膚の表面の間。凹凸のある其処に、サラが指を引っ掛けたのだ。彼女に触れられた指輪と細胞は、直ちに主である脳へと信号を送った。この人は更に、今よりも更に、貴方を苦しめようとしている。幸い、アーチボルドは大地震宛らの衝撃に耐える事が出来たが、彼女はもう一つ、ある刻印を彼の心臓に与えた。それは紙であった。小さな紙を彼の手の中に納め、何事もなかったかのように立ち去った。それからというもの、アーチボルドは如何にも血の気がないと言える面持ちで、円テーブルの前に座っていた。彼は並々ならぬ恐怖と、それと同時に、時々彼でさえも見当も付かぬ、胸の詰まるような歓喜の情に浸っていた。彼は自分にとって馴染み深い二つの深緑の眼が、じっと瞬きもせずに自分を見詰めている方に瞳を転じるのを、どれ程に恐れた事だろう。また、再びこうして人々の間に座り、聞き慣れたサラの声を耳にする事が出来たという幸福感に、どれ程に胸を痺れさせた事だろう。あの人は今にも何か言い出すに違いないとアーチボルドは思いながら、彼自身は一言も発する事をせず、堰を切って落としたようなレニーのお喋りを聞いていた。彼は取引が上手くいった時に示す興奮と満足な心持ちを明瞭にしていた。アーチボルドはその話を聞いていたが、長い間、一言も頭で理解する事が出来なかった。そうしている内、一人の時間がやって来た。彼は自室へ入るや否や、別荘の明かりが点いている窓辺へと近付いた。レニーと話を交わしていた間中、しっかりと右手に握り締めていた小さな紙切れを広げ、弱々しい光を頼りに目を通した。『今夜二十二時、裏庭のベンチで』──その手紙は走り書きで、慌てて書かれ、二つに畳まれたものであった。行ってはいけない、彼女に決して近付いてはならない、彼女のあの眼差しを決して見てはならない……行く事だ、彼女に近付き触れる事だ、彼女のあの眼差しに微笑み返す事だ。驚きに似た何とも言い難い心の動揺、重苦しい予感を覚えながらも、それに接吻した。この予感は、今の彼の状態でも説明出来たかも知れないが、彼は余りにも漠然とした憂愁に捉われていた。それがアーチボルドにとって何よりも苦しかったのである。勿論、彼の眼前には重苦しく毒々しい事実が幾つも厳然として立ち塞がっていたが、しかし彼の憂愁は、彼が想起し想像し得る限度を越え、遥かに深く根を張っていた。彼は自分一人の力では心を鎮める事が出来ないのを悟った。今夜こそ自分の身の上に、万事を決するような、何か異常な事件が起こるに違いないという懸念が、徐々に彼の心に根を下ろし始めていた。