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My name is Might-have-been, I am also called No-More, Too-late, Farewell



太陽に暖められると草は生気を取り戻し、すくすくと育ち、根が残っている所では何処も彼処も、並木道の芝生は勿論、敷石の間でも至る所で緑に萌え、白樺やポプラや桜桃もその香り高い粘っこい若葉を拡げ、菩提樹は皮を破った新芽を膨らませるのだった。鴉や雀や鳩達は春らしく嬉々として巣作りを始め、蠅は家々の壁の陽だまりの中を飛び回っていた。草木も小鳥も皆、楽しそうであった。しかし、人々は──もう一人前の大人達だけは、相変わらず自分を欺いたり苦しめたり、互いに騙し合ったり、苦しめ合ったりする事を止めなかった。人々は神聖で重要なものは、この季節の朝でもなければ、生きとし生けるものの幸福の為に与えられた、宇宙創造の神の世界の美しさ──平和と親睦と愛情に人々の心を向けさせるその美しさでもなく、互いに相手を支配する為に自分達の頭で考え出したものこそが、神聖で重要なものだと考えているのであった。
「もし彼女の祖国と戦争をする事になれば、彼女は一体何方に味方するだろうな?所詮は血を裏切る一族だ。案外、秒読みかも知れんぞ」
「私は彼女に結婚を申し込むつもりだ」
「『私が君と結婚するのは、君の高潔なる心と不幸の為だ』、何て言い包めるのか?」
「もし彼女が約束してくれるのであれば、」
ハートは熱を込めて同僚に言った。自分の命の象徴であるサラの傍へ近付いて行った時、自分の眼差しは特別優しく輝くであろう。そして自分は幸福そうな、慎ましくも満ち足りた微笑を浮かべ、恭しく静かに彼女の方へ身を屈めると、この手をその小さな、しかし苦悩のある手に差し伸べるのだ。この英国の空の下、彼女の瞳と同様の色の空の下、己の定めに心を痛め、その痛みに戸惑い、幾度となく仰いだ灰色の空の下。我々は遂に幸福というものを見る事となろう。
「私はサラに生涯の一切を打ち明け、捧げる」
そして、軈ては大人数の家族や親族縁者を持つ事となろう。しかしこの生涯の内に、ある者は死に、ある者は何処かへ行ってしまい、またある者は我々の事など忘れてしまうだろう。人生の終焉とは正にそれである。だから私は今まで恋というものをして来なかったのだ。そんな終焉が目に見えているのにも関わらず、何故人々は愛し合い、家庭を持つのか、私は今まで分からなかった。私は無知であったのだ。例え、彼女と一緒になる事が彼女の身にとって破滅であるとしても、私にとってもやはり身の破滅であるとしても……いや、もしかすると彼女よりも更に酷い破滅かも知れないが、サラ、私が君以外の人間と、一体誰と結婚すると言うのだ?君は、私が君以外に誰も愛せない事を知っている。君の中にあるものは何もかも完全無欠だ、サラ、何もかも。彼女の名を口にすると、ハートは自分自身でも分からない気後れを、寧ろ怖いような気持ちを感じた。そしてそれと同時に、彼女に対してのみ感じられる、感激に満ちた憐憫と愛とが彼の胸を一杯にした。我々は過去ばかり、死ばかりを見て来た。しかし、私は更なる勇気と新たな覚悟で持って君と共にありたいと思っている。我々が見ている人間は皆、正に一つの生命を生き、それを終えて死んで行く。その人間が善人だったか、或いは悪人だったかは知る由もない。しかし、どちらにせよそれは問題ではない。その人間は生きていた、その事が大きな事なのだ。今、その人間は死んでいる。しかし、それは大した問題ではない。『生きとし生ける者はみな聖なり』──これは言葉以上の意味を持っている。死んだ者の為に祈る事は無駄であり、死んだ者はそれで良いのだ。死んだ人間は為すべき事を持っており、しかもそれはその人間の前に置かれている。従って、その人間はそれをするのに躊躇する事がない。しかし、我々には成すべき仕事がある。そして、それをするには何千もの道があり、我々はどの道を選べば良いか分からないでいる。そして、もし我々が祈るとするならば、それはどの道を進めば良いか分からないでいる人々の為に祈るべきなのだ──ハートが僅かに目を見開いた。同僚の背後の向こうにサラの姿が見えたのだ。彼はまるで雷にでも打たれたように、暫く立ち竦んでいた。

