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Someone like you



アーチボルドはふと考えた。何かをじっと見詰めている時、口が語っている事と少しばかりの食い違いも見せないような眼が別の世界──サラの世界の背後に存在し、その世界と一致せず、全く正反対であるような別の世界を眺めているといったような事が、果たして有り得るだろうか?彼は広い敷地内に車を駐車するとエンジンを切った。内外のライトが消灯するや否や、彼と彼女の間に一挙に夜が入って来ては無関心に、無頓着に、その場を占領した。既に二人の幸福をひと呑みにしてしまい、今やそれを冷然と消化している夜が。それは、いつ何時でも他の数知れぬ人々の幸福をも鵜呑みにし、しかも全く同様に平然と態度を崩さないでいようという夜であった。レニーの執務室へ自分が今正に近付いているという事を認識せざるを得なくなった途端、サラは死人の如く蒼褪め、氷宛らに冷たくなり、四肢の感覚を失ってしまった。それでもその場に立ち止まる事は許されず、他でもないこのアーチボルドが自分をレニーの元へ連れて行っている。忠犬が無感情に、自分の心情を顧みる事なく、ボスの元へ連れて行っているのだ。全く生きた心地もなく一つの部屋を通り抜け、次の部屋を通り抜け、更に三つ目の部屋を通り抜け、レニーの執務室へ通され、その前に立った。その時、彼女がどんな事を考えていたかは彼女自身、明瞭には分からなかった。見ると、レニーは大きな机に肘を突いて葉巻を鷹揚に吹かしていた。サラは余りにも怖気付いていた為に、挨拶の言葉、何と御辞儀さえも忘れてしまい、唇が震え始め、足も幾分覚束なかった。彼女は右手にある鏡をちらと覗いたが、其処に映った自分の姿を見ただけで気が狂っても不思議ではなかった。また、彼女はいつも自分という人間がまるでこの世に存在しないかのように振る舞っていた為、レニーなどは自分の存在すら承知していない筈であると思い込んでいた。しかしそれがこの通り、彼は黒いサングラスの奥から真っ直ぐに彼女一人を捉えていたのである。葉巻の白い煙から漠然と見える冷徹な顔が、「お前は遂に売れたぞ」と早い口調で言い放った。
「お前の事を気に入った奴がいてな。来週その取引先と食事をする。お前も来い、やっと出番だ。だが未だ孕むんじゃないぞ。結婚するまで存分に夢を見せてやれ」
レニーが言った奴とは、取引先の重役の息子である事がアーチボルドには分かった。レニーは一度もこの話をアーチボルドにした事はなかったが、数ヶ月前に見たある一つの光景が、彼の理解を確実なものにした。違法の上を歩く者同士の親睦を深める細やかなパーティー。其処でも相変わらずサラの姿に、早くも数人の人間が注意を向け始めていた。間もなく彼女の傍へ知り合いの若人が近寄って来た。その内の二、三人が何時迄も居座り話し込んでいたが、その間に一人の、陽気で話し好きの美しい青年がいた。彼は仕切りに彼女に話し掛け、その意識を自分に向けようと努めていた。彼女も相手に対しとても優しく、笑顔を絶やす事をしなかった。それが礼儀であると彼女の方では思い、一方で男の方ではそれが恋となったのである。レニーの不親切な、棘があり面倒げに捲し立てた言葉からはそれらの出来事を想起するには難しい。事実、アーチボルドが見たサラの横顔はまるで心当たりがないといったものであり、奴とは一体誰だ、私は生まれてこの方、異性を魅了した事など一回もない、といった質の悪いものでもあった。この育ちの良いお嬢さんには、この世界が自分に適していないと身に染みて分かる時が来る──彼はその時、自分が愛すべき対象としている彼女の姿を、眼前の蒼褪めたものと重ね合わせた。人形の如く飾って置かれていたサラ、君は何故そんなに不幸なのだろう。君は一体何処が周りの連中に比べて劣っているというのか。君は気立てが優しく、美しく、学問もある。それにも関わらず、何故君はそんな不運を背負わなければならないのか。悪魔の爛々と光る二つの目が、立ち竦む彼女を見詰めた。彼女にはレニーの力が徐々に加わって来る、それと同時に、魂と共に彼女の全身が抵抗し難い力で相手の方ヘと引き寄せられて行く。彼女にはどうする事も出来ないのだ。最も忌まわしく、最も恐ろしい悪夢の中の如く、意識は全く言う事を聞かない。心ばかりが苛立たしく、もがき苦しんでいるようであった。サラは無意識の内にまた自分の手首を抓り続けていた。両親の名が頭の中で血の止まらぬ傷口宛らに疼き、彼女は両親の助けを必要とする重大問題について、今まで深く考えて来なかった問題について、自分の人生の選択はレニーに託されているという事実から眼を瞑っていた事について、今更に彼女は思案している様子であった。また一つ死が増えた、とアーチボルドは悲しく思いながら、束の間、心を彼女の破綻するであろう結婚生活に繋いだ。だだっ広い家の庭で母親と話していた、世間ずれしていない綺麗な彼女が思い出された。
