×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

Shadows



明かりが見えたから、とマーリンの低い調子の声。一人の戦士の訃報が届き、深い憂鬱が重い霧の如く残された仲間の心を包んでいた。深い恐ろしい憂鬱である。悲しみの余り頭が疲れると、今度は眠りが機会を窺ってやって来るものだが、安息を許さない何かが全身を冴えさせ、死の存在を身近なものとした。この部屋の芳しい静けさに埋もれている孤独な彼女は、傷だらけの自分の存在を忘却する為に、彼の訪問を受け入れた。木々は秋の美の最中にあり、森の小道は乾いていた。十月の夕明りの下で湖水は静かな空を映し、岩々の間に漲る水面には数羽の白鳥が浮んでいる。初めて数を数えてから十年目の秋が来た。未だ数え切らぬ内に突然、一斉に舞い上り、騒がしい羽音を立て、大きな切れ切れの輪を作って飛び去るのをサラは見た。これからも彼女はこの輝く鳥達を見るだろうと思っていた、亡くなった友人と共に。そして今、それが出来ないと分かると心が痛んだ。これからは何もかもが変わるであろう。友人がいたあの時は、夕暮れにその湖畔で、初めて頭上に鳴り響く羽音を聞き、今よりも軽い足取りで歩んだ。鳥達は今も倦む事なく、愛し合う同士が連れ添い、冷たく心地良い流れの水を掻き、或いは空に舞い昇る。この者達の心は老いを知らぬ。何処を流離うとも、情熱と征服欲は常にこの者達と共にある。しかし、今、鳥達は静かな水の上を漂う、神秘に満ちて美しく。何処の葦間に巣を作るのか、どの湖の辺りで、どの池で人間の眼を楽しませるのか。友人の表情が脳裡に蘇ると、心臓から送り出された血液が細波を立てた。
「私、彼女が好きな花さえ知らなかった。全く酷いわよね?」
男心を引き、夢中にさせる秘密をその中に秘めている美しい顔立ち。その灰色の眼差しは、時にとても陽気で愛想良くなるものだが、大抵は生真面目で物思わし気な時が多く、時にはそれが度を越していると思われる事さえあった。マーリンはサラの傍に立っていた。彼には自分の心に起こったこの新しい興奮を、どう言い現わして良いか皆目分からなかった。彼女はただ、自分を慰めに来てくれた彼に対し微笑しようとしたが出来ずに、心情が今にも流れ出そうとしている眼元を手首でじっと押し当てていた。愛と憐れみ、また感激、犠牲、徳行といったものが雑然と入り混じった感情に陶酔しながら、彼は全心から神に訴えた。我が一生の目的は、この人を恐怖、不幸、生活から守ってやる事の他にないと思いながら、自ら進んでそれに当たろうとしていた。君の魂が私を見据える時には私も魂となる。マーリンは祈願とも言える心に満ち、それに困惑しながらも、彼はサラを庇うように抱き締めてやった。彼女の耳には、聞き取る事が難しい程の声でこう言うのが聞こえた。
「君を離さないよ」
男の胸の中で心臓がゆっくりと、緊張した鼓動を始めた事が見て取れた。いや、それはサラの心臓であったかも知れない。マーリンの顔を窺う事は出来なかったが、彼女はともすればその動作に何か異常な、神秘的なものを見た気がした。つまり、ある特別な力や偶然の暗合などといったものが働いたように感じ、何故か死を前にした者が体験するような感情を味わった。心臓は激しく高鳴り、何一つ考えを集中させる事は叶わなかった。この魔術師でさえ、生ある内に変わる時が訪れ、それも完全な変身を遂げたという事である──恐ろしい美が生まれた。この恐ろしい美を、私は一体いつまで愛する事が出来るだろう。明日か、将又この魂が終わるまでか。一つ言えるのは、感覚も心も満たされぬまま、この身が墓に入る事は確かだろう。マーリンもサラもそっと呼吸をしていた。遥かに遠い白い山の荒涼たる辺りから、部屋に差し込む月明かりに至るまで、不思議な魔力が満ちているかのように思われた。一つの精気、震える静かな一つの生命が辺りに溢れ、二人共の不安を一瞬の平安へと導き、しかもこの不思議な魔力の中心が、生命のない大気を愛で満たしている一つの美しい姿である事を感じざるを得なかった。
