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Thoughts come and go in solitude



何処かの空の下で自分の運命に出会う事は分かっている。私は戦う相手を憎んではおらず、また守る者達を特別愛してはいない。私の国はこの英国、同胞は英国人貴族である。私は何れ死ぬがこの者たちは困りはせず、また取り分け幸福になるものでもない。今正に私が此処にいる理由、それは法律や義務、社会に埋もれている民衆の為ではない。それらは私に戦えと命じはせず、ただ私を駆り立てたのは雲の騒乱宛らの孤独な歓喜の衝動である。全てを比較し、全てを考察したが、今のこの生、この死に比べると来るべき年月は空しい生、過ぎ去った歳月もまた空しい生である。サラもハートと同様に暫く黙っていた。軈て余り響かない冷ややかな声で、出任せの、特に大して意味のない言葉にわざと力を入れながら話し出そうとしたのが彼の目に見て取れた。彼には他人の言動に殆ど意識を向けない癖があった為、無意識の内にそう看取してしまうのであった。
「ガラハッド、貴方が好きよ」
空には雲が垂れ込めていたが、その間から漏れて来る月の光が、これまでは幾らかでも二人の助けとなっていた。しかし、今では月は沈んでおり、雲は殆ど頭上に立ち込めているらしく、夜は洞穴の如く暗くなった。けれども、二人は足音を立てないように、出来る限り草地の上を離れないようにして進んで行ったが、其処には生垣や柵の類がなかった為、そうする事に骨は折れなかった。辺り一面は広々とした寂莫と暗黒の孤独の世界であり、その上を強い風が吹いていた。ハートとサラは任務を終えると予定していた最終地点で合流を果たした。しかし、其処である一人の敵の感知を受けた為に少数による襲撃に遭っていた。轟音とも取れる射撃を浴びせられた後に、足音もなくやって来る静謐。その中で二人はふと視線を合わせた。彼女の米神には銃弾が沿った跡があり、それは耳の上から眉の端にまで流れていたのである。ハートは彼女の左側の視界が悪化する前に此処から離脱する事を考えたが、其処までは依然として距離があった。
「貴方が好き」
ハートはサラの声を聞いた。それは聞き覚えのある、気持ちの良い静かで落ち着いた声、親し気で高ぶらぬ声だった。初め、彼は先程の轟音で負傷した鼓膜が齎す幻聴、接近している死が齎す幻想かと思った。しかし、一度彼女の声を聞くとそれらは払われ、耳を聾する雷のような轟きが取って代わった。それは外耳ではなく内耳を振動させるものであり、荘厳とも形容すべき深い深い沈黙であった。それは血や肉を必要とするものではないが、それ以上のもの、魂や時間を奪うものであった──恐らく私は、何の意味も持たぬこの言葉を信じる事となるだろう。また、私はこの言葉に一種の呪縛を掛けられた事となる。振り払う事が出来ないのは何故か。その因は……彼女ではない、この私自身にある。実際、ハートは自分がこの関係を理解出来ない事を感じ、この相手の女に対してどんな感情を持つべきであるかを自分で明瞭にさせようと努めながらも、それが出来ないでいるのであった。彼女は何を大切にし、何をその胸に秘め、何を哲学としているか。その慎ましやかな現代の鎧の下には自分と同様の血が流れており、死も同様、彼女の中に備わっている。当然の事だ、しかし私は一体いつから、サラ・バラデュールという人間を崇めるようになったのだ?するとその時、サラは弱々しい笑い方をしてハートを見上げた。両手で拳銃に触れ、血で汚れていない側の顔の横で構えている。その指は彼女の全身を象徴するかの如くしなやかで、細く弱々しく、だが決して痩せているのではなく、色は青白いが決して不健康なのではなく、握り締めたならば消えてしまいそうに弱々しいが、非常に微妙な弾力を持っていると見える。指ばかりではなく彼女全体がそのような雰囲気であった。外へと広いた傷口から流れ出て、何本もの細い筋を作っているサラの血、ハートはそれを指の平で拭った。緊張から末梢神経まで強張ったものを、繊細な動作を唐突にさせる事は難しい。その為に、彼女の顔を覆う程に大きい彼の手先は、張った神経を縮ませる為に揺れた。灰色に沈んだ虹彩の隅で、慈悲を知らぬ愚かな彼の手はたった一人を前に瘴気を起こした。その有様を単なる一時の現象として認識した彼には、未だ想像もつかない事であった。軈ては他ならぬこの相手に対し、彼は彼で、自分自身の為に無限の苦しみに耐え忍ばねばならないという事を。途端、ハートは身体の内側にさえもその熱を感じ、黒味掛かった血に塗れた指先を思わずじっと見詰めた。恐らく、恋人宛らの行為をした為であろう。死は近い。特に我々のような人間にとって死というものは親しみ深いものである。死がどのようなものであるかを知らないのにも関わらず……。先に死に導かれた戦友達は果たして何処にいるのか。もしかすると何処かで生きており、一番小さな芽が生えても死ぬという事が本当はないのではないかと思えて来る。例え死ぬ事があったとしてもそれは命を押し進めたものであって、命を終点で引っ捕えようと待つものではない。命が現れると同時に途絶えただけの事である。凡ゆるものは前へ、外へと進み、何一つ崩れ去る事はない。そして、死ぬという事は誰もが思ったものとは異なり、ずっと幸福であるかも知れない。なあ、君、そうは思わないか──口も利かずに互いを見詰めていた二人は、祈りを捧げているかの如く大地に身を潜め、長い間身動ぎもしなかった。垂れ下がった前髪は静かに揺れ続け、赤い一点は草の平に滴り続けた。気力を回復するなり二人は立ち上がり、再び走って行った。

