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Say my name, if no one is around you



宵の内は過ぎて夜が訪れた。サラが表階段へと出た時には、外は真っ暗で湿っぽく生暖かかった。春先の残雪を溶かして一層拡がって行く、あの白い靄が庭一面に立ち込めていた。屋敷付近の崖下を流れる川からは異様な物音が聞こえ、軈てそれは氷の割れる音である事が分かった。彼女の双眸に長年映っていた景色は英国のものではなかったが、騒々たる首都内の仕立て屋から見える景色よりかは遥かに此方の方が好きであった。広漠な田舎の中に構えている諜報機関の拠点。先代が平和の為にという願いを込めて造ったという建造物は、時代遅れの古びた外観を持っていた。しかし、その美的感覚は末裔の遺伝子に受け継がれているのか、初めてこの建物を見上げた時は思わず息を呑んだ程であった。美、畏敬、恐怖など、胸の内に生まれたその感情を何と名付けるかは人によって異なるが──階段を上がって中へと入り、長く続いているヴィクトリア調の廊下を歩く。嘗ての栄華を極めた貴族階級の嗜好を至るところに施した内装は一見魅力的ではあるが、サラの眼には、死のような沈黙がこの建物全体を支配しているように思われた。限りない秘密を胸に抱え、死の表情に捕われた幾多もの戦士が散って行くのを無心に俯瞰していた建物。またそれと同時に、社会に居場所を見出す事が出来ない人間の拠り所であり、世界各地で死に絶えた戦士の魂が帰る場所でもあった。
『貴方の本当の名前は?』
数年前。ある一室に集ったキングスマンはアーサーによる紹介でサラを知った。下ろし立ての背広を身に纏った数人の英国人は、異邦人の顔立ちと名に嘲笑とも言える微笑を彼女に投げ掛けた。その中に一人、『全くもって場違いな女が諜報員として来たが、この女は一体どういう人なんだろう』という好奇を寄せた様子で、目には言い難い情の思いを漲らせながら、少しの間彼女を見詰めていた二つの目──マーリンという名を持つ諜報員は彼女にある一つの幻想を見せた。彼女は彼の大きな目と眼を合わせる事をしていないにも関わらず、自分の心臓の音が耳を澄ませずとも聞こえて来るようであった。生まれてこの方、自分に付いて回っているこの音が、いつか絶える事は容易に想像出来ていた。しかし、彼女は幸福というものを知らなかった。生ある内に、この音が幸福を謳うのを想像する事が出来なかった。彼女には本当の想像力というものがない。それでもこの心臓の鼓動が嬉々として生を謳歌するその瞬間を、彼の慎ましやかな視線は彼女に幻想という形で見事に頭に思い描かせたのである。
『本名を教える事は規則に反する』
『良いじゃない、唯の名前よ』
『そうだな』
『本気で教えない気ね』
『知ってどうする』
『私はサラ、サラ・バラデュールって言うの』
この人は私に一体何を与えてくれるだろう。他所から遥々やって来た異邦人である私に、この生真面目そうな人は何を与えてくれるだろう。もしかすると、今まで知り得る事が出来なかった完全なる歓喜というものを、遂に私はこの人から教わるのであろうか……。サラは自分自身に言って聞かせるように、それ以上考えまいとした。様々な類の眼差しに囲まれ、マーリン以外の視線に応えようと努めた。一室の外には異国の空、英国特有の分厚い雲に覆われた空が存在しており、自分の思考の向きを変えようとして更に努力をした。あの時あの一室に集ったキングスマンは、今では片手で数える程度にまで減り、時代もまた急激に加速したようであったが、サラのその虚しい努力というものは今も尚続けていた。彼はいつになったら胸の内を明かすだろう?彼が口を堅く閉ざしている内に次々と戦士はあの世へ行き、自分の中に備わっていた筈の感情が悉く失われていった。彼女はふと思った。今こうして長い廊下を歩き、記憶を思い返してみると、マーリンが自分の名を呼んだ時というのは、決まって周りに誰もいない時であった。
『名に価値はないよ。他人を識別する為のものに過ぎない。"マーリン"もそうだ』
「──サラ」
意識を呼び戻された際に、用紙を持っていたサラの指が僅かに震えた。それは自分の本当の名を知っている数少ない人間、そしてあの幻想の一角を自分に見せた人物。眼前に佇む魔術師は、例え彼女のそれが小さな動作であろうとも見逃す事をしない。些細な変化とそれに対する直感を拾う事を訓練された彼は、彼女の灰色の瞳に小さな合図を送って寄越した。幾らか心配そうなその顔、彫りが深い為に些か冷徹に感じられる顔が微笑むのが見えた。しかし、サラは心が閉じるのを感じ、その微笑に応える事さえ出来なかった。
