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Eldorado



空気は新鮮で肌を刺したが、その中には不幸に生きる人々を励まし続ける春の囁きがあった。この場所、この時刻、パチパチ爆ぜる暖炉、光と影との作り出す幻想的な神秘性、これらのものの中には何か、ハートも他の人々も嬉々として此処にいさせるものがあった。冬の霜時には悪魔の如く、夏の暑さの時には恋人の如く訪れる宵闇は、この三月の日には心を鎮めるものとしてやって来た。彼の脳裡には、この数日間のマーリンのサラに対する態度が幾度となく想起された。彼は特に優しく注意深く、彼女に応対していた。彼女がそのような傷を負って帰還した事が今まで殆どなかった為か、或いは全く異なる理由の為か。彼はハートによる任務の報告に血の通った反応を見せず、一刻も早く此処から出て行き、彼女のいる治療室へ足を運びたいといった風であった。彼の目には、彼女に接するマーリンの態度は無造作で闊達であったが、その心も瞳も、彼女の言う事為す事の一つ一つを絶えず追い慕っていた。あの大きな二つの聡明な目には、精妙な電気宛らの火が存在している。サラと共にありたいが為に彼女のいるところへ、彼女と並んで歩く時、また傍に腰を下ろす時、また彼女と同じ部屋に留まる時、恐らく彼女は殆ど知らないであろう、彼女の為に彼の内部にゆらゆら燃えている精妙な電気の火を──不思議な事に、戦友の恋心を全きの事実と認めたこの感情の中には、何かしら病的な、それと同時に喜ばしい、心を沈めるようなものがあった。
「マーリンは君を気に掛けている」
始めがないものと同様、終りがないものに向かい、昼の彷徨、夜の休息を繰り返し、多くの忍耐を経ようと、自分達の向かう旅の中に全てを溶かし込もうと、自分達の向かう昼と夜とを、再びそれらをより高い旅への出発の中に溶かし込もうと。何処であれ何であれ、君が見るものには必ず到達しその先に進めるようにと、どれ程に遠く離れた時間であろうと、君が思い浮かべれば必ず到着しその先に進めるようにと。上或いは下に見えるどんな道も、全て君の為に延び待っているように、例えどんなに長い道でも、君の為に延び待っているようにと。どんな存在にせよ、神の存在にせよ、必ず君が見れば、其方へ君が行けるようにと……。魔術師と謳われる男は、頼まれた事は何でも出来た。起こり得る事象を何通りも考えては対応策を編み出し、武器開発にも手を抜く事はない。しかし、彼は何事にも無関心なように見えた。人々が欲しがったり必要としたりするものに対する無関心が、常に彼の内部には残っているようであった。彼には家と呼べるものがなく、奇妙な沈黙の源である本部に住んでおり、其処から静かな目を通して外界を眺めていた。教養はあるが、救われぬ男であった。しかし、彼はやっと幸福と名の付ける事が出来るものを見付けたのだ。ハートはそんな彼を誰よりも信頼し、自分の命をも預けて来た。彼が英国以外に生きる意義を見出したのであれば、戦友としてそれは大変に喜ばしい事である。
「それが彼の仕事だから」
しかし、ハートの眼前に腰掛けている女神は動揺の文字すら見せなかった。マーリンという名にも、彼を生き永らえさせている魂にも。途端、ハートの頭にはふと恐ろしい考えが過ぎった。このサラ・バラデュールという人間には魂が存在せず、彼女を生き永らえさせているものは魂ではなく何か他のものではないか。彼が一応理解をしている執着や友情、愛情を、彼女は何一つ持っていないように思われた。しかし彼女は人生が自分と巡り合わせたもの、事に人間、誰か特定の人間ではなく自分の眼の前にいる人間を愛し、共に睦まじく生きていた。彼女は自分の子犬を愛し、同僚、英国人を愛し、今自分の向かいにいるハートを愛していた。しかし彼は、サラがどれ程に自分に優しく接するにしても、自分との別離を一瞬も悲しまないだろうという気がしていた。彼は腰掛けていた革のソファーから立ち上がると、彼女の元へと歩み寄った。忽ち双眸に現れた警戒の色を突かぬように、緩やかな動作で、深い茶色の革に添えられている右手を取った。他人に都雅な煌めきを魅せては、五万ボルトの電流を放つ凶器。利き手の小指を居場所とするそれは、何の断りもなく主人の手に触れた無礼者の顔を凝視していた。ハートはそれを二本の指で掴むと、しなやかな指から引き抜いた。玲瓏たる純金は、正に優婉と佇む女性そのものである。部屋の明かりの下に晒すと内側に明瞭に浮かび上がった字の列、Hélène。それは主人の名であり、また唯一無二のもの、伝統的なコードネームではなく、後世に継ぐものでもない。この世でたった一人、サラのみが謳う事の出来る称号である。そして、その単なる語には二つの事柄が秘められている。魔術師の秘密、スパイへの恋心、指輪の裏に刻まざるを得なかった疼痛。
