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Burns in my soul



ある一室に鳴り渡る電子音が、サラの人工物である心臓に何らかの作用を及ぼしたのはこれが二回目であった。脳波が乱れると鼓動にも影響が出ると言われるが、彼女の心臓はそのような繊細な行動を感知する機能を持たない。彼女は電子音を発するその傍へと歩み寄る事をしたが、一つの盛り上がった四角い物体を指で押す事を躊躇った。オーベルシュタインという単語を成り立たせているその文字一つ一つを二つの眼で何度追い掛けようとも、発信者が変わる事はない。彼は余程の事であっても電話を掛けるという事をしない人間である。以前、職務中に義眼の調子が悪くなった時があったらしいが、暫く日が経ち、定期検査の際にその事をサラ自ら発見した事があった。何故直ぐに知らせてくれなかったのかと問うたが、彼は人形の如く口を閉ざし黙ったままであった。そのような基本的な意思疎通が期待出来ないオーベルシュタインからの通信。そんな事があった為に一回目は酷く驚き、直様受信しようと指を動かした彼女であったが、その際に頭に過った同盟国の諜報員の存在。その日の通信には全て目を通されている事、また、肝心の彼はその時には地に足を付いておらずに宇宙へと駆り出ていた。緊急でも遥か遠く離れた自分に連絡するまいと考えたサラはその通信を受ける事をしなかった。そして今回の通信に対しても彼女の頭には以前の事が過ったが、心臓には無上に強烈な作用を及ぼされたらしく、真面な考えには到底辿り着く事が出来なかった。それに加え、最近の行動からして、彼女とオーベルシュタインが距離を詰めつつある事実も助長させた。物理的な距離は当然の如く、だが心理的な距離は未だ未知であったが、夢宛らの行為に思えたあのようなものは絶えず彼女の胸に鋭利に迫った。恋人ではないが、彼のあの天色の双眸からは何の虚偽も感じられず、彼が生まれながらにして持つ憎しみも、二人切りの時には見られなかった。愛があった。それは燦然と輝いて見せるものではなく、決して姿を消す事のない澄み渡った無限の空の如く、それは二つの目の奥に明瞭に存在していた。
「はい」
小さな画面にはオーベルシュタインの姿形は映されてはおらず、唯サラの一室の壁を透き通らせているのみであった。受信してからというもの、彼女はすっかり落ち着きを失い、二本の腕を緩く組んだり、またその小さな画面を気にしないように手で顔を覆ったりした。空白であったのはたった数秒だが、その間、心臓は何千回も鼓動したように思え、また頭の中では彼が持つ唯一無二の声が想起された。ああ、そうだ、あの声……あの声がとても気に入っていると彼に伝えた事がない。彼はどのような反応をするだろう。この通信は諜報員に傍受されている事を知る彼女は、その暗澹な現実から逃れるように窓の外へと視線を投げた。当然外には何もない、しかし宇宙には彼がいる。この世の果てから私唯一人を選んだ彼が彼処にはいる。サラは一片の雲もない高い青空を眺めた。あれが無限の空間であり、巨大な丸天井でない事ぐらい私だって知っている。しかしどれ程に眼を細くしても、どれ程に視力を緊張させてみても、あれを丸くないものとも、果てのないものとも見る事は出来ない。あれが無限の空間という知識は持っているのにも関わらず、今私が空色のはっきりとした丸天井を認めている事は正に事実なのだ。いや、あの丸天井の彼方を見極めようと、向きになっている私よりも余程正しい訳だ。サラはもはや考える事を止めて、何やら喜ばしげに熱心に語り合っている内なる神秘の声に、耳を澄ましてでもいるような気持ちになった。
『其方は変わりないか』
この言葉は深くサラの心中に染み込み、二人切りで過ごした時のオーベルシュタインの言葉の調子までが未だ自分の耳に残っているような気がした。しかしそうした事の重大さについては、こうして後になって初めてそれと思い当たるものである。彼女はその空から視線を外す事をせず、眼では捉える事の出来ない冥冥たる宇宙の姿に魂を向けた。貴方の一眼でも一言でも、私にとってはこの世の凡ゆる知恵にも増して嬉しいのです。彼女は彼が自分に向ける静謐な愛に対し、胸の内でこう返答をした。この世のあらゆる知恵にも増して、嬉しいのです……。見掛けは淑やかな愛の姿、激し過ぎる程の愛の姿よ、どうしたというのだ。隠れた路によってあなたは私達を苦悩から微笑へ、また、あの厳しい掟からこの上もなく無邪気な歓喜の方へ、もう導いて行ってしまったのか?サラは自分で僅かにだが息を呑んだ事が分かった。