任務の最中に負傷したサラは治療を受けており、復帰に時間は要しない程度のものであった。ハートは本部から辞すると帰路に就いた。車内では首都の営みの音は遮断され、後方へと流れて行く景色を目に映しながら彼は自分の思考の流れに従った。固く閉じられた目蓋、青白い肌、燃え上がったような真っ赤な血の色、そして何処にも見当たらないあの言葉の面影。恐れていた通りの事が起きていると知ったら、あの時の私はどうするだろうか。単なる炭素の集合体である敵が発する凶器により、頭を貫かれた方が救いであると考えるであろう。しかし私は彼女と共に帰還をしてしまった。そして私は戦場から持ち帰った幻想を、何の意味も持たぬあの言葉を信じる事となり、あの言葉に一種の呪縛を掛けられた身となった。自覚をしていても振り払う事が出来ないのは何故か。その因は確かにこの私自身にあったという訳である。ハートの脳裡には『あんな言葉を信じたの?』と無垢に笑うサラが存在しており、またその隣には彼女と対照的な自分自身、彼女の魂を翻弄する事すら出来ぬ惨めな自分が存在していた。明かりの強い治療室、寝台に横たわった彼女の表情から看取する事が出来た小さな阻喪。珍しく感傷的となったハートは彼女の手を取ると、力付けるようにそれを握り締めながら、繰り返し繰り返し彼女の呼吸と息を合わせた。彼が彼女の肉体に触れたのはこれで二度目であった。彼はあの青白く弱々しい癖に芯の方で火でも燃えているのではないかと思われる、熱っぽく弾力のある彼女の手先の不思議な感触を明瞭に意識し、いつまでもそれを覚えていた。また、あの限りなく魅惑的な美しい灰色の眼。その眼の中で溶け合っている崇厳と謙抑の表情。澄んだ屈託のない声は冷たい空気の中に広がり、他の何ものにも邪魔されない、澱んだ薄暗がりに満ちた仄暗い魂の中で、ただ一つの心を慰めるものとなっていた。『どれ程の男が君の晴れやかで優雅な姿を愛したかを、偽りの愛や真実の愛で君の美しさを愛したかを、だが一人の男が巡礼を続ける君の魂を愛したのを、表情豊かな君の顔に宿る悲しみを愛したのを。』古い詩の一節が、何故かハートの頭に閃いた。港を斜めに横切っている艀舟の明かり、駅の構内の網目の如く入れ交った赤と白の無数のカンテラ灯、それから白の線や十字形と房状の滲みが所々に散っている、眠れる都市の上に掛かるぼっと霞んだ夜空の広がり。夜の摩天楼は煤煙と星々の中に朧に聳え、魂を持っている。ハートは車の窓を開けた。木の葉は数多くても幹は一つ。偽りの日々が続く間、神は我々に陽光を浴びせ葉と花を揺すらせた。今は真理の中へ萎んで行くか──ひとり、サラへの想いは夜風に抱えられて遠ざかる。彼はこんなに悲しい風の音を聞いた事がなかった。こんなに軽快とした風の音を聞いた事がなかった。

Sampha - (No One Knows Me) Like the Piano