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A word is dead



懐かしい友、遥かなる者、消え去ったある男の望みよ、悲痛にも幸福にも遠くしてまた近き者よ。この世の友と天上の友との存在を染み染み悟る時、いよいよ懐かしさは込み上げるばかり。目に見える友、目蓋の友、人間にしてまた神の姿の友よ、優しい人間の手と唇と眼を持つ友よ、永遠の生命を持つ懐かしい天上の友よ。彼のもの、彼のもの、永久に、永久に彼のものであれ。過去、現在、そして未来へと続く不思議なる友よ、懐かしさは更に深まり仄かに見える友よ、見るが良い、彼は幸福というものを夢見、君の姿をこの世の全てのものと交わらせるであろう──サラの薬指には婚約指輪、この女は俺のものという符牒があった。その玲瓏たる宝石は、恵み溢れる彼女の秀麗さをより一層引き立てており、また、彼女の眼差しの不思議な光は彼女の顔を、この世のものとも思われぬ天使宛らの美しさで満たしていた。アーチボルドが彼女の姿を捉えた途端、朝の陽光と共に悪魔が退散した感覚に陥り、昨日の事は全て、丸切り全て、彼の夢か幻でしかなかったとさえ思われた。死神の如く宙に漂う白い煙、鼻を打つ硝煙の匂い、静謐さの中で潜む事を知らぬ鼓動。この追憶は快感と苦痛を伴いながら、またもや彼を病的な精神世界へ導き入れようとした。恐れる事は何もない。肝心な事は隙のない生活をし、何事によらず夢中にならない事だ。夢中になったところで一体何の役に立つのか。波が打ち上げてくれる所は碌でもない場所に決まっている。人間というものは例え岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足なのだ。しかし、旧知の仲であるその持論もサラの魂の前では虚しく萎れるだけであった。
「すまないが、これを……サラに渡して頂けないだろうか」
「ええ、構いませんよ」
「それと彼女には、今夜少し散歩をする時間はあるだろうか?二十二時きっかりに、向かいの公園で待っていると伝えて欲しい」
「伝えておきましょう。ですが、彼女の婚約が先日決定したばかりでして、」
「何?婚約?」
「ええ──これ、返却しましょうか」
「い、いや、それは彼女に渡してくれ。伝言はなかった事に」
思わぬ知らせ、それも無上に不幸な知らせを赤の他人から食らった哀れな権力者は愕然として震え上がりながら、その場に釘付けにされたように立ち止まった。この一連の流れは一見したところ、全く馬鹿げた事のように思われた。眼前にいる男、周囲の人間から尊敬される年配になり、立派な分別もあれば世間に対する見識なども備えた人間でありながら、自らサラの女としての魅力に負け、しかもそれが一時の気紛れではなく、本物の情熱に近いなどという事は、どうにも信ずる事が出来ぬ程であった。この場合、彼が何を目指しているか皆目見当も付かなかった。すっかり情熱の虜となってしまった人間は、事にそれが年を取った場合には全く盲目になってしまい、決して有り得ないところに希望を認めようとするのは周知の事である。いや、そればかりでなく、例えどれ程に悟性があろうとも理性というものを失い、愚かな子供染みた真似をするものである。彼は極めて高価な素晴らしい真珠を用意した。サラが欲のない女である事は百も承知の癖に、その結果を楽しみに空想していたが、これがまた皆の知るところとなった。彼はまるで熱病に罹ったように、また、巧みに押し隠していたそれに打ち勝つ事が出来なかったのか、その真珠を彼女ではなくアーチボルドに手渡したのである。彼はふと思った。あの夜、彼女が自分をレニーの家に置いて立ち去った時も、自分はこの親父と同様の顔付き、すっかり心を奪われ、唇からは表情が失せ、目からは光が失せている表情になっていたのかも知れない。傍から見れば自分もこの男も、何ら変わりのないものではないか。いや、この男ばかりではない。此処にいる連中までが、サラと近付きになる光栄を求めて好機を窺っているのだ。アーチボルドは持っていた質量のある箱を、シャンパンやワインやらが並んでいるテーブルの上に置いた。するとその時、サラは些か手巾宛らに蒼い顔をして現れた。しかし、その大きな緑色の眼は細波すら立たぬ、静まり返った湖の如く群衆全体を眺めていた。他ならぬこの眼差しに群衆は参ってしまっていた。各々の心中で歓呼の声が上がっているように彼には思われた。