人々は銀河帝国が歌うのを聞き、その様々な喜びの歌を子供達は聞く。兵士達の歌を、銘銘が自らの歌をそれに相応しく陽気に力強く歌うのを。昼には昼につきものの歌を、夜には逞しい若人達の一団が、口を大きく開き彼等の希望ある調子の良い歌を歌うのを。大地は右手左手に広がり、生きている絵の如く何処もかしこも最上の明かりに照らされ、音楽は望まれるところに集まり、また望まれないところへと消え、公共の路には愉快な声、陽気な爽やかな感情が姿を見せる。偉大なる黄金の存在が齎す影の中を歩きながらその耳で聞いた兵士達の歓声、それが未だオーベルシュタインの頭の中に残存していた。己の先を歩み行く皇帝を讃える民の声、それらは銀河帝国の鼓動であり、彼等の血脈である。己の歩んでいる路に映る一つの小さな影もまた、この国の民であり同志である。私は答える、私は君から離れる事を微塵も恐れないであろう。しかし私は君を愛している。君は私が自分自身を表現する以上に、見事に私を表現して見せる。君は私にとって私の詩以上のものとなるであろう。私は思う、君が歩む路で何に出会おうとも、君がそれを心より愛す事が出来るようにと。そして君が見るものは全て、君の眼に映るに値するものであるようにと。また君が見る人間は皆幸福でなくてはならないと。オーベルシュタインは己に慎ましい視線を注ぎ続ける一つの小さな影へと瞳を転じた。その明眸は翳る事を知らず、真っ直ぐに彼の魂を映していた。この一つの空の下、日の光が差したサラの瞳は銀色に輝くと、銀河帝国の地に再び足を付いた男の姿を捉えた。長い遠征であったように思われたが、不思議な事に、彼女は一日たりとも彼を想起しない日はなかった。オーベルシュタインからの通信があった時からはそれは顕著になり、気が付けば時刻により姿を変化させて見せる空を見上げている事が多くなっていった。宇宙はこのように我々にその姿を変えて見せるのであろうか?また宇宙に眼を細める程の燦然たる光というものはあるのであろうか?全きの静謐の中で、大いなる宇宙の腕の中で祖国の為、皇帝の為に命を捧げるというのは?サラの頭に幾度も蔓延った幻想、オーベルシュタインが戦地より帰還しないかも知れないという懸念が見せた幻想は、日々姿を変える空にそっくり映ったように彼女には思われた。どんよりとした空は軈てその意味を明らかにし、雨の先触れの雫を落とし始め、日中の淀んだ空気は気紛れな微風に変わり、彼女の顔の辺りに戯れた。川や水溜りの水銀宛らの光沢は消え失せ、広い光の鏡から鑢宛らの表面を持った輝きのない鉛の板に変わった時もあった。しかしそのような光景は、彼女の一途な思いを少しも動かしはしなかった。サラの眼差しが持つ不思議な光は、彼女の顔をこの世のものとも思われぬ天使のような美しさで満たしていた。オーベルシュタインはその眼差しを浴びながらも微笑すら浮かべなかったが、彼女が彼の手を優しく取るのを拒む事をしなかった。彼が幾分かその手を握り締めると、彼女がふと彼の方へ身を寄せた。彼は自分でも何故そうなったのか分からぬまま、彼女の方へ顔を近付けた。何か言いたい事があるのだろうか。前方へ身体を傾けると、サラは避ける様子を見せず、彼女は彼の手を強く握り締め、その痩せた頬に接吻した。
「ごめんなさい、口紅が付いてしまいました」
「いや──変わりないか」
オーベルシュタインは己の胸の中で、心臓がゆっくりと緊張した鼓動を始めた事が分かった。それはこのサラに、天上に近い位置より通信を送ろうとした際に見舞われたあの強烈な緊張ではなく、全く異なる、愛憐さを持ち合わせたものであった。勿論その愛憐の情は彼から彼女に対するものであったが、彼が何より驚愕したのは、それは彼女から彼に対するものでもあったという事であった。もしや彼女はこの私を?真逆、そんな事が有り得るだろうか。幾度となくこの幻想に心を乱され、また幾度となく失望して来たものだが、たった今彼女はこの私に何をした?オーベルシュタインがサラと初めて繋がった通信で発した言葉と同様のものを再度発すると、彼女は彼が望んでいた微笑を浮かべて見せた。途端、彼の脳裏に隙間なく積み上げられていた、長い遠征での出来事やそれに纏わる思考やらが一挙に意識の外へと追いやられた。一つの微笑により、彼は彼女が持つ明るい世界へと拉せられたのである。サラの赤色の豊かな唇はたった今咲いた花のようであり、秀麗であるが、何か心を狂わせる危険なものに彼には思われた。しかし例えどれ程に危険であろうとも、心が狂い様々な幻想を抱くに至ろうとも、オーベルシュタインはその唇、その眼差しから逃れる術を持ってはいない。彼が持つ深い闇を払うものは彼女の他にこの世に在らず、例え一時の幻想であろうとも彼はそれを求めるであろう。彼女は少しばかり口紅が付き、血色が良くなった彼の頬を柔らかな指で撫でた。
「ええ。パウルさんは?義眼の調子はどうでしたか」
「不調になる事はなかった、一度も」
「遠征と聞いて設計を改めたのです。宇宙へ行った事がない人間に出来る事は限られていますが……でも、兎に角、ご無事で安心しました」
サラはこの最後の言葉を言いながら、今にも泣き出しそうな風情を見せた。最も、その言葉をよく吟味してみれば特に大した意味を持っていないか、或いは極めて曖昧な意味しか持っていないのだが、それでもオーベルシュタインにはそれが並々ならぬ深みと、誠実さと、善良さに溢れた言葉のように思われた。そして、その言葉と共に彼に向けられた、若く艶やかな、美しい女のきらきらした眼差しはすっかり彼の心を捉えてしまった。彼は黙って彼女を眺めていた。いや、その顔から彼は目を離す事が出来なかった。この世に生きる人間全てに与えられる幸福の可能性というもの、それは眼前にいるサラであるかも知れない。やっとその姿を見せた幸福、幸福とは彼女の事であろうか。また、彼女を幸福とする己自身であろうか──己の魂よ、お前がこの身体に存在する限り幾度となく燃えるがいい。大いに憂悶し、大いに苦衷し、大いに愛を讃えるが良い。それもお前が此処にいてこそだ、全てはお前の中で燃え、お前の中で終わる。それまで幾度となく私の為に、また他の誰でもない彼女の為に燃えるが良い。

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