×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

Pay the price



夜気がしっとりと重く、サラの火照った顔へ香りを吹き付けた。どうやら雷雨が訪れそうな模様で、黒い雨雲が湧き出し空を這い、仕切りにその蒙昧とした輪郭を変えていた。微風が暗い木立の中でざわざわと身震いをし、何処か地平の遥かな彼方ではまるで独り言の如く、雷が腹立たしげな鈍い声でぶつぶつ言っていた。漸く一人切りになった事を大いに喜びながら、彼女は往来を横切って庭を抜け出すと、屋敷の中へ入って行った。彼女はこの先に自分を待ち構えている人生、好きでもない異性と結婚をするという人生に、どのように第一歩を踏み出すべきかよく考え、決断を下したかったのである。しかし、その第一歩なるものはよく考えるべき類のものではなく、単に決断を下すべき性質のものであった。急にサラは、こんな事を一切放り出し、道路へ出て車を運転し、何処か遠い田舎にでも引っ込んでしまいたい、今直ぐにでも、誰にも別れを告げずに立ち去ってしまいたいと痛感した。もしあと二、三日でも此処に滞在していたら、この世界へずるずると引き摺り込まれてしまい、この世界がいつか自分の前に大きく覆い被さってしまうだろうと予感したのである。しかし、ものの五分も経たない内、彼女は逃げ出す事は不可能だ、そんな事は臆病と言ってもいい事だ、自分の背後にはある問題が横たわっているのであり、それを解決せずに放置したり、少なくとも解決に全力を注がないでいる事には、今の自分にほ出来ない事と決意したのであった。このような考えを抱いて屋敷へ戻ったが、引き攣った心は片時も休む事をしなかった。その間、彼女は自分が実に不幸な人間であると思った。サラは、終始あの青年が自分に対し機嫌を取っている事には気が付いていたが、彼の傍に座っているという事を忘れがちであった。彼女はその場に限らず、何処かへ行ってしまいたい、此処から全く姿を消してしまいたいと思う事が多々あった。ただ一人切りで物思いに耽る為に、また自分が何処にいるのやら誰一人として知られないように、陰気で寂しい場所が自分には好ましいようにさえ思われた。その時、彼女の脳裡にある考えが閃いた。如何にも雲行きは怪しかったから、そろそろ皆はこの屋敷へ撤退し始めるだろう。すると、自分が今歩いているこの廊下も、沢山ある部屋も埋め尽くされる。人々が絶対に入る事が出来ない部屋が必要だ。自分に用意された部屋でも良いが、誰かが呼びに来るかも知れない。誰もいてはいけない部屋、あの青年も親戚も子供達も。サラは歩みを早める内、鼓動も同時に高鳴っていくのを感じた。長椅子に身を横たえ、背凭れに頭を預け、そのままの格好で昼も夜も、また次の日も、深い眠りに落ちていたかった。
「クソ、ずぶ濡れだ」
アーチボルドは庭から屋敷の中へ、一番最後に撤退した人間であった。屋根の下で天の気紛れな機嫌を、間抜け面で仰いでいた部下に指示を下してから、今度は外ではなく内で睨みを利かせる為、水分を含んだ衣服を替えようと部屋へ戻った。しかし、ドアを開けた瞬間に二つの目が捉えたのは、神の身元に横たわる天使宛らに安心し切り、如何にも無邪気に眠り続けているサラであった。彼はドアを静かに閉め、無礼者対策として鍵も忘れずに掛けると、濡れた上着を脱いでは雑に椅子に掛けた。彼女は毛布代わりにアーチボルドのコートを被っていた。今そのコートが必要なのは、全く雨に濡れていない君ではなく俺なのだが。おい、君、聞いているのか?彼女にのみ纏わる幸福の期待が鮮やかな光となり、彼の凡ゆる空想の中にぱっと燃え上がった。君のような小娘に肘鉄砲を食わされるなんぞ、一体俺はどうしたというのだ。彼此数年近くも君は俺の感情を弄び、俺の視線を盗み、俺の魂の向きまで変えたというのに、当事者である君は知らぬ振りだ。恐らく君は、俺が君を愛している事も、世界一の美人と思っている事も知っている。事実、そうだ。だから良い加減、君を俺の恋人として扱っても良いのではないか。おい、君、どう思う?俺を信頼している証拠に、俺の腕に抱かれて欲しいのだ。今は、今だけは俺と君の二人切りだ。互いに気心なんてものはよく分かっている。アーチボルドはサラの直ぐ傍まで近寄った。光沢のあるイブニングドレスは白皙に映え、彼の身体を駆け巡っている血液が細波を立て始めた。今までは何かしら遠いところにあるもののように思われていた、彼女の蒼白い情熱や、なよなよと消えてしまいそうな、それでいて不思議な弾力を持つ肉体の魅力が、俄かに現実的な色彩を帯びて彼の胸に迫って来るのであった。彼は床に両膝を突くと、雨で垂れ下がった前髪を後部へ撫で付け、小さな耳に煌煌と魅せている金剛石の傍を彼の魂が通った。艶のある髪、風雅な輪郭線、骨の形が看取出来る鎖骨、そして絶えず欲していたこの馥郁たる香り。アーチボルドの悩ましい欲望は、油を注がれたように恐ろしい勢いで燃え上がった──我々の命が溶け合い、全霊を懸けて互いの血を滾らせるその時、己は神となる。