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Not in thy body is thy life at all



ハートには夜が明ける前に、どうしても訪問したい所があった。本部へ行くのが遅れて、会議の開始時刻を延ばす危険を冒してまでも、是非寄りたくて堪らないある家を捜しに行こうと決心したのである。最も、この訪問は彼にとって幾分危険を帯びていた。彼は暫く思い迷っていた。彼はその傍まで行く内に最後の決心が付くだろうと考えて歩き出した。十字路に近付きながら、ハートは胸が異常に高鳴っている事に我ながら驚いた。心臓がこんなにも激しく動悸するとは思いも掛けない事であった。すると一軒の家が、その風変わりな外観の所為か、かなり遠い所から彼の注意を引き始めた。これは彼が後になって思い出した事だが、彼は「きっとあの家に違いない」と独り言を言った。彼は自分の勘が当たったかどうかを確かめる為、異常な好奇心に駆られてその家へ近付いていった。もし自分の勘が当たっていたら、恐らく非常に不愉快な気分になるに違いないと何故か彼は思った。その家は黒味掛かった緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な雰囲気のする大きな三階建てであった。前世紀の終わりに建てられたこの種の家は極めて少数であったが、移り変わりの激しいロンドンにありながらも、この辺りの街では全く旧態依然として残っていた。これらの家は壁が厚く、窓が少なく、非常に頑丈に建てられている。その屋敷をすっかり閉ざしている大きな門の前で佇むハートは、直ぐ近くで停車した車のエンジン音に気が付かなかった。下車したのは他でもない、この屋敷の主であるサラであった。冷たい空気と温かい空気の流れが、さっと彼女の顔を撫でた。彼であるという事は分かっていながらも、その佇まいは何だか西洋の油絵の中の人物のような気持ちが湧き上がり、神々しいようで、言葉を掛けるのが憚られた程であった。彼女は数秒待つと、片方のヒールで故意に音を立てた。ハートは振り返るなり、直様、彼女の眼差しを捉えた。その顔には何かはにかんだような、些か困惑したような表情が浮かんだ。
「今夜は少し冷えるわね」
サラはハートを客間へと通した。この客間は濃い青色の壁紙を張り、小綺麗ではあったが幾分変わった装飾が施されてあった。つまり、円いテーブルや、ソファーや、円いガラスの蓋を被せた青銅の時計や、窓の間に掛けられた細長い鏡や、青銅の鎖で天井から吊されたガラス玉の沢山嵌った小型の古風なシャンデリアといった飾り付けであった。しかし、足を踏み入れた人間を歓迎するように造られ、計算されて置かれた家具らは、今ではその役割を担っていないようであった。手入れをする使用人がおらず、この屋根の下にはサラただ一人であった。彼女は此処に殆ど帰宅せず、また此処を自他の為に利用する事をせず、また彼女は何よりこの屋敷に思い入れがないといった様子であった。ハートはこの侘しい人間、サラ・バラデュールという人間の境遇というものをふと考えた。彼女の両親は共にキングスマンであったが、英国への裏切りにより永久追放、彼女は母親が生まれ育った国で育つ。そしてある日、家に諜報員が訪ねて来る。其処で初めて自分の両親が何者であったか、また、自分の両親が犯した罪について知る事となる。彼女はどのような心情であっただろう。声も知らぬ両親の罪の償いの為に、此処英国へ辿り着いた時の心情とは。身寄りがなく社会から弾き出され、心の何処かで居場所を密かに求め続けた人間。出された提案に応える事によって自分という存在を認めたいと願う、その深い孤独を利用されるという心情とは一体──すると円いテーブルの隅に置かれた、異様に古びた一冊の本が視界に入った。ハートはそれに手を伸ばした。A:In Adam’s fall, We sinned all──アダムの堕落において、私達は皆罪を犯した。B:Heaven to find, The Bible Mind──天国を見付ける為には、聖書を心に留めて。C:Christ crucify’d, For sinners dy’d──キリストは十字架を背負い、罪人達に代わって死んだ。