「家まで送る」
「いえ、大丈夫です。自分で帰ります」
アーチボルドはサラの眼付きから、彼女に嵐が襲って来る事を悟った。しかし、彼の氷の刃宛らの目にも、何かしら並々ならぬ不安の色が浮かんでいた。彼は彼女を玄関の所で引き留め、殆ど囁くような声で二言三言言葉を交わした。それから彼女は無言のまま大人しく上着を羽織り、ドアを開け、胸に込み上げてくる感情を彼に悟られまいとして、故意に笑顔を作りながら立ち去って行った。何故彼女は行ってしまったんです?といった間抜け面をアーチボルドに投げ掛けている部下が一人其処にいた為に、彼はサラを追い掛ける事をしなかった。俺は誰でもない、そうだ、俺には名もなければ心もないのだ。今日、彼女がレニーの元へ辿り着くその時まで、その時まで自分の心を捉えていた、何かを心待ちにするあの些か高ぶった感情。その実、自分でも何の為やら分からないでいたもの。彼は酷く疲れていたが、帰ろうという気には少しもならなかった。どうやら彼は今や全宇宙を忘れ去ってしまい、例え何処に立たされようとも、そのまま数年でも佇んでいそうな様子であった。端末に着信が入った音に我に返ったアーチボルドであったが、彼は其処にどれ程立ち尽くしていたか、自分でも気付かなかったであろう。時刻はかなり遅く、辺りは闇同然であった。彼は幾分蒼い顔をしていたが、落ち着きを取り戻していた。サラ、と彼は無言で呼び掛けた。君は連れて行かれるのだ。君は何処かへ行ってしまうのだ。君を取り上げられる日が来る事は随分と昔から知っていたし、何かしようとは思わなかった。しかし……君は連れて行かれるのだ、この心臓を掴み出された方がずっとマシに思える。二人はいつも遠く離れているという事が、アーチボルドには歴然と感じられたのだった。

アーチボルドの顔は痩せ細って乾き切り、輪郭は丁寧に剃り上げられ、周囲の人間にはかなり上品で颯爽の印象を持たれていた。その険のある目付きの気難しい顔には癇癪を起こしそうな、何か病的な誇りの翳が浮んでいた。それは表社会で生きて行く事が出来ない人間が持つ特徴であったが、ジャンキーといった類のものではなく、ある程度の権力を持ち、自分よりも上に立つ人間の弱味を知り、それを脅迫の種とする事の出来る知恵を持つ人間のものであった。世間には、自分の苛々した怒り易い性質の中に、異常な快感を見出す人間が存在する。その快感は憤怒が絶頂に達する時、取り分け強く感じられるのである。そういう瞬間には、侮辱された方が侮辱されないよりも更に気持ちが良いのではないかと思われる程である。こうした怒り易い人間は、後に慚愧の為に恐ろしく苦しめられるものであるが、これは勿論彼等が聡明な人間であり、自分が必要以上に十倍も腹を立てた事を悟る事が出来る人間の場合に限っての話である。アーチボルドは再度手摺り越しに、路上に目を走らせた。ある地点から此処まで、一人の男による尾行を感知していた為である。しかし、其処には徘徊者はいなかった。此方へ上がって来るところだな、と彼は思った。あれはよもや警察ではない、暗殺者なのだ。先日拷問により情報を得た人間に関わる徘徊者だろう、と彼は階段を上りながら考えた。男が乗って来た黒塗りのオートバイの傍には誰もいなかった。遠方に影が見え、その影が一向に離れないと分かると、アーチボルドは運転手と席を換えた。角を曲がった途端に運転手を降ろし、郊外にあり、彼がよく尋問に利用する廃墟へと車を走らせたのである。もう自分は長生きをしたから、たった今人生を終えても良いのだ、と自分に言い聞かせた。しかし、寸秒たりとも本気でそう思いはしなかった。この道へ足を踏み入れてから絶えず、昼も夜も考え続けているのはこの瞬間の事だけであった。殺しである。今、その瞬間が来たのだ。車を運転していた時は冴えた目で道路を注視しながら、脳裡にちらつくサラの美しい顔に起こり得る、幾つもの破滅的状況を思い浮かべた。アーチボルドは自分に破滅を呼ぶ素質がある事を知っていた。昼間であったが廃墟が齎す所々の深い影。其処に身を潜め、腰に差していた拳銃を手に取った。危機の瞬間が近付く。女が欲しいという狂おしい思いが湧いた。俺のサラ、遂に俺のものではなくなったサラが欲しい。深緑色の慎ましいあの微笑も、上質な衣服を纏っているあの身体も。この殺しが済んだら、彼女の元を訪ねようかと迷った。