「La plus belle femme du monde. Votre yeux, votre larges yeux aux clartés éternelles──ヘレネーと命名したのは彼だった」
美の女神。君は美であり、石で紡がれた夢である。君の胸に死すべき者は皆躓き、君は戦士に愛を齎す為にある。永遠で物質の如く物言わぬ愛。君は灰色の厚い雲に君臨し、君は雪の如き心臓を持ち、白鳥の如く白い。君は決して泣く事なく笑う事もない。古の彫刻に似せて形作った君を前にして、戦士は生涯を掛けて救いを求めねばならぬ。従順な男共を魅了する如く、君は全てのものが美しく写る鏡を持つ。永遠の輝きに満ちた二つの眼が其処にはある。瞑想に沈むかのようにハートは呟いた。Hélèneという響きが小指の影ですっかり見えなくなるまで、彼は彼女の手を離す事をしなかった。
「貴方が母語以外を口にするとは意外だった」
「こんな私にも心があるという事だ。君は知らなかったようだが」
陽を浴び、金色、黒色、鳶色と、凡ゆる色合いに照り映えた豊かな髪。眼の美しい者、鼻筋の美しい者、口元や姿の美しい者が英国にはいた。その中でハートはサラと出会った。外は太陽で暖められていたが、それと同様、内には秘められた小さな太陽を彼女は持っており、何かを必死で暖めていた。夢か、情か、趣味か、少なくとも何か遠い遥かな希望──希望というものの例に漏れず、それは兎角消えて無くなり掛けながらも、尚生命を保っていたが──を持っていた。『ヘレネー』この呼び掛けに一人の若い娘が顔を向けた。上品で端麗な顔立ちの娘だった。その牡丹のような唇とあどけない大きな瞳は、その顔の色や形に表情の豊かさを添えていた。一点物の上着の襟にはブローチを付けており、このように目立った飾りを誇る事の出来る者は彼女のみであった。今ではハートはサラの顔の中に、彼女の祖先が品位を揃えていたに違いない威厳の閃きを見ていた。そして、その閃きは彼が以前にも感じ、良いとも悪いとも言える後味を残していった、あの一種微妙な霊気を彼の血管に送ったのである。『あの言葉の真意も聞いても?』と彼の舌は発音しようとしたが、実際に出て来た言葉はそれとは異なるもの、彼女が生まれ育った国の言語であり、その羅列であった。
「ガラハッド、何だって私の顔をそんな風に見詰めているの?」
「気分を害したならば謝ろう」
「いいえ、そうではないけれど……何か、思い詰めている事でも?」
サラはハートの汚れを知らぬ善良そうな茶色の目が、額と眉の影から、何か特別じっと自分の方へ注がれているのに気が付いた。もうその時から彼女は彼が特別な人間であり、特別な目付きで自分を見詰めている事に気付き、それと同時に、その顔の中に二つの相反するものが奇妙に結合されている事に思わず驚かされた。それは顰めた眉の与える厳しい印象と、その眼差しの子供のような無邪気な善良さであった。サラはふと想起した。先日見舞われた災難の最中に互いに見交わした視線。二人は殆ど言葉を交わさなかったが、その中には二人が互いに相手を記憶しており、互いにとって相手が大切な人間である事を告白していた。その後も、彼女はハートが自分の前で話す時には、その話は自分のみに向けられており、彼が出来る限り優しい表現を使おうと努めている事を感じていたのであった。
「私は感情表現が苦手だ。だが先程の言葉に虚偽はない」
女神が歩くところに春の気配が充満する。すると戦士は荒々しい欲望に捉われ、心が困惑するのを覚える。女神は黄金郷にいる、しかし戦士にとってそれは遂げ得る事の出来ない希望の象徴となる。ハートにとって、サラ・バラデュールという名に呼び覚まされた数々の追憶は、遠い詩的な過去に属するものであった。長年に渡り、抑圧されて来た理性は大声を上げる事がない。例えどのような喧噪の中であろうと、魂の主人とそれは低い声で話し合い、しかも意思を通じ合う事が出来る。心の奥底の方から這い上がって来る理性の鈍い呟きは、主人の頭上で交差する話し声に対して、謂わば一種の低音部を成していた。今までは──こうした全てに、ハートは直ぐ様気が付いた。理性はたった一つの事を警告しており、それは人間を愛するでないというものであった。愛という名の情動、それについて考えた際に必ず浮かび上がって来る自分の定め。足枷として認識していた愛は、生からの解放である死よりも更に厄介で測り知れないものである。まるで人間の心と同様、またこの世を覆っている無限の空と同様である。君は出任せの、特に大して意味のない言葉を言う事が出来る。しかし、私は凡ゆる言葉に何かしらの意味を持たせてしまうのだ。言葉というものは、人間が持つ考えを隠す為に与えられた道具であるにも関わらず。

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