熱情は迸り、炎は燃え盛り、欲望は聖なるものとなる。サラへの想いは最早身体的痛み、疼痛と言える程の欲求となっていた。唸りを上げて鼓動する毎に欲望は強まり、愛撫で彼女の眼を覚ませてやる事を想像した。眠たそうな微笑が、徐々に欲情に変わっていくのが目に見えるようだった。二本の頸動脈が通うその間、薄い皮膚が張った咽喉の辺り。アーチボルドは其処に、血の通う唇を押し付けた。今まで彼女の何処にも触れた事がなかったそれに、彼女の嬉々とした皮膚が接触した瞬間、懐奥深くにしまっていたものが際限なく溢れ、薔薇色の血が歓喜し、彼の中の凡ゆるものが息を吹き返したようであった。それはあの屈辱の四年間、判決が下される以前に感じていたものと同様のものであった。彼の人間らしい胸にも遂に太陽が昇ろうとしており、それは一瞬全てのもの、彼の人生を明るく照らし和らげるかのように見えた。しかし、其処であの判決が彼の元に降り掛かったのである。アーチボルド、全てを手に入れようとしてはならない。そんな幸福な人生なんぞ何処にもない。何かが足りないと思いながら生きるのが人間の定めなのだ。全くのところ、サラは俺の事を揶揄っているではないか。まるで子供みたく揶揄っているのだ、だから彼女の事を叱る必要は何処にもない。悪く思うなよアーチボルド、彼女はただ退屈紛れに、俺や周囲の男共を揶揄っているだけなのだ。だから俺の本当の気持ちというのは、例えどのような事があろうとも口に出してはならない。彼女はこのまま、このままこの道を歩んで行けば良いのだ。露になっている腕や脚はコートの影に潜んではおらず、アーチボルドはコートの端を摘んでそれらを覆い隠した。自分が以前のような若々しさと、純潔さと、大きな可能性に満ちた未来を持った人間になったような気がした。しかし、それと同時に、夢の中でよく経験する事だが、それが最早現実ではない事も承知していた為、彼は堪らなく侘しい気持ちになった。君が未だ誰のものでもなかった頃に、いや、例え昔の君であっても、隣に並ぶのは俺のような男ではない事は必定なのだが。
「──アーチーさん?」
一瞬、サラの気が遠くなった。軈て我に返った彼女は、目蓋を開けていないのにも関わらず、近くにアーチボルドのいる事が分かった。頭を動かして辺りを見ると、彼は彼女と同じ長椅子に腰掛けていた。ガラステーブルの上には度数の高い酒と幾つかの書類が置かれてあり、彼は眉間に皺を寄せながらそれらに目を通していた。「君はパーティーを放置してぐっすり眠っていた」と、彼は少しだけ顔を彼女の方へ向けて言った。未だ去らぬ眠気が齎したのかどうかは分からないが、その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。彼の横顔、血がその下で脈打っている苦しげな、老いたその顔に酷く見覚えがあった。眠る前に見たのではなく、眠っている間に見たのだ。彫刻宛らに深味のある目鼻立ち、静寂で冷徹で悄然とした表情。熱を帯びた微かな息遣い、自分の名を呼ぶ色気と威のある声。『サラ……夢だ、これは夢だ』──サラはすっかり自分の身体の一部となっているコートに気が付いた。そうだ、これは私が自分で被ったのだ。彼は上着を掛けるという事をせず、椅子やらソファーにポンと置く癖があり、誂え向きのものが寂しげに私を見ていたから。そして、記憶に残り続けては、自分を苦しめもし安堵もさせる彼の香り。全てを狂わせる情熱の香り。アーチボルド、どうして貴方はこんな事が出来たの、どうして私に優しくし、どうして私に触れた事を夢とするの、どうして私の言葉を注意深く聞こうとするの。貴方が席を立って私の傍を通って行けば、私は貴方の姿を眺めて、その後ろ姿をこの眼で見送る。貴方の服が鳴る音が聞こえると、私の心臓は止まりそうな気がする。貴方が部屋を出て行ってしまうと、私は貴方が言った短い言葉でも全て思い出して、どんな声でどんな風に言ったか、すっかり思い出している。彼の胸は私の胸の直ぐ傍で息付き、その両手は私の髪を撫でていた。すると突然、全く有り得ない事が私の身に起こった。厚みがなく頓着に無縁そうな唇が、私の咽喉を覆い……軈ては私の唇にも触れたのだ。手で持っていた用紙をテーブルに置いたアーチボルドは、相変わらず真面に瞳を転じずにはいるものの、サラの様子からして既に意識を取り戻した事を察すると、素早く長椅子から腰を上げた。
「さあ、起きるんだ、向こう見ずなお嬢さん。こんな物置きのような部屋にいつまで居るつもりだ?」
アーチボルドは目を細めて嘲った。その表情の中には一種の独特な、慈しむような優しさがあった。彼はサラではなく、彼自身を嘲ったのだ。彼女は彼のコートを無意識に幾らか長く、自分の手に握ったままにしていた。この人にとって私は何だろう?彼女はまるで、夢の中にでもいるように部屋の外へと身を運びながら、何やら馬鹿馬鹿しい程に緊張した幸福感を、骨の髄まで感じるのだった。