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Lay all your love on me



何度自分自身に尋ねた事であろう、自分程に惨めな人間がこの世に二人といるだろうか?今までの虚しく費やされた生涯を思い、『全ては空である』とサラは胸の内で呟いた。彼女はこの言葉を機械的に繰り返したが、これが現代には最も当てはまらぬ考えであると考え直した。例え全てが空に過ぎないとしても、一体誰がそれを気にするであろう。悲しい事に、全てが空よりも更に陰惨なのだ──不正、罰、強制、死。一人の若い戦士は額に手を当て、その曲線と柔らかい皮膚の下に感じられる眼窩の縁とに触れてみた。そうしながら、その骨が剥き出しになる時の到来について考えた。それが今だったら良いのにと、彼女は思った。『君を離さないよ』という言葉の裏に隠された、死からの解放。それが正に魔術師の愛──あの夜以前の彼の愛というのは明瞭な言葉ではなく、その眼差し、微笑、暗示、物言わぬ言葉であった。しかし、それらを超えたあの言葉は深くサラの心の中に染み込み、その時の心情の調子までが未だ耳に残っているような気がした。だが、言葉の重大さについては、後になって初めてそれと思い当たるものである。マーリン、貴方は今、私の影に恋をしているの。貴方が心に描いている姿に。サラは明るい精神世界に於ける異様な苦しみを蔑んでいた。育ちの良い女性にはごく自然な、遠慮と気後れの感情がすっかり力を取り戻し、彼女を責め付けていたのである。私は彼の愛に適う程の美しい輝きを持ってはいない。彼が私に何かを要求した時、私が差し出せるものといえば、この空洞の心であり、また戦慄が潜む血である。また、私を待ち構えているのは処刑台であり、其処には名を持たぬ敵が立っている。時々サラは、自分が彼に感じているものが所謂恋なのだろうかと考えて分からなくなった。一般に他人が恋について述べているものと、彼女自身の考えるものとはそれ程に異なっていた。彼女はそんな言葉は口に出す事をせず、また自分では愛している事に気付かずに彼を愛していたいと思っていた。取り分け、彼に知られる事なしに彼を愛していたいとも。彼なしで暮らさなければならないとなれば、何一つ自分に喜びを与えてくれるものは失くなってしまうのではないか。自分の徳も、全く彼の気に入られたいが為に他ならないのではないか。しかしそれでいて、彼の傍にいるとその徳が崩れそうになって来る……。ある山の姿がちらとサラの頭に浮かんだ。最も山といっても、それは彼女にとって馴染みの深いある一つの場所だった。それは、彼女が未だ故郷で暮していた時分、毎日の如く出掛けて行き、下の村を俯瞰した場所であった。其処から更に下方には白糸のような滝や白い雲や、捨てられ顧みられる事のない古城が見え隠れしていた。彼女はどれ程、今その場所に立ち、ただ一つの事を思い続けていたかった事だろう。一生その事ばかりを思い続けていたいと願った事だろう。その事一つのみを、一千年の間考え続けていても決して長くはない。そして、此処の人々が自分の事など忘れてしまっても良いのだ。いや、それで良い、寧ろその方が却って都合が良いのだ。もしこの人々が全く自分の事など知らずにいて、この幻影が単なる夢であったなら。しかし、もうそんな事は夢であろうと現であろうと、どの道同じ事ではあるまいか。サラは自分と似た部分を持っているハートを思い浮かべた。時に彼は急に彼女を見詰め、その顔から視線を離さない事があった。だが、その眼差しは余りにも奇妙なものであった。まるで彼から数キロも離れている所に置かれた物体か、或いは彼女自身ではなくその肖像画でも眺めているような目付きで彼女を眺めるのであった。またある時には、その目は彼女を焼き尽くそうとしているかのようであった。暗闇の中、屋敷の前で佇む一人の男。言葉を掛けるのが憚られた程に、西洋の油絵の中の人物の如く神々しく見えた姿。自分の顔を見るなり浮かんだ、はにかんだような、些か困惑したような表情。サラは息を呑んだ。今思えば、彼が私の所から逃げ出したのは、何ら不思議な事ではない。彼があの時私の所から逃げ出したのは、自分がどれ程に激しく私に惚れ込んでいるかという事に、急に自分で気が付いたからではないか。だから、私の所に居た堪れなくなったのだ──これらの追憶は此処英国での暮らしを、共に恋をした頃の事を未来でサラに語るであろう。この幸福な緑の地、此処では凡ゆる季節が、実質的には全ての人間に、感情の上ではこの三人に、惜しみなくその恩恵を与えてくれたという事を。目に映った人間の死は激しく脳梁を叩き、黒ずんだ血は辟易する程に身体に纏い付きはしたが、三人は確かに、青々とした陽の良く当たる、神聖な土地の思い出の中に生きていたという事を──何れにしても、沈黙の氷は破れてしまったのである。美徳と愛とが融け合っているような魂があったとしたら、それはどれ程に幸福な事だろう。折々私には愛するという事、出来る限り愛し、益々愛するという事を他にして、果たして美徳というものが有り得るだろうか疑わしくなって来る……私には時々悲しい事に、徳というものはただ愛に対する抵抗としか思われなくなるのだ。あろう事か、極めてあるがままの心の傾きを、敢えて美徳と呼ぼうというのだろうか。心を誘う詭弁、最もらしい誘惑が、幸福の陰険な幻が其処にはある──あの二人の何方かに、貴方の愛を全て私に託して、とでも?この瞬間、サラは一切の人間と一切のものから、自分の存在を鋏で切り離しでもしたように感じた。彼女にはもう一つの人生がある。それは祖国へ戻るという選択であり、此処での思い出を忘却し、たった独りで生きて行くというものである。あの山の姿、毎日の如く出掛けて行き、景色をこの二つの眼に映る事を許したあの場所。昔のように彼処に立つ事は出来ないが、自分の本当の人生というものが手に入る訳である。恐らく私は一人で歩いて行く事となる、黄昏の道路を、飢餓の影が彷徨い、苦痛の逃亡者が通る所を。また、朝の静寂の中で夜が明け方へと続き移るのを見、緩やかな颯々たる風が立つのを聞く事となるであろう、丈高い樹々が行手に並び、大空に向かって肩を突き上げている所に。路傍の砕けた丸石は私の死を記念する事はなく、後悔は私の踏む砂利石に帰する。私は待ち構えて仰ぐ事となるであろう。風と雷雲が相結び、荒々しい雨の行進を駆り立てるところを掠める、飛翔の早いほっそりとした鳥の群れ。歩いて行く道路の埃は、絶えず私の顔と手に触れる。一つの不滅の顔、死の顔は常に私を見ている。そのまま見させておこう、処刑台までは依然として近い。昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮れには今にも一と雨来そうに雲が下がって来ており、一層押さえ付けられるような、気でも狂うと思うような天候であった。サラの耳の底にはドロドロと太鼓の鳴っているような音が聞こえて来た。その中で彼女はじっと遠方を見据え、いつまでも立ち尽くしていた。

Abba - Lay All Your Love on Me