星は、このちっぽけな人間の生命には全く無関心に、頭上の黒い夜空の中で冷たく脈打っていた。あの輝く星はどれ程に離れているのだろうか、神は星の向こうにいるのだろうか。サラが製図室を覗いてみると、其処ではマーリンが仕事をしていた。暫く彼女は入口に佇んでいたが、彼は全く気付いておらず、顔を上げる事をしなかった。彼女は彼の顔に浮かんでいる緊張し切った表情を見て驚き、突然、こんな思いが頭に閃いた──この人の忍耐は限界に達している。もう直ぐ力尽きて倒れてしまうかもしれない。そして、誰も彼のこんな緊張振りについて指摘していた事がないのを思い出した。サラは引き返そうとしたが、もう一度彼を見た。マーリンは製図用紙に身を屈め、唇を固く結び、骨張った顔が齎す骸骨のような印象が一層強くなっていた。これは妄想の産物に過ぎないだろうが、討ち死にを覚悟して戦場へと向かう騎士のような印象を受けた。そしてこの時、彼女は無意識の内に彼の持つ自分では全く意識していない、人並み外れて人間を惹き付ける力をまざまざと実感した。すると、彼が顔を上げた。忽ち、眼鏡の奥に存在する二つの目に生命力が宿ったのを彼女は見た。また、微笑と名付ける事の出来るものも同時に。
「任務の事は聞いたか?」
「ええ」
「英国を離れるとなると何かと厄介だ。ハリーは何と言っていた」
「未だ何も。でも多分、彼は何も言わないわ」
「何故そう思う」
サラは眼を伏せたまま黙った。しかし、マーリンには彼女の心の声が明瞭に聞こえて来た。ハリーは心から私に心服している人として、私が生まれて初めて信頼する事の出来たたった一人の人だから。あの人はただ一目見ただけで、私を信じてくれた。だから、私もあの人を信じているの。この大人しい忍従の表情を見ると、マーリンは痙攣で喉を締め付けられるような思いであった。世間には深い感情を持ちながら、何か抑圧された人々がいる。そういった人々の道化行為は、長年に渡る卑屈ないじけの為に、面と向かって真実を言う事の出来ない相手に対する、恨みの皮肉のようなものだ。マーリンは厳かな声で言った。
「彼を愛しているのなら……任務は放棄すべきだ。承諾した君の意図が、私には皆目分からない」
人間の心は測り知れぬ。他人の心は闇であり、我々の心もまた闇である。いや、少なくとも多数の者にとって闇であるのだ。ハリー、貴方はいつも肝心な事を言わない。上品な言葉の調子に本心を潜めさせ、何か未来に関わる事を避け続けている。しかし、サラが貴方を愛している程に、貴方も彼女を愛しているのであれば、彼女の事を幸福にしてあげて欲しい。彼女は今、良からぬ使命感に身を滅ぼそうとしているからです。離れていなければならないものが、彼女の傍にいるのです。死というものは、例えどんな試練に耐えて来た人間であろうとも平等に訪れます。それは幸福を未だ知らぬ人間であっても。また彼女には生命力に限りがあります。そして絶え間なく滴る水は石でも、いや、それどころか金剛石でも擦り減らしてしまうでしょう。マーリンは真っ直ぐに灰色の瞳を捉えた。言うまいとしていた言葉が直ぐ其処、咽喉の辺りにまで既に上がって来ていた。この人の魂の前、この人の一瞥の強い魅力の前に立つという事は、こんなにも末恐ろしく、またこんなにも恍惚とする。このような人の頭の中には自分とは異なった、もっと別の世界が開けているに違いない。彼女は今、その別世界を彷徨っているのだ、などと考えるとマーリンは思わず慄然とした。
「私は無知だ、サラ・バラデュール、私はこの世の事など何一つ知らない。だが私は、そうする事によって私が君に対してではなく、君が私に名誉を与えてくれると考えている。私はこの通り、取るに足らない男だ。君は様々な苦悩の後に、その地獄の中から清らかな人として出て来た。それにも関わらず、何を君はまた自分自身を陥れようとするのか。君が承諾したのは、ただ熱に浮かされている所為だ。私は……サラ・バラデュール……君を愛している。君の為なら死んでも構わない。私は死から君を遠ざける為ならば何だってする。君がどんな選択をし、どんな人になろうとも」
私の心を動かすものは正義である。しかし、長年の穢れ仕事により、人間の死や嘆きにはすっかり鈍くなってしまった。此処から見える美しい英国の田園風景、森や小川、牧場や山々、野原や広い沼地、どのような風、どのような鳥の声さえも、私の心を動かすものは何一つなかった。しかし、これら全てと異なる遥かに美しいもの。私は君の声が何より好きだった。マーリンは生きて行くという事の為には、このサラへの恋を余所にして其処に何の理由もなく、彼はこの恋に縋り付き、愛する彼女から出て来るもの以外何ものをも期待せず、また期待しようとも思わなかった。
「何故私がこの任務を引き受けたか……恐らく貴方には、いえ、貴方とガラハッドには、一生理解出来ないかも知れない」