「何か気になる事でも?」
「いいえ、何でもない」
サラ・バラデュールという人間は黙考型で、何処かぼんやりとしている風采であった。感じの良い顔立ちで、眼差しが時折妙に固定する事があった。酷く放心状態にある人々全てと同様、じっと長い間見詰めていながら、相手の姿なんぞ丸切り眼に入っていない事が時折あるのだ。口数が少なく些か融通の利かない方であったが、誰かと一対一の時に限って不意に恐ろしく饒舌になり、歳が若い事も相俟って、話し込んでは笑い上戸になり、時には何が可笑しいのか分からないのに笑い崩れる事もあった。しかし、こんな生気もその生じ方が急激であるのと同様に、直ぐにふっと消えてしまうのだった。また、貴族階級出身である彼女は常に立派な、垢抜けたとさえ言える服装をしていた。既にある程度の独立した資産を持っており、更にずっと多くのものが入る事となっていた。騒がしく俗物な凡ゆるものから、常に遠く離れたところに彼女は存在している人間であったが、薄幸で天涯孤独であった。
「君が"ヘレネー"というコードネームを与えられた、その経緯を知っているか?」
「知らないわ、教えてくれるの?」
「君の本名、バラデュールと掛けている。因みに提案したのは私だ」
本名すら教えない男が得意気に口を開いた。発音する事が難しいサラの名を、マーリンという男は呼吸するかの如く正しく音に変える。鼻から音を抜けさせるその独特の響きは、異国の血が混じるものであり、母国以外では異邦人を明瞭に示すものである。慣れ親しむ事を殆どしない島国の人間が口にするには難しい音、しかしこの男はそれを最も美しい音とする事が出来た。それともう一人、格別響きの高い、歌うような貴族らしい上低音でものを言う男もまた同様であった。サラを見ながら答えたマーリンのその目付きには、何か特別なものが感じられた為、彼女をはっとさせた。
「さてヘレネー、任務についてだが、」
「私、貴方の秘密を知っているわ」
「……何だって?」
「秘密主義である貴方の全てを知るのは不可能だけど、一つだけ知ってる」
マーリンの胸には後悔の念が滾り始めた。彼が恐れたのは、正に他ならぬサラ・バラデュールという人間だった。彼女の面影は美しい、気位の高い、些か高圧的な娘として記憶に残っていた。しかし、彼を苦しめていたのは彼女の美しさではなく、何か他のものだった。つまり、自分の恐怖を説明出来ない事がその恐ろしさを一層強めていたのである。彼女の目的が他のキングスマンと同様であり、それが極めて立派なものである事は彼にも分かっていた。そしてそれを認め、そうした美しい寛大な気持ちを正しいものと見做さずにはいられなかったにも関わらず、彼女の魂に近付くと背筋を悪寒が走り抜けるのだった。それは何故か──正にその時、マーリンの目に火薬の如く燃え上がったもの。ガラハッドとは異なり、感情を容易に看取する事が出来る二つの目。その目は自分やガラハッドが持つ翳りとは無縁のものであるように、サラには思われた。
「それを、私が持つ限りある秘密の一つとするわ」
「君は分かっていない」
「何を?」
「君は秘密そのもの、私が知るのはサラ・バラデュールという名だけだ」
興奮をじっと抑え、何かを隠しているようなサラの表情には見慣れているとはいえ、依然としてマーリンを魅惑して止まぬ美しさと、その美しさを意識する気持ちと、その美しさで相手に働き掛けるという無意識の内の願望の他には、何一つ見出す事は出来なかった。彼は胸の内で言葉を続けた。私の日々を惨めさで満たしたからとて、何故彼女を咎めねばならない?近頃は無知な者達に乱暴極まる手立てを教え、死を恐れぬ愛国心という名の勇気を授けたとて……高貴だからこそ火の如く純化した心と、引き絞った弓のような美しさを、このような時代には滅多に見る事が出来ない類の美しさを与えられた女性が、気高くて孤独で、容赦のないこの人がどうして平穏に、私の思い通りに生きる事が出来るであろう。全くこういう人だ、平凡な私には手に余る。しかし、彼女が存在しない心臓を燃え上がらせようにも一体それは何処にある?神から与えられた火の臓器はたった一つ、今正に此処にある……。マーリンはその場に釘付けになったまま、サラの様子を見守りながら、自分の心臓の鼓動と屋敷付近の崖下を流れる川から聞えてくる異様な物音とを、同時に聞いていた。靄に包まれた彼方の川面では何やら緩やかな営みが絶え間なく続いており、何か吐息のような音がしたかと思うと、ぱちぱち爆ぜる音がしたり、砕けるような音がしたりして、薄い氷がガラスのように鋭い響きを上げるのだった。

Gallant - Gentleman