「私は、どうしたって離れない」
その切ない声は、この世ならぬ天から聞こえて来るかのようであった。サラに対するマーリンの愛には、世俗的なものは微塵もなかった。彼女の崇高な信頼感からすると彼は善良そのものであり、指導者であり、哲学者であり、友人である者が心得ておくべき一切の事を心得ていた。彼の肉体の輪郭の線は悉く男性美の完成であり、彼の魂は聖者の魂であり、彼の知性は予言者の知性である、と彼女は思った。戦友としてのマーリンに対するサラの愛情は、彼女に英知を与え、彼女の威厳を保たせた。彼女は王冠を戴いているように見えた。彼女に対する彼の愛の思い遣りは彼女にも良く分かっており、彼に対する彼女の心を献身的な愛情にまで高めようとしていた。彼女は時折底知れぬ、彼の大きな、尊敬の念に溢れた目に出合う事があったが、それは奥底から恰も眼前に何か不滅なものを見るかの如く、彼女ただ一人を見詰めているのであった。サラは友人の死について、自分の心が和らぐ見込みは皆無であると思っていた。しかし、この魔術師の言葉はその悵然さを、全きの静謐さでもって打ち砕いてしまった。この一人の男は死の定めを真っ向から否定しているのではない。その事が分かるとサラは、はっと言葉に詰まってしまった。澄み渡っていた彼女の眼は忽ち曇り、其処には続いて異常な輝きが示された。大粒の涙が一滴溢れたと思うと、頬に一本銀の筋を引いて流れ落ち、マーリンの心臓に辿り着いた。彼女の中で何かが歪み、震えたかのようであった。彼は自分の心の中に湧き上がって来る想いを、吐き出してしまっては駄目だと焦りながら、尚も、涙に濡れる心臓の内にて密かに、憐れむように言葉を続けた──君の為なら死んでも構わない、サラ・バラデュール。私は君の信頼を名誉に思っている、名誉を与えるのは私ではなく君である。私自身はこのように取るに足らぬ存在であるが、私は名誉とはどのようなものであるかを知っている気がするのだ。私は自分が本物を見て来ており、本当の事を言って来たと信じている。非常に下らぬ、詰まらない罪の償いの為に、君は祖国から英国へと連れて来られた。既に取り返しの付かぬ程に、君は自分の身を滅ぼそうとしている。君はそんな事をした自分を後になって決して許すはずがない。君には如何なる点でも罪はないのだ。君の人生がすっかり駄目になったなど、そんな馬鹿な事があろうか。君の所へ諜報員が訪れた事も、異邦人と君を軽蔑した英国人も、そんな事は大した事ではない。何故君は過去ばかりを気にするのか?君が成し遂げている事は誰にでも出来る事ではない。君が死を恐れないのは、君の病的な発作の所為である。今だって君はやはり他人から植え付けられた発作に襲われているのだ。君が異国の為、異国の大衆の為に、死から遠ざかってはいけないなどある筈がない。君は誇り高い人だ、サラ・バラデュール。しかし、君は不幸の余り、実際に自分に罪があると思っている。君には親切に、幸福にしてくれる人間がいなくてはならない。私がその役目を受け、私は君に本当の人生を歩ませてあげたいのだ。私は君の写真を初めて見た時、まるで昔馴染みの顔に出会ったような気がした。その時直ぐに、君が私を呼んでいるような気がしたのだ……私は、私は一生君を尊敬するだろう、サラ・バラデュール──愛すとは言うも愚かぞ、我は君を崇むるを。我が心に呼び掛ける愛の想いよ、この人の心に映った世界こそ見るも美しいに違いないのだ。幻影の者共よ、今はただこの人の為にと黙っていてくれ、この人の心に映った世界こそ見るも美しいに違いないのだ。

The Midnight - Lost Boy