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Give them thy fingers, me thy lips to kiss



『いいかサラ、これだけは覚えておけ。お前の親戚は皆揃ってクズだが、両親だけは堅気だ。夢見てるのは退職金と慎ましい年金暮らし、そうだろ?だがその日常が突然プッツリ終わりを迎える事だって有り得る。老衰とかいう平和なものじゃない、分かるな?両親の生活を守りたかったら誰とも結婚するな。お前が結婚する相手は俺が選ぶ。それまで大人しく股を閉じ、クソの役にも立たん本を読んでろ、良いな?』
レニー・コールの言葉は雷の如くサラの心臓を打った。彼の恐喝を耳にすると忽ち彼女は手巾宛らに蒼褪め、アーチボルドは彼女のそんな顔を見詰めざるを得なかった。彼女は自分の耳を信じ兼ねるように身震いをし、聡明な深い緑色を持つ眼を見開いていた。まるで恐ろしい打撃を頭に受けた者の如く、すっかり感覚を失ってしまっていたのである。若者特有の感じ易い心は、眼前に佇む一人の老人、それも卑劣な権力を握る相手には何の助けにもならず、また却ってそれは様々な幻影を彼女自身に見せるのであった。部屋から出ろとの指示が下ると、サラは立ち上がり、殆ど走るようにしてその場を離れた。彼女の親切で潔白な眼。時折きらりと高尚な光が走る彼女の穏やかな眼。アーチボルドの中に常に存在したその印象は、深く沈んだものと成り果ててしまった。しかし彼はその場に立ち竦んでいなければならず、彼女の後を追い、何かしらの言葉を掛ける事は出来ない立場にいるのだった。
『アーチー、サラを見張れ』
『見張れとは?』
『男と連むのは良い。だが簡単に孕みそうになったら頬を打ってやれ』
高級車の窓枠の中に見える一人の女性の顔。出会った人間の容貌を素早く覚える癖を持つアーチボルドは、この時、その女性が若くて美しい人である事を一瞥で見て取ってしまった。しかも、その顔は彼が生きて来た時間の中で全く見た事のない質のものであった為、殊更印象が強かった。蒼白い顔色、物憂げな深緑の眼、薔薇色の唇、雪白の手。何が面白いのか白い歯を見せて笑いながら、楽しげに母親と話していた。恐らくこの人は大きな声でものを言ったり、物を放り投げた事がない類の人間であると、彼は無意識の内に判断を下した。彼女はサラ・バラデュールという名を持ち、父親の兄弟がレニーに仕えていた。自分の野望の為ならば何でもするギャングとは対極の人間であり、彼女は官吏一族の元に生まれた所謂育ちの良い、教養のある娘であった。彼女はレニーやワイルドバンチと呼ばれるギャング達と殆ど交流を持つ事をしなかった。それは終始レニーに対し媚び諂う事をせず、国にのみ仕える人間がする軽蔑の態度を顕にしていた父親の教育のお陰ではなく、何よりそれは彼女が持つ慎ましい性格の為であった。ただアーチボルドとは視線を合わせ、話を交わした。彼が過去の思い出にどれ程深く分け入ってみても、生真面目で優しい微笑を含んだ、考え深い彼女が見出されるのみであった。何という相違、俺が見て来た人間とサラと、何という違い方であろう。自然のままのあの何という魅力、何というあどけなさ。彼女の考える事は手に取るように分かってしまい、それが浮かんで来るのが目に見える。だが本当の胸の内、懐奥深くに仕舞い込んであるものは俺にはさっぱりだ。俺のような男には一生掛かっても、理解出来ないものが其処にはあるのだ。愚かだ、俺は野心や金の事でこの頭を満たしていた為に、彼女のような人間の素晴らしい良さを味わう事が出来ないのだ。何という相違であろう、そして俺が此処に見出したものとは一体何か。何の潤いもない思い上がった虚栄心、様々な自尊心、ただそれ切りだ。彼女のような人にとっては──アーチボルドがこのような事を考えたのは、街中の狭い通りの路肩に車を停車させた時であった。もう彼此十時を過ぎていたが、通りには若人で溢れていた。何かしら暗い影がちらっと、これからより一層輝こうと努めている月を翳めた。蒸し暑く、微かに雷雨の前触れを思わせる何ものかがあった。今のように瞑想的な気分にいる彼にとって、それは快い一種の誘惑となった。彼は目に映る凡ゆる事物に対し思い出を感じ、理性を働かせてそれに溶け込んで行ったが、これが非常に好ましかった。彼は目前に差し迫った現実を忘れたい気がしたが、辺りを見渡す度に、何としても逃れたいと思っているあの暗い想いに、直ぐにまた取り憑かれるのであった。「ハロー、アーチーさん」と薔薇色の唇が動き、白い歯が見えた。自然の豊かさ、森や海の色である深緑の瞳がすうっと細められた。たった今までアーチボルドを捕らえていたあの暗い想いの因である主が、その姿を顕にした。彼が施錠を解除するや否や、サラは後部座席ではなく助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「お迎え、ありがとうございます。今日はアーチーさんが担当なんですね」