「アーチーさん、さっきの人に何か言われました?」
「見ていたのか」
「私は彼処で隠れていましたから。拳銃を今にも発砲しそうになっていましたよ。それは何です?」
「唯の商売人だ」
サラには嫣然さが漂っており、その隅々にまで他人には真似の出来ぬ溌剌とした力が溢れていた。彼女の顔付きも若さが相俟って、ある色を帯びたと思えばまた次の瞬間には異なる色を帯びていた。それは殆ど同時に、冷笑を表わしもすれば物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。まるで晴れた風のある日の雲の影の如く、軽く素早い色取り取りの情感が、絶えず彼女の眼や唇の辺りにちらついているのだった。しかし、其処に一人の男がやって来た。二つの心臓が築いていた情趣の空間の中に、全きの新しい部外者の鼓動が加わった。アーチボルドは直ぐ様その方へ瞳を転じたが、サラは直ぐ様眼を伏せた。婚約者であった。片手にグラスを持ち、下ろし立ての背広を着ているその姿は才気溢れる青年のようであったが、アーチボルドの双眸には無知、この世の仕組みなんぞ何一つ知らぬ滑稽者として映った。青年は二人に挨拶をし、この催しは実に素晴らしいものである事を伝えた。しかし、彼女の口から出て来る応対の言葉に対し、何か機転の利いた言葉を使おうとしたらしかったが、一言も出ない程に彼女の美しさに目を眩まされ、青年は深く心を打たれてしまっていた。アーチボルドはそんな青年の姿が正に数年前の自分と全く同様のものであると分かっていても、声を高らかに笑ってやりたくなった。そう、そうだ若造、我々男共は皆その道を通るのだ。我々の心中にはサラの並々ならぬ印象が焼き付き、決して癒える事はないのだ。軈て青年はアーチボルドの方へ視線を移動させたが、彼は黙ったままその気難しい表情を崩しておらず、また、視線が合わさった瞬間に微かな薄笑いを浮かべた為に、青年は再び彼女の方を向いてしまった。その時、青年がさっと顔を赤らめた事に気が付いたのはアーチボルド一人だけであった。彼女は青年を真っ直ぐに眺めており、ふっと微笑を漏らした。しかし、その微笑の中に存在する憂愁と焦慮とは、アーチボルドの目には、相変わらず益々募っていくように見えた。こうして傍で声を聞き、眼前一尺の姿を見ながらも、彼とサラの間には無限の隔たりがあった。彼女の身体は其処にありながら掴む事も、抱く事も、触れる事さえ全く不可能であった。しかも、彼にとっては永遠に不可能な事柄を、この青年はアーチボルドの眼前で、さも無造作に、自由自在に振る舞う事が出来るのだ。彼の胸の内に再び姿を見せ始めたあの発作。彼がこの世の常ならぬ無残な苛責に耐え兼ね、遂にあの恐ろしい考えを抱くに至ったのは、誠に無理もない事であった。それは実に途方もない、狂気染みた手段ではある。しかし、それがたった一つ残された手段でもあった。それを他にしては彼は永遠に、彼の恋を成就する術はなかったのである。彼はあの発作に対する劇薬として一つの考え、一つの事実ともいえるものを思い起こすよう努めた。この若い男女二人は何ともお似合いではないか。不平を言わぬ高潔さ、多くを求めず、世の掟に従いながら死へと歩んで行く。この俺のように才能のない、短気で欲深い蛆虫にとっては、犯罪が何より有り触れた避難所なのだ。今まで、またこれから俺が歩いて行く道は彼等とは全く異なる。拳銃の引金を引く事もなければ、何処からか銃弾が飛んで来る事もない。相手の弱味となるものを血眼で探す事もなければ、低俗な言葉で相手を怯えさせる事もない。する必要がないのだ、彼等のような人間には。どうかその幸福が彼等にとって真実のものであるように。自分達はもっと他の幸福の為に生まれて来たのだと思う事がないように。君を尊敬し、常に変わる事なき友として──俺はどんなに君が好きだろう。いつまでも君の──アーチボルドは一心に、場を辞する二人の背中を見詰めたまま黙っていた。何処かへ立ち去ろうともせず、その場にじっと立っていた。その目の中にはゆらゆらと焔が灯っていたが、顔はすっかり蒼褪めていた。