マーリンが胸の内を告白した時の熱烈さといい、真剣さといい、心の激しい動きといい、正にその面に歴然と現われており、それが彼の魂の奥底からの叫びである事は明瞭であった。彼の真摯さを疑う余地は全くなかった。しかし、そう思いながらもサラは一脈の哀愁の宿った微笑を見せていた。この時程に彼の声の優しさが、彼女にとって情けなく聞き取れた事はなかった。彼女の顔は、『当たり前の事、単純で誰の目にも明らかな事なのに、何故それを私の悲しみとしようとするの?』とでも言っているかのようだった。そして、彼女の心の凡ゆる抗議は唇まで上らずに咽喉の所で止まり、彼女の顔付きは全く一変してしまった。つい先程までの生き生きした表情の代わりに、疲労と死の表情が浮かんだ。サラはこの世の凡ゆるもの、その創造主である神や人間が渇望して止まない平和よりも、ハリー・ハートとマーリン、この二人の人間を愛していたのであった。この人達の幸福の為ならば自分は何だってする、この傷だらけの……他人の心を傷付ける事なしに、他人の心に触れる事が出来ないこの二人の為ならば。彼等に幸福への道を譲るのだ、直に死が訪れるのはただ一人、この私だけで良いのだ。
「一言、たった一言、君が言ってくれたら、私は救われる」
マーリンは途切れ途切れの震えた声で、殆ど耳打ちせんばかりにサラに言った。彼の顔には本物の絶望の色が現れていた。どうやら彼はもう無我夢中になり、碌に考えもせずにこれだけの事を口走った。彼女は彼に見せたものと全く変わらぬ落ち着き払った驚きの色を浮べて彼を眺めていたが、この落ち着き払った驚きの色は、相手の言う事がまるで分からないといったこの訝しげな表情は、この瞬間のマーリンにとって、どんな激しい侮辱よりも更に恐ろしいものであった。沈黙の数秒が過ぎた。彼はまるで何か恐ろしく重いものがその胸を圧しているかの如く、何か言い出そうと努めるのだったが、何一つ口に出来なかった。サラは不意に身を翻すと、最早振り返りもせず、マーリンの前から辞した。太陽が高い位置にある時分に部屋の窓から見た、ハートと彼女が話している姿。それとは丸切り異なる性質のものとはいえ、彼女が彼の前から去って行った様子と似ていた。この奇妙な発見がこの瞬間、熱と疼痛に閉ざされたマーリンの頭の中を矢の如く閃き過ぎた。彼は彼女の後ろ姿を見詰めた。何故か突然、彼女が身体を揺するようにして歩いて行くのに気が付いた。

引き金に掛けられた指が一人でに曲がった。逃げなければと思えば思う程、逼迫した身体は微塵も動く事をせず、まるで二本の足首には重い足枷が嵌められているかのようであった。我に返った時には細胞の震え上がる音が聞こえ、胸に恐ろしい衝撃を感じ、煙硝の匂いが鼻を打った。サラは視線を逸らしたが、目の方で釘付けになったように、相手は彼女を見詰めて動かなかった。死は、まるで別人の如く変な表情を浮かべ、黙ったまま突っ立っていた。両目は開けるだけ開いて彼女の方を向いていたが、それが妙な事に睨み付けてられているという感覚は少しもなかった。彼女の両手の先端だけが何かに掴み掛かるように僅かに動いたかと思うと、軈て地面にすっかり垂れてしまった。白いシャツの胸には焼け焦げのような大きな穴が空いていた。奥底が知れぬような黒い穴だった。早速その穴から絵の具の如く真っ赤な動脈の血が、ブツブツと泡を吹いて湧き出し、太い一条の川となって流れた。それと同時に、サラの身体が溶けるように、或いは崩れるように俯せに倒れて行った。彼女の眼には自身の姿は見えていないが、それらの咄嗟の出来事がゆったりと、異様に緩徐に、しかも微細な点まで明瞭に認識する事が出来た。死が直ぐ傍に立っており、自分を見下ろしているような気がした。人間が祈り信じている神よりも、死の方がこんなにも近いとは──汝の魂を百万もの宇宙の前で、冷静に且つ沈着なままにしておくが良い。我が名は「だったかも知れぬ」、または「二度とない」、或いは「遅過ぎた」とも「さらば」とも言う──最後に死がやって来る。私を待ち構えているのは処刑台のみ。此処、最期に引き受けた任務の地、故郷がそれであるとは何とも皮肉な事だ。邪悪さに溢れた……私には、思い起こされる数多くの汚れた行いも、更に酷い、これからやり兼ねなかった行いもある。それでも私は、落ち着いて自然を眺め、昼も夜も命の喜びを呑み込み、心静かに死を待ち受ける。私の愛する人々へ向けての優しい限りない私の愛の為に、そしてまた、私へ向けてのその人々の限りない愛の為に。太陽が昇り始めた。東の空が一面、薔薇と橙と淡い真珠宛ら灰色に染まっていた。全きの美しい夜明けだ。サラが低い感嘆の声を上げた。彼女の左手には大きく畝った川が流れ、遺跡の丘が黄金色に明瞭に浮かんでいた。南には、花の咲き乱れた木々と静かな畑が続いている。遠方からは、水車の軋る音が聞こえて来た──微かな、別世界を思わせるような音だった。北には、空に向かって鋭く突き出した尖塔とお伽話の世界宛らに白く輝く首都の街が見えた。信じ難い程に美しい風景だった。我が名は「だったかも知れぬ」、または「二度とない」、或いは「遅過ぎた」とも「さらば」とも……サラは低く長い吐息を溢した。

Gallant - Comeback.