「これは?」
「アルファベットを覚える際に使った物なの。乳母から教わったのだけど、彼女の綺麗な発音が未だに耳に」
「それは……いつまでも大切に置いておかなければ」
「ええ。乳母は何処となく、先日亡くなった友人に似ていたわ。彼女はとても──、」
貴方に夢中だった、と繋げようとして口を噤んだ。サラは今でも、ハートを見る時の友人の睫毛の長い、夢を見るような眼差しを忘れる事が出来ない。人間はこのようにして人を愛するのだという事を、彼女はその友人から学び、また愛という高尚な道を辿るとはどのような哲学かという事も学んだ。そして、自分は誰かを愛する事があるのだろうか、という疑問も更に強さを増した。眼前の男はただ静かに、アルファベットの最後の文字まで目を通していた。ハリー・ハート、完璧なアクセントを自身の言葉の肉とする、愛国心の強い人間。自分自身に厳しく、弱味や感情を他人に見せる事なく重荷を背負っている戦士。その印象は初めの頃から変わらなかった。彼は酷く丁寧な口調でものを言い、歳は離れていたが非常な美青年であった。すらりとした背高の深みのある茶髪で、悟性のある顔立ちをしていた。ただその微笑は愛想の良いものであったにも関わらず、繊細な風采であり、その時に覗く歯並みは真珠の粒の如く余りにも美しく揃っていた。その目付きはとても快活で、見るからに正直そうであるにも関わらず、何故か余りにじっと動く事をせず、何か探りを入れているように思われるのだった。この人は恐らく、 一人でいる時には決してこんな目付きをしていないに違いない。もしかすると、笑う事なんて決してないのかも知れない。何故かそのように感じたのをサラは思い出した。けれど私はこの人を一目見た時、この人が向かう先へ共に行けたらと思ったのだ。この人は何かを愛してはいるが、それが何かは分からない。愛が何かを知っているが故に、愛を恐れているようでもある。その手は一体どのようにして、彼の大切なものに触れるのか。『ガラハッド、貴方が好きよ』と熱に魘された私は言ったが、私は本当の彼を知らない。ガラハッドという名に相応しい仮面を知っており、そしてその仮面が私は好きなのかも知れない。サラがカップをソーサーの上に乗せた音、ハートはそれを聞いた気がした。細い万年筆の先で引っ掻くようにして綴った一文が、本の最後の頁に残されていた──遥かに遠く、最も密かな、無垢の薔薇よ、今、我が至上の時の中に私を包め。神聖な墓に、または葡萄酒の大樽の中に、お前を求めた者達が、潰えた夢の喧しい騒乱から遠く離れて住まう所、人が美と名付けた眠り故に気怠げな、青白い目蓋の奥深くに、私を包め。サラの境遇に対する憐れみを、本人を前に態度にこそ現さないが、注ぐ眼差しに現れている男をハートは知っていた。その男というのはマーリンであり、彼は彼女を故郷へ帰らせる事が出来るのであれば何だってしようとする人間であった。最前線に立つ者が上の世代であった頃、ハートとマーリンの二人は歳が近い事も相俟って、夜が明けるまで話し込む事が多々あった。アルコールが体内に入ると饒舌になり、普段は内に秘められている感情や思考が外へと漏れる要素を持っているマーリンは、サラについての心情を漏らした事がある。彼女を拠点の地下、最先端の技術を搭載した武器や戦闘機がずらりと並ぶ倉庫へ連れて行くと、彼女は驚くどころか顔色一つ変えなかった事をハートに話した。また、それを言うなり考え込み、暫く黙ったと思うと、ハートにとって予想外の事を口にしたのである。『私はあの人を母国へ帰しても良いと思っているんです。しかし誤解されると困りますが、私はあの人をそんな風に見ているのではありませんよ』マーリンは言葉を続けた。『私はあの人を、稀に見る心の美しい、多くの苦しみを嘗めた人として見ているのですから。私はあの人から何一つ求めませんが、何とかしてあの人を助けてあげたいのです。あの人の境遇を……』マーリンの声が震えているのを聞き、ハートは驚いた。『あの人の境遇を楽にしてあげたいのです。あの人が誰の援助も受けないと言っても、私は説得するつもりです。もしあの人が承諾してくれたら、私はあの人が流れ着く土地へ自分も行けるように頼んでみるつもりです。例えそれが永遠の事であったとしても。