「生憎、部下の手が塞がっていてな。ほら、友達が手を振っている」
「みんな、バイバイ」
アーチボルドから友人へと瞳を転じたサラは、その白い手、厚みのない、彼にとって異質そのものの象徴である手を上げて、彼等に振って見せた。彼は車を発進させる前に彼女の横顔を一瞥した。睫毛の長い、まるで夢を見ているような柔和な眼差し。他人に対し欺瞞を働く事をせず、また他人の足を引っ張りその上に立つ事をしない眼差し──ああ、そうだ……俺はこの表情に惚れたのだ……。アーチボルドは心が晴々とし、和らいで来るのが感じられた。俺はこの人と出会った時の、奇しくも美しさを帯びたあの光景を未だに忘れる事が出来ない。随分と昔の事、その内の四年という歳月は世間から全く切り離されたものであったが、目を塞ぐまでもなく、その夢宛らの彩りがまざまざと浮かんで来る程であった。彼とサラとの運命的な出会いというのは、彼がレニーと共にこのロンドンで活動を発展させてから数年後、アーチボルドがこのような風変わりな生活の中に、一般に壮年と呼ばれる歳を迎えて間もない頃、淀んだ生活の沼の中に突然石を投じたように、彼の平静を掻き乱したところの、一つの重大な出来事だったのである。アーチボルドは彼女の手や髪などといった、一つの心臓から齎される血の通ったものに慇懃に触れるように、ギアやハンドルに手を添え操縦をした。背後へゆったりと流れて行く闇に光る街並みは、麻薬が見せる幻影宛らのもの。高級車が吐き出す膨大な排気量、その孤高な低い調子は周りの人間とは異なる、正に異端者の鼓動。君は、筐底に何を秘めているのだ。君は何をその眼に映し、何を無上に愛するのだ。しかし、あの頃とはまた異なり、不意に何とも言えぬ程に素晴らしい女性になった。本当に何という美人であろう、日増しに美しくなっていくではないか。ところが其処へ……我々が、本来サラの人生とは無縁の人間共が現れてから、急に何もかも呑み込み、まるで全てがひっくり返ったような有様になった。我々のような人間は常に何かを呑み込み、糧にしなければ生きて行く事さえ出来ないのだ。君の魂の前に一歩出るだけで、俺なんぞは一文の値打ちもありはしない。アーチボルドが運転する車は赤信号により停車させられた。今、彼の中に何かしらの感情が始まろうとしていた。しかし、彼はそれがどんな感情であるのかは知る由もない。それは一致の、余りにも遠い昔の一致の感情である。このようなものは忘却するに越した事はない、忘却からこそ時は軈て──彼は左手を後部座席へと伸ばすと、其処に置いてあった黒塗りの箱を手に取った。
「今日誕生日だろう、おめでとう」
青信号になった。サラがアーチボルドから箱を受け取るや否や、彼は車を発進させる為にさっと手を離した。表面に貼り付けられた小さなカードには『君に』と書かれており、この箱の中に仕舞われている物よりも、それの方が何倍も価値があるように彼女には思われた。君に、君に……それはたった数文字のスペルだが、彼が自分に与えてくれたものであり、彼の怜悧な頭脳が弾き出した唯一のものであり、眼に見える形で表してくれたものであった。毎年この日には必ず、名を記していない贈り物が一つ手元に届いていた。立場を弁えた、飾った言葉のない静かな人。しかし、自分はそれに対する御礼の言葉を言ってはならない。それは、彼が彼自身の名、差出人の名を明かさぬ限り、自分は口を噤み、その贈り物に特別な視線を投げ掛けてはならないと思っていたからである。彼もそれを望んでいるから、名を記さないのだ。アーチボルドが部屋へ入って来るなり、或いは遠方に彼の姿がちらりと見えただけで、もうサラにとっては自分を取り巻く全てのものが太陽に照り輝いているように思われたのだった。いや、全てのものが一段と興味深くなり、楽しくなり、有意義なものになるのだった。最も、彼が傍にいるという事だけが彼女にそのような作用を及ぼしたのではなかった。彼女にとっては、この世にアーチボルドという男性が存在するのだという事を考えるだけで、そのような気持ちを味わうのだった。サラは他人から不愉快な知らせを受け取ろうとも、物事が上手く捗らなくとも、青年独特の謂れのない憂愁に駆られようとも、この世には彼という人間がおり、その姿を見る事が出来るのだと思うと、もうそれだけで何もかも消し飛んでしまうのであった。