誕生日だからと彼女に手渡しをしてしまったもの、一人で帰ると言って闇に消え、助手席に虚しく忘れ去られたもの。君に、と苦しみながら書いたカード。やはり贈るべきではなかった。アーチボルドは、自分が握っている拳銃から二つの薬莢と硝煙の匂いが外へと出たのを見、また地面へと崩れる屈強な男をも見ると、部下の一人に電話を掛けた。簡易な指示を下しながら、目蓋が開いたままの男の姿をじっと見下ろしていた。彼にはそれが、今日若しくは明日の自分の姿に見えて仕方がなかった。車に乗り込み、都心へと通じる道路を走った。閑散とした通りには、澄み渡った風に当たろうと二組のカップルが歩いていた。一つの方は年配で物静かな感じであった。もう一つの方は、後ろ姿からして魅力のあるペアで、何方も引き締まった身体をしていた。夜が凄いだろう事は見ただけで分かった。しかし、年配の方のカップルはまるで男女警察官のようだった。この二人には性の喜びはないとアーチボルドは確信した。俺は一体何を考えているのだ──彼女だ、サラの事だ。『君が必要』か、と彼は牧歌的好天とは程遠い空を眺めた。『愛している、嫌っている、必要としている』などといった黙示録的言辞は今や、他の男のものとなった彼女には言う必要のないものであった。文章の中核は主語であり、動詞況んや目的語ではない。自我が餌を求めているだけの事なのだ。しかし、彼の激しい恋慕の情は、彼女を穢されたという事を思った程度では癒される筈はなく、遠くから彼女を眺めれば眺める程、彼の満たされぬ欲望は、弥増しに深く激しくなっていった。俺は君という人間を知ってから、俺は第一に自分自身をよく理解するようになり、そして君を愛するようになったのだ。いや、君と出会うまでは俺は孤独で、眠っていたも同然だった。この世に生きていなかったも同然だ。何しろ俺の周りにいた人間、家族やら親戚やらは皆俺の事を嫌い、俺は俺で自分の事を何よりも嫌っていた。それが当然と我ながら思っていたのだ。ところが、君が俺の前に姿を現し、この陰惨な生活を明るく照らした。忽ち新しい精神世界へ拉せられたのだ。自分にはきらりと光るところもなければ煌びやかなところもなく、大した品もないが、それでもやはり自分は一個の人間である、心と頭を備えた人間であると悟る事が出来たのだ。ところが今度は……君が運命に追い立てられ、虐げられる側の人間となってしまった。君はすっかり自分の価値を否定してしまうかも知れない。あの不幸、レニーが何処からか持って来た男に捕われるという不幸が起こった。婚約、婚約者、一見堅気同士だが、向こうの男なんぞこの先どう転ぶか知れたものではない。一度その味を占めると、這い出す事は非常に難しい。遊びの加減も、脅迫の節度も、殺しの際限も、あの歳から学ぶには遅過ぎるというものだ。アーチボルドは熱、微々たるものだが治る見込みがない熱に魘されていた。半ばそういった状態にありながらも、もし奴の前で発作が起こったらどうするかという考えが心に閃いた。幾らでも方法はあるのだ、上手く誘い出し、先程利用したような廃墟で殺しをする方法なんてものは。部下に知られる事なく自らの手で、新しく建築される土地の下に埋める事など容易い。奴は何たって素人だからな……彼はそう考えると、思わず寒気を覚えた。日頃相手にしている、名誉ある立派な人間共の集まりに出て、何が為か、生真面目にせっせと働く何やら奇妙な人間共の間にいる自分の姿を、アーチボルドはありありと思い描いた。その中に存在する、サラの婚約者。穢れのない男。何よりも恐ろしかったのは発作、男は金と女を使えば脅迫出来るという考え、それと殺しの手っ取り早さであった。あの男は話してはいけない事を心得ているような賢い男であるが、引っ切りなしに口を動かし、何やら熱心に人間共、特に彼女に対し得意げに説き伏せる事だろう。明日催されるパーティーで彼女と奴が客の中に混じり、とても仲が良さそうに見えたとする。決して考えてはならない、発作の事や自分の思考、未来に関する何かしらの事なんぞは。拳銃に決して手を添えてはならない、サラに決して近付いてはならない……。アーチボルドがその歳になって遂に思い知らされた事というのは、彼の頭が彼女の膝に安らう事はなく、彼の唇が彼女の髪に触れる事もなく、死に絶えても彼女の愛を得られないという事であった。ロンドンに吹き続ける新しい風も、無限の空を飛ぶ鳥も、彼の愛の為に嘆く事はしない。彼は鎖や剥がされた爪、殴打や淫蕩、瀕死の息遣いや、深い聡明らしい表情に輝かせる眼を持つサラの事などを思い浮かべた。すると、彼は羨望の念を覚え、このように優雅で今の彼には清らかなものに思われた幸福が無上に欲しくなった。