私はあの人の身近に暮らして、もしかするとあの人の運命を軽くしてあげられるかも知れない……』マーリンの声は再び興奮の為に震えた。『問題は全てあの人だ。私が望んでいるのは、ただあの酷く苦しんだ魂が安らぎを得る事だけなんです』そう言いながらマーリンはハートを見詰めたが、それはこんな怜悧な男からはまるで予想も付かない程に優しい眼差しであった。恐らくそれは彼にとって初めての恋であり、愛すべき対象を幸福にする事こそが、己の最大の幸福であるといった様子だった。サラの苦しみが彼の天敵とするならば、死もまたそれと同様である。彼は彼女を死から遠ざけようと努力していた。マーリンは彼女を無意識の内に自分のものだと考えていた為、彼女を失うという事は彼にとって非常に辛い事なのであった。ハートはふと考えた。己の初恋とは何であったか。しかし彼は想起する事が出来なかった。彼は母親以外に対する愛というものを知らなかったのだ……。全身が高熱に魘されたように震えていたが、自分ではそれと気が付かなかった。俄かに押し寄せて来た溢れるような力強い生命感が、彼の身体のその隅々まで、ある新しい、大らかな感覚で満たしていた。サラ・バラデュール、異国の響きを持つ者、救われぬ魂、君のその輝きは何もあの男一人を虜にした訳ではない。己の命が息づいているのは己の身体の中ではない。彼女の唇や手、そして灰色の眼の中でだ。それらを通じて彼女は己の命を目覚めさせ、嘆きや死の苦しみでさえ癒してくれる。彼女の喪失、それは追想を不毛なものとし、想像は悲しみを帯び、彼女の吐息のみが蘇る。消え去った最後の時間の余韻だけが……命は人知れず息づいている。永遠の闇が絶えず変化の中にあろうとも、彼女という存在は死に閉ざされる事なく其処にある。ハートは本を閉じると、顔を上げた。
「私に何か、用があったのでは?」
「いや……ただ君の屋敷の近くを通ったから」
沢山話さなければならぬ事があった筈だが、言葉は何一つ語らなかった。ただその眼差しだけが、話さなければならぬ事を未だ話していないと語っていた。言葉は沈黙と同様に表現の力を持たない、というハートの考えは、戦友のあの誠実な言葉に対しては通用しない。明瞭に分からなかったある一つの事を、ハートは漠然と意識していた。それは、彼のものであった本来の自分の姿は、今眼前にあるその肉体を精神的には自分のものと認めなくなっている──流れに浮かぶ死体の如く、その生きている意志とは無関係な方角へ漂うままに任せている、という事であった。ハートは何やら考え込みながらそう言うと、部屋を辞した。サラはその後ろ姿を見送った。彼が急に放心した様子になった事に驚いたのであった。彼は出て行く時に挨拶も言わなければ、首を振って会釈する事さえ忘れてしまったのである。いつも彼が慇懃で注意深い性格である事を承知していた彼女には、それが如何にも頷けなかった。数秒経ち、ハートは自分がサラの元から逃げて来た事に気が付いた。忽ち彼の顔は更に冷たく、更に惨めに萎びたものとなり、彼は通りに出ると何処へとも当て無しに歩いた。
「愚かだった」
ハートは呟いた。La plus belle femme du monde. Votre yeux, votre larges yeux aux clartés éternelles. 世界で一番美しい女性。あなたの眼、あなたの広い、永遠に明るい眼。愛とは正にこの響きであり、唱えたこの口や舌であり、またその時に脈打ったこの心臓であったという訳である。
「真実がこんなにも明らかな事だったなんて──こんなにも明らかだったなんて」
ハートの脳裡には、サラがアルファベットを覚える為に使ったという例文が一つ一つ完璧に浮かんで来ては、それらの重々しい宗教的な意味を通して、彼女の境遇が彼の目に現れて来た。バラデュールという名に、偽りの誇りを持とうと努めなくとも良い。名がなくとも君は誇り高き人間であり、忍耐という不壊の輝きを持つ人間である。もし君がその名を捨てたいと心の底から思うのであれば、私はこの手を差し伸べる事をしたい。いや、それだけではない。君が許してくれさえすれば、私は君の魂の前で跪き、己の魂に誓い、その指に接吻する事が出来るのだ。

Kalax - Calling ft. Frankmusik