「どうした?」
「真逆、貴方から頂けるなんて思っていませんでした」
「俺は物を贈る人間には見えないか」
「いえ、そうではなくて……貴方は私のような人間を毛嫌いしてると思っていました」
「何故そう思う」
「私はこの通り、苦労知らずですから」
「俺は君のような人と出会った事がないよ」
アーチボルドはちらりと横目でサラの表情を窺った。彼女は彼が言ったその言葉の意味を測り兼ねているようであり、曖昧な返事をその顔に示した。真意を深く尋ねるという癖がない彼女に、彼は幾度となく助けられて来たが、ただ今はそれが何となく面白くないような、もう少し自分に興味を持ってくれても良いのではないかとも思った。恐らく彼女の頭には二つの意味が浮かんでいるであろう。君程に苦労とは無縁の女性と出会った事がないという意味、そして、君のような高尚な女性と出会った事がないという意味である。彼女は前者であると取っただろう、しかし本当は後者である。俺は筐底に何も秘めてはおらず、また、俺の目には何も映ってはおらず、何も愛してはいない。しかし、たった一つの言葉を俺は筐底に秘める事とする。この浅い胸の奥、墓場同然の、何も仕舞うものがない所にそれを置いておく。サラ、君は花の盛りだ、本当に、今花の盛りなのだ。アーチボルドがこうして彼女の傍にいる時、嘗て若かりし頃に夢に見ていた、愛というものへの憧憬が蘇って来るのをその身に感じた。愛する人の心の上に身を屈め、この心の中に、丁度鏡の中に見るように、其処に落ちている自分自身の姿を眺める事が出来たら。相手の人の心の内に、丁度自分自身におけるように、いや、自分自身におけるよりも更に鮮やかに、自分というものを見付ける事が出来たら。それこそ何という安らかな愛であろう、何という清らかな恋であろう。アーチボルドは誰も愛さず、また誰からも愛されない男であったが、こうした無辜な愛の道というものの存在を信じている一つの人間でもあった。
「この後レニーの元へ寄る。君に話があるそうだ」
サラはアーチボルドに最も深い感銘を与え続けていた。最早彼女は単なる堅気に生きる娘ではなく、幻の女の精、全女性が結集された一つの典型的な姿であった。彼は仲間がいる前では彼女の事を名前で呼ばず、揶揄い半分に、あの娘とか、官吏の娘とか、その他気紛れな代名詞で彼女の事を指し、また、俺はああいった人間が好かないといった風に、眉間に皺を寄せて話すのであった。しかし、彼の心中では、サラの顔はすっかり唯の女の顔になっており、祝福を与える幻影の顔から祝福を願う人間の顔に変わっていた。それは紛れもなく、彼女を捉えるアーチボルドの心情が変化した為であった。窓に頬杖を突き、彼女の眼は夜空に据わっていたのだが、彼がある男の名を口にすると、忽ち彼女は下を向いてしまった。彼女が強く摘んだ手首の皮膚は既に感覚を失くしていた。指を離して一度血行を戻し、それから再び摘んだ。奇妙な事に、不意にサラは耐え難い憂鬱に襲われ、特にレニーへと近付くに連れて一秒毎に、益々それが募るばかりだった。奇妙なのは憂鬱そのものではなく、憂鬱の原因が彼女にはどうしても明確に出来ない事だった。これまでにもそういった気持ちになる事は屡々あった為、こういう瞬間にそれが訪れたからといって何ら不思議ではなかった。そろそろ自分の人生というものの上を歩き出す時、彼女をこの土地へ惹き付けた凡ゆるものと一思いに縁を切り、再び大きく方向を転じ、全く勝手知らぬ新しい道に、以前のように両親は自分の傍にはおらず、全く一人切りで足を踏み入れるつもりになっていた。しかし、希望は数多くありながら、一体何を希望しているのか分からず、人生への期待も多過ぎるほどあるにも関わらず、その期待も自分の願望さえも何一つ明瞭に出来ない有様であった。未知の新しいものに対する憂鬱が確かに心の中にありはしたものの、やはりこの瞬間、彼女を苦しめていたものは全くそれではなかった。サラはアーチボルドの横顔を見上げる事が出来なかった。言葉一つで、彼は何処へでも連れて行ってくれるだろう。しかし、彼はある一人の男に対し忠実な人間であり、四年もの屈辱に耐えた後でも、彼は変わらずに仕事を全うしている。彼の意はその男次第であり、彼を満たすものは全てその男からの贈り物である。その事を深く頭で理解していた為、彼女は彼から贈られた物を見詰める事しか出来なかった。君に、君に……こんな物、要らない。ひっそりと伏せられた瞳は、直ぐ傍からの眼差しに